行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「強い絆」と「柔らかい縁」をつなぐメディアの役割

2016-06-22 21:47:37 | 日記
先日、友人の結婚パーティーでスピーチをした際、突然、ある人物が頭をよぎった。不思議な体験であった。奇異に思われるだろうが、その人物とはカナダ出身の英文学者、ハーバート・マーシャル・マクルーハン(Herbert Marshall McLuhan、1911~1980)だ。メディア研究の名著『Understanding Media: the Extensions of Man』(1964)=邦訳『メディア論――人間の拡張の諸相』(みすず書房)の筆者として知られる。



一般にメディアは新聞、テレビなどの報道機関を指すが、マクルーハンは「メディアはメッセージだ」と斬新な定義をし、テクノロジーと同様、人間の身体を拡張させたものだと主張した。自動車や自転車は足の拡張、ラジオは耳の拡張で、それぞれメッセージを伝える装置となる。単に言葉と言っても、空気がなければ伝わらないから、空気もメディだということになる。独立した思考による新たな理論は、たとえそれに異論が挟まれたとしても、精神の優れた営みとして尊敬に値する。たとえ半世紀以上を経ようと、時空を超えた真理への追求によって共感を与えるものだ。

なぜ彼のことが思い浮かんだのか。簡単に言えば、音声でメッセージを伝えることの難しさを感じたからだ。

友人の新郎は大学時代の同級生だった。新婦とはいわゆる結婚相談所主催のパーティーで約1年前、知り合った。学校や職場、趣味などで知り合ったケースや友人知人の紹介を受けた関係は、そもそもその土台にある社会関係がしっかりしている「強い絆」だ。昨今、しばしば耳にするネットでの出会いなどを含めたそれ以外の関係は、一昔前には考えなれなかった現代的な「柔らかい縁」である。

当初、新郎新婦は披露パーティーも予定しておらず、「柔らかい縁」に準じて結婚の儀を済ませようと考えていた。だが、私たちの仲間が動いて「強い絆」によるかなり本格的な披露宴が行われた経緯があった。学生時代の恩師も招き、学生時代の友人のほか現在の職場などを含め計4グループが参加した。十分な準備期間はなかったが周到な進行が練られた。

「強い絆」は伝統的にある組織を主体とした関係である。「柔らかい縁」とは組織の背景を持たない、だが一定の価値観を共有した新たな形態のネットワークで生まれる関係である。前者が同質、単一なのに対し、後者は多様、柔軟の性格を持つと言ってよい。仏哲学者リオタールの言葉を強引に用いれば、「大きな物語」と「小さな物語」の違いである。

結婚パーティーは「強い絆」が「柔らかい縁」を取り囲んで祝福する場であった。友人代表としてあいさつを求められた私はまず、四つある「強い絆」のまとまりが「柔らかい縁」を共有できるような内容を心掛けた。仲人もおらず、当の新郎が出席者に対し、なれそめなどの話を十分にしていなかったため、かなり難渋した挙句、長くなり過ぎて野次を受ける始末だった。会場の空気を振動させ、メッセージを音声で伝える難しさを体で感じ、マクルーハンの言葉がよみがえったというわけだった。

「空気」は単に音声を運ぶだけでなく、いかに発声するか、つまりいかなる内容を現場の「空気」に応じて伝えるか、にもかかわっていた。聴衆の空気を目で見て、耳で聞き、肌で感じ、まさに五感を動員してメッセージを伝えることが、つまりメディアなのだと感じた。マイクも必要だったが、それはあまりメッセージにおいて重要ではなかった。相手は目の前にいたからだ。もし文字で伝えなけれなならないとしたら、五感よりも大脳をフル回転しなければならなかっただろう。現場から離れるにしたがって、メディアは臨場感を失い、伝わる力も弱まるのである。

