あまでうす日記

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晶文社版「吉本隆明全集34」を読んで

2024-06-24 09:38:24 | Weblog

「吉本隆明全集34」を読んで

 

照る日曇る日 第2066回

 

第1部はとても丁寧に書かれた興味深く正統的!?な漱石論だが、私としてはそれ以上に刺激的だったのは、第2部のメディア論、第3部&第4部の雑文短文集、そして第5部のいろんな書物の「まえがき」「あとがき」アラカルトだった。

 

しかしながらもはや小生には、それらをうまく引用しながら、ちゃんとした感想文を認める余裕も実力もてんでないので、「だいたいでええじゃないか」とばかりに、すべてを端折りながら短くコメントしてみようか。

 

近代詩にとって詩を詩たらしめるための最後の言語技術は、詩の<意味>にできるかぎり変更を加えないで散文に比較して<価値>を増殖させて、散文からの分離と飛躍を実現させることであった。「詩学叙説」

 

埴谷雄高さんが何度か与えてくれた訓戒は、いつもたった一つだった。他人をバカ呼ばわりした文章を書いたり、喋った対談など止めた方がいい、ということだった。何の意味もないじゃないかという理由からだ。「埴谷さんの訓戒」

 

天台宗の最澄が根本教典として固守し、古典主義者である日蓮が評価したのは、法華経の中にある2人の母(天上の母と地上の母)という観念だった。これは宮沢賢治も固執するところで、「銀河鉄道の夜」のカムパネラとジョバンニの母とは、それぞれ天上の母と地上の母を象徴するものとなっている。「入沢康夫と天沢退二郎」

 

マルクスは資本家個人を批判したのではなく、労働者を搾取する制度そのものを批判しただけなのは「資本論」をよめば分かる。ところがロシア共産主義がそれを労働者対資本家の乱暴な二分法へと捻じ曲げ、不毛な階級対立を煽り立てた。共産主義が崩壊したといっても「資本論」の価値は衰えていないと思います。「ファーブル昆虫記」

 

新約聖書では、「永遠」は神の属性なのだが、親鸞では、父母と子の世代的な歴史の連鎖が無限にさかのぼることと見なしうるものとして、「永遠」が考えられる。「永遠と現在」

 

吉本隆明が「西行の色」で「うぐいすの古巣より立つほととぎすあゐよりも濃き声の色かな」という歌を挙げ、「たぶん「声の色」や「風の色」を最初に感受し、感受したところを詩歌表現にしたのは、西行が最初だったにちがいない」と述べたのは慧眼だと思った。

 

また吉本は「大原富枝 碑文」で彼女を戦後最大の女流作家と位置づけ、「「この作家こそ「一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思うべし。その一人は」わたしです、と言える人ではないか」と、親鸞の箴言を引いて激賞している。「婉という女」を読んでみなくちゃ。

 

高橋源一郎を最初に認めたのは吉本だった、と源一郎自身が言明しているが、その高橋源一郎論では、彼はあえてマイナスの札を出し続けて、最後の最後の突然変異で、そのすべてのマイナスがプラスに転じる「完黙の詩人」と定義しているのが面白かった。源一郎は、後ずさりしながら大きくなっていく文学者だというのである。

 

けれども吉本隆明の最も大事な発言はこれだろう。

「日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向指していることは疑問の余地がない。それなのになぜ日本の政治家や政党は、日本国憲法の主意に沿ってそのことを国際的に提起しようとせず、最悪の歴史、最悪の未来を齎す傾向に追従しようとするのだろうか?」「超戦争論下まえがき」

 

伯父さんのフェラーリの助手席で我もセレブの一員となる 蝶人

 

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