ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

セルバンテスの「ドン・キホーテ」

2006年01月09日 09時12分18秒 | Weblog
毎日新聞の日曜読書欄に紹介した辻原登さんの引用文を再録する。


「やあ、やあ、これは大事!」サンチョが叫んだ。
①「旦那様、おらがあれほど申上げましたのに、ご自分のなさることに十分お気をつけ下さいましって。あんなのは只の風車でしかございませんとも? こちらの頭の中に、あれと似たものが回っていない限り、誰にだって分ることですとも?」
「黙りおれ、サンチョ。」テス
ドン・キホーテが居丈だかに答えて言った。

②「もう、嫌だなあ」従者がこぼす。
「言ったじゃありませんか、風早だと。見れば判ることなのに、頭の中でも風車が回ってるんですか、くるくるパーと」
「そう申すな、おぬしのことを友達だと思っているのに」と主人が窘めた。

①が1965年の堀口大学訳で、②が荻内勝之さんの新訳。
こんない訳が違うものか。辻原さんは刊行を記念した全篇リレー朗読会があり、圧巻だったのは後篇第12章からの鏡の騎士との対決場面で講談師田辺一凛さんが読んだときのことを紹介している。「会場は興奮のルスボと化した」という。近代小説の翻訳日本語そのものが講談たりうる稀有な瞬間を評者は味わったことを書いている。

たしかにドン・キホーテは長い。しかし長いのならトルストイの「戦争と平和」も長いし、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」も長い。しかし途中で投げ出した人はあまりきかないーと評者辻原さんの弁。「ドン・キホーテ」は面白いが日本では創作の影響は少なかったのではないかというわけだ。

たしかに私も「ドン・キホーテ」を読んでいない。それな訳者の責任より本人の問題が多いように思うのだが。

ドストエフスキーは、「最も悲しい本」と呼んだ。そして、彼のドン・キホーテ、「白痴」を書いた。フローベールは「ボヴアリー夫人」を書いた。日本では大江健三郎さんがドン・キホーテを読み込むことで『憂い顔の童子』を書いた。」と続ける。辻原さんが「慶賀至極」と結ぶのはこの荻内勝之さん訳が日本での『白雉』を、『ボヴアリー夫人』を期待するからだ。それほどほれ込んだ新訳なのだ。

ところで新訳といえば、近年多くの力作が出た。マルクスの「資本論」、ヘーゲルの「精神現象学」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、プルーストの「失われた時を求めて」など。これにセルバンテスの「ドン・キホーテ」が加わったわけだ。どれか1つでもじっくり読んでみたい。北方謙三北方譲三『水滸伝』全19巻(集英社、各1680円)も現代版「新訳」かもしれない。

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2 コメント

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ドン・キホーテ翻訳比較 (tokio257)
2006-03-15 10:45:21
 ドン・キホーテで検索したら圧倒的にディスカウントショップの記事が多いのには少々がっかりでしたが、やっとブログ「わかやん」にたどり着きました。

 堀口大学と荻内勝之(敬称略)の翻訳を比較しておられますが、堀口大学の翻訳なんてずいぶん古いのに珍しい。失礼ながら「わかやん」さんも私と同年配でしょうか。

 荻内さんの訳は確かに読みやすいので、なんとか読み通せそうですが、ところどころ筆が滑りすぎのような気がします。
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Unknown (kawayann)
2006-03-17 01:30:11
たしかに読みやすいのが財産でして、これはいままでなかったと思います。またそのことで読み通せるのではと思っています。戦後生まれです。
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