会場には生のブラスバンド演奏も披露され、盛況のうちに幕を閉じた。完全な手作りではあったが、「強い絆」と「柔らかい縁」が響き合ったよい宴だった。メディアは「大きな物語」と「小さな物語」をつなぐ役割を果たしたのではないか、とホッとした。

【独立記者論㉓】部数の呪縛が見過ごす権威と独立

2016-06-22 11:23:02 | 独立記者論
英紙『ザ・タイムズ』の元編集長、ウイッカム・スティード氏が残した名著『THE PRESS』(1938)=邦訳『理想の新聞』浅井泰範訳(みすず書房)は最終章で「理想の新聞」を語る。新聞の権威が失われた深刻な現状認識に基づくものだ。彼はそれを「バラバラになった無目的の事象」と呼ぶ。「そのために生き、必要とあればそのために死んでもいいと思えるような理念」、「精神的な価値」を書いた社会、つまり信仰不在の社会を反映したものだ。

理想の新聞は、ニュースを最重視し、「印刷に値するすべてのニュース」(ニューヨーク・タイムズの一面にある言葉)を提供し、平和のために死を賭して守るべき価値を描くことにある。スティード氏の思いは次の言葉に凝縮されている。

「私の新聞は、国民の気持を戦争反対にもっていくだけでなく、個人の自由および人権の擁護を促進する側に立った路線を追求する。それが、建設的な国際的援助態勢への道を開くからである。そしてまた、全国的な社会的問題では、私の新聞は、社会の構造そのものを建設的に改良する任務を、あらゆる階層の国民とともに遂行する」

彼の言葉には常に、国家や社会が想定されている。たえず「読者」を繰り返す”新聞大国”の日本とは違う。読者とは大資本によって閉ざされた時間、空間に動員された顧客である。日本の各新聞社が語る言葉に実がないのは、ひとえに時空を超えた価値を追求する姿勢がないことにある。さらにひどいことは、「読者」が隠れ蓑であり、本音は「販売店主」「広告主」にあることを社会がみなお見通しであることだ。

スティード氏は盟友である英紙『ウェストミンスター・ガゼット』の元編集長、ジョン・アルフレッド・スペンダー氏が、新聞の権威と威信の根源がオピニオン・ジャーナリズム=評論新聞にあるとする指摘に賛同する。新聞の発行部数が大資本による数百万部時代を迎え、広告主の目を引く部数が権威であるかのように振る舞う社会に異議申し立てをしたのである。自由な新聞に求められるのは、市民生活に関連のあるべきことについて、恐れず、逃げず、誠実に自説を主張する精神である。スティード氏は言う。

「(※1938年の)いまから五〇年前にロンドンで発行されていた七つの夕刊新聞(そのほとんどが、評論新聞だった)は、いずれも裏小路の薄汚れた小さな事務所でつくられていたし、その部数たるや、いまの水準から見れば、まことに情けないものだったが、いままで生き延びたのはたった三つしかない。しかもスペンダーは言及しなかったが、生き延びた三つの新聞のすべてが、ほんとうの意味での評論新聞ではなくなっている」

大資本による新聞経営は、新聞の価値が内容ではなく、広告や景品にあるとする神話を作り始めた。スティード氏はそこでまたスペンダー氏の夢を語る。それは「もしも自分が自分の意のままになるユートピアを持っていたら、けっして三〇万部以上の部数をもつ新聞の発行を許さない」ものであり、広告主に対し「私たちは一日につき一〇万部以上の部数をけっして売りません」と開き直る新聞の夢想である。

同書の要点は計3回の連載でほぼ書き尽した。自由の成り立ち、新聞の自由の概念、社会の在り方、すべてが違うので安易な比較はできないが、日本のことを考えてみる。スティード氏の「新聞の自由」論を完全に支持するわけではない。時代の背景も異なっている。ただ、完備した宅配制度に支えられ人口当たりの発行部数が世界トップクラスでありながら、新聞の種類が100ほどしかなく、しかも発行部数の世界ランキング10位に、1、2位を含め日本の4大紙が入っていることは誇るべきなのだろうか。寡占状態にある大新聞が理想を失えば、社会に与える影響は極めて甚大だが、その自覚はあるだろうか。

大量発行部数を生んだ一億総中流時代は過去のものである。だが新聞編集の現場は往時の単一な価値基準から抜け切れていない。多様化する社会に対応できないまま、販売店主、広告主とのしがらみに縛られ、「読者」をつかむことに汲々としている。コップの中で争い、共食いさえ始めている。社会に対し理想と責任を語る余裕の生まれるはずがない。新聞が社会を投影するものならば、社会はその身の丈にあった新聞しか持てない。一業種、一企業の問題ではなく社会の問題である。だがかりに、新聞がすでに社会から遊離しているとすれば、新聞大国の中身は想像したくない架空の物語となる。

大きな艦船が沈みかかっている。みんなが一緒に沈んでいるので危機感を深めることができない。自分が少しでも生き延びられればいいという発想しか生まれない。
足を引っ張り合い、集団で異分子をバッシングし、できるだけ雑菌を取り除こうとする。多様性を否定する空間では、個人の自由は全体の自由に置き換えられ、個人の自由を求めるものは閉鎖的なカプセルの中に閉じこもるしかなくなる。個人の独立が存在する余地は生まれない。ここから脱出する方法を語る自由さえバッシングの対象となる。

だがもし、小さなボートに乗り換えて夢の島に行けることになったらどうなるだろうか。奴隷的思考しか持たない人々は、責任の伴わない自由に追い立てられ、我先にとボートに殺到し、定員を超えたところで溺死するだろう。チケット制になったとたん、運命を共にしていたはずの集団はたちどころに分裂し、金と力がのさばり始めるに違いない。

独立した思考によって理想を語ることは、机上の論ではなく目の前にある現実である。

魯迅作『藤野先生』の初稿で「吾師藤野」が消されたわけは?

2016-06-21 22:12:11 | 日記
旧知の福山市日中友好協会会長、佐藤明久氏から本が届いた。上海魯迅記念館編の『中国現代作家手稿及文献国際学術研討会論文集』(上海文化出版社)。2014年8月に行われた学術シンポジウムをまとめたものだ。主として魯迅の直筆原稿を通じた魯迅研究の成果である。





佐藤氏は上海の内山書店で働いていた児島亨氏の三男で、上海魯迅記念館研究員の肩書も持つ。その主要な実績が同文集に含まれている。魯迅が、仙台で医学を学んだ恩師の思い出を振り返った随筆『藤野先生』を書いた際、原稿用紙にはタイトルの部分が黒く塗りつぶされ、「藤野先生」と書かれていた。削られた文字が「吾師藤野」であることを突き止め2011年9月25日、発表したのが佐藤氏だ。



この作業にはもう一人、重要な人物がいる。特殊な撮影方法で解析に協力した魯迅博物館(北京)の専属カメラマン、田中政道氏。田中氏は、魯迅の息子、周海嬰氏の長女、周寧氏を妻に持つ。私は佐藤、田中両氏とも懇意にしているせいもあり、『藤野先生』タイトル問題については奇縁を感じている。

同論文で佐藤氏が指摘しているが、タイトル塗りつぶしについて、日本では当初、ほとんど注目されなかった。中国で反響があり、それがネットで日本に返ってきた、ということだ。興味深い日中情報伝達の現状である。魯迅は中国では何といっても近現代を代表する作家であり、もともと文字を非常に重んじる国でもあるので、大きな反響にはうなづける。内山完造をはじめ日本人との交遊も深いので、それが海を越えた土台にあるのだろう。

「吾師藤野」だけのタイトルはあり得ないので、オリジナルは「吾師藤野先生」だった可能性が高い。ではなぜ変わったのか。新たな資料が見つからない限り、真相を知ることは難しいが、同作品に新たな光が当てられること自体は好ましい。魯迅の対日観、対日本人観に大きな影響を与えたのが、仙台医学専門学校で解剖学を学んだ藤野厳九郎教授であることは間違いない。

外見に無頓着で、周樹人(魯迅の本名)のノートを細かく添削し、抜け落ちている個所を加筆し、文法の誤りまで直してあった。だが、授業の合間に見た記録映像が魯迅の人生を一変させる。ロシアのスパイをしたとして中国人が日本の兵士に銃殺されるシーだったが、物見遊山で見守る中国人が「万歳!」と歓声を上げるのを見て、魯迅は「あぁ、何も考えられない!(无法可想)」と嘆き、身体ではなく精神の改造へと転向する。

別れを告げに来た周樹人に藤野先生は、裏に「惜別」と書いた自分の写真を贈る。




藤野先生は魯迅に便りを送るよう言いつけるが、魯迅はその後、伝えるべき境遇がないと思っているうちに、とうとう消息が絶えた。だが、藤野先生の面影は忘れがたく魯迅の脳裏に焼き付いていた。同作品には、拙訳で恐縮だが、こう書かれている。

「私が師と認める人物の中で、彼は最も私を感動させ、私を励ましてくれた一人だ。折に触れ私はいつも思う。彼の私に対する熱意ある希望やたゆまぬ教えは、小さく言えば中国のため、つまり中国に新たな医学が生まれるよう望むからであり、大きく言えば、学術のため、つまり新たな医学が中国に伝わるように望むからだ。彼の性格は、私の目の中で心の中で偉大である。彼の名は多くの人が知らないけれども」

魯迅は藤野先生の写真を大切に持っていた。

「毎晩、疲れて、休憩したいと思うときは、電灯の下で、黒く痩せた彼の表情をちらっと眼を向けると、今にも抑揚のある口ぶりで話しかけそうに見える。すると私はたちまち良心を発見し、勇気を与えられるのだ」

『藤野先生』を書いたのは1926年10月12日。1902年から09年までの日本留学を終え、北京大学などで教鞭をとりながら新思潮をリードする文学者として注目されていた。ちょうどアモイ大学教授として赴任した直後である。

日本は侵略姿勢をむき出しにし、中国各地で抗日運動が広がっていた。恩師の母国から届く知らせに胸を痛めながら、師への思慕は暗い電灯の中でより深く心のひだを満たしたに違いない。外国人に技術を教えられる立場から、祖国の青年に精神を教える立場に変わり、改めて音信の途絶えた「師」の胸中を思ったことだろう。最高の敬意を示す「吾師」への思いは、題から外し、むしろ行間に満々と投影させることを選んだのではないか。それがよりふさわしい恩師への便りだったということだ。

佐藤氏の論文を読み、改めて『藤野先生』を読み返したら、そう感じられた。

【独立記者論㉒】「不作為の罪は作為の罪と同様、自由を侵害する」

2016-06-21 15:54:49 | 独立記者論
英紙『ザ・タイムズ』の元編集長、ウイッカム・スティード氏の『THE PRESS』(邦訳『理想の新聞』浅井泰範訳、みすず書房)が書かれたのは1938年、ドイツにはヒットラー、イタリアにはムッソリーニの全体主義体制が台頭し、ソ連ではスターリンによる独裁体制が敷かれていた。ヒットラーが英国政府に対し、英国メディアのナチス批判を統制するよう要請し、多くの英国メディアが沈黙した。同書には、新聞の自由を信奉するスティード氏の怒りと危機感が貫かれている。同氏は、広告主の横暴を許容する新聞を「商業ジャーナリズム」として非難する。

彼は「不作為の罪は、作為の罪と同様、自由を侵害する」と、利益の奴隷となった事なかれ主義が自由を侵食している現状へのいらだちを表明した。

「もしも私たちが自由でありつづけたいというのなら、寛容を許さない動きに対してけっして寛容であってはならない、ということである。(中略)寛容という態度は、およそ政治的にも社会的にも、唯一絶対の真理なるものは存在しない、ということを認めることからはじまる」

彼が理想とする新聞は、平和を希求するが、教科書にあるような平和主義ではなく、「国民に対して、もしもほかに道がなければ、擁護のためには死を賭してもとことん戦わねばならない死活的な価値を明確に描き出す」ようなものである。安易な妥協を許さない信念がある。

スティード氏は、尊敬する英紙『ウェストミンスター・ガゼット』の元編集長、ジョン・アルフレッド・スペンダー氏の言葉を引用すする。
 
「新聞の地位は、政府の性格をとらえる基本的なテストのひとつと言ってよい。きわめて多くの国で新聞の地位が低下させられている事実を、私たちすべて、そして対外問題に責任を持つ政府や大臣たちは十分考えなくてはならない。ヨーロッパの半分の国の人々は、自己の考えを自由に表現する術を持たない。だから、もしも為政者が決心したら、それらの人々は、かんたんに隣国との道徳的、知的、政治的交流を断たれてしまう」

「ジャーナリストがこの仕事においてほかの職種の人たちよりも尊敬と厚遇を享受できるのは、新聞は世論の偉大な体現者であり、国際問題の扱いについても恐れずに独自の批判を加える存在だ、という一般的な考えにもとづいている。だから、もしこの姿勢がいささかなりとも守られなければ、ジャーナリストがほかの一般の職種の人たちより高い地位に置かれるべき理由はなにもない」

スティード氏はこの言葉を受け、「専制国家の人々が外国での思想、言論、行動を知りえない状況に置かれているとするならば、それは同時に、もっとも明敏な新聞読者層をのぞいて、自由国家のほとんどすべての人々が専制国家における人々の状況を理解できないことを意味している」と、国際関係におけるメディアの自由の意義を語る。一国の問題にとどまらない、ある特定の時代には限定されない、普遍的な重要性を持っているのだ。印象に残ったスティード氏の言葉をさらに引用する。

「全体主義国家の政府は、往々にして、新聞や世論が比較的自由な国々との和平、友好を望むという意志を表明する。そのうえで、外国からの批判とか、好ましからざる事実の公表は『友好を損ない、和平を危機に陥れる』ことになる、と遺憾の意を表明するわけだ。それだけではない。自由国家で、独立した消息筋の筆者が全体主義国家の行ったことに対して、自分の信念にもとづいた意見を発表すると、全体主義国家の大使や外交官がただちに新聞社の社主や編集幹部に連絡を入れて、そのような筆者の文章を紙面に載せることは、指導者の感情を『いらだたせるもの』であり、危険であると通告する」

日本がかつて、中国に対し「抗日言論の取り締まり」を要請した歴史を思い出させる。

正しい情報の流通は、正しい判断を助け、個人の自由、独立を支える土台となる。国境のないインターネットで、時にデマや過剰な言論が流布する時代にあって、メディアの役割はさらに高まっているが、実態はその期待通りにはなっていない。日本語だけの言論市場だと思っていても、たちどころに翻訳され他国に伝わるのがネット空間である。狭隘な視点の壁を取り払わなければ、自滅の道しか残されていない。

【独立記者論㉑】メディアと国家をめぐる普遍的な議論

2016-06-20 22:05:58 | 独立記者論
国際関係におけるメディアの責任を研究していて、英紙『ザ・タイムズ』の元編集長、ウイッカム・スティード氏の『THE PRESS』(ペンギン・ブックス 1938)の邦訳『理想の新聞』(みすず書房)を手に取った。翻訳者は元朝日新聞欧州総局長の浅井泰範氏である。



スティード氏は1896年から第一次大戦前夜の1913年までベルリン、ローマ、ウイーン特派員を務め、その後は外報部長、編集長と要職を歴任した。英国の対外宣伝工作にもかかわり、国益を前面に打ち出した強い主張で物議も醸したが、特殊な時代に取材と編集の最前線に身を置いた経験に基づく発言は学ぶべき点が多い。

スティード氏は、民主主義社会では、平時にあっては、すべての人々が自分たちの福利にかかわるあらゆる情報を知らされる権利を有するのだから、その情報を伝達するジャーナリストは、人々の精神の番人として振る舞わなければならない」と主張し、新聞に政権が恣意的な規制を加えることを批判する。ジャーナリストの良心を重んじる立場から、「新聞に課せられた信頼関係および道徳的責任は、聖職者と宗教の関係、政治家や指導者と社会思潮の関係に似ている」と言う。

だが同書には、新聞界が少数の資本に牛耳られ、新聞の自由に対する危惧が下敷きにある。「いまは、私たちの”民主主義的な文明”という衣服の光沢が失われつつあり、生地の下の織り糸が現れつつある時代」と疑問を呈し、織り糸の状態を徹底的に調べるよう警鐘を鳴らす。氏が批判する以下のような海外特派員の弊害は今にも通ずる。

「自分が派遣された国の新聞を読むだけで入手したニュースや、官僚、大使、政治家たちが興味を持って自分たちに話してくれる話題だけに頼っている海外特派員は、競争からたちどころに脱落するだろう。特派員たる者は、当該国の国民が学んだこと以上に、その国の歴史、出来事、人物などについて勉強しなくてはならない。そして、自分がニュースを手に入れようと思っている大事な人たちに、情報や十分精通した助言などをあたえることができるくらいにならないといけない」

織り糸をたどる原点は、19世紀半ば、ルイ・ナポレオンが自ら皇帝になるためのクーデターを起こした際、英のパーマスト外相が独断で承認した一件にさかのぼる。『ザ・タイムズ』がそれを激しく攻撃すると、仏関係を考慮したダービー首相は「新聞は政治家の責任もいっしょに負わなくてはならない」と同紙に自制を求めたため、同紙は1852年2月6、7日の2日間、新聞の責任と義務に関する記事を載せた。権力から独立し、正しい情報を国民と共有することを新聞の責任、義務として主張したものである。

「公表することや事実を伝えることが、存在理由そのものになっている私たち新聞人にとって、事実を、あるがままに、率直かつ正確に公表するのを控えることほど不名誉なことはない。私たちは結果を恐れることなく、みたままに真実を伝えなくてはならない。不正や抑圧を隠す便宜をはかってはならないし、そうした不正や抑圧の事実をたちどころに公表して、世の中の判断に供しなくてはならない」

時空を超えた真理である。さらに国際関係におけるメディアの責任に言及している。

「新聞は、世界じゅうの文明の大義にかかわるものにはすべて無関心ではありえない。英国の新聞は、現在の世界で、ひとり完全な自由を享受しているように見える。しかし、英国の新聞の自由がヨーロッパ共通の利害関係に直結していることを反省しなければ、英国の新聞は、現在享受している崇高な特権の根源をひどく無視することになろう。(中略)私たちは、みずからの正当性を示すためにも、ヨーロッパで埋葬されたり弾圧された自由がいま一度再生して、私たちが固執する自由の基準にまで回復して一緒に隊列を組むことのできる日が到来するのを待つこととしたい」

スティード氏が同書で、あえて86年前の記事を引用したのは、ナチスドイツが勃興する中、融和政策をとる英政府とそれに追随する英メディアへの批判がこめられている。新聞のの自由を守る唯一の道は、ジャーナリストを奴隷化する全体主義的概念を全面的に否定することだと強調し、「残念ながら、英国のジャーナリストは、英国の政治家と同じように、政治哲学の基本についていますこし勉強しなくてはならない」と結ぶのである。

メディアの自由を語る議論は英国から米国に主導権が移ってはいるが、当時、先陣を切り開いた英国の記者は、時空を超えた至言を残したと言うべきだろう。いまなお、いやメディア自体が官僚化し、硬直している今だからこそ、問い直されるべき歴史である。名著を発掘した翻訳者の浅井氏にも敬意を表したい。