行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論㉒】「不作為の罪は作為の罪と同様、自由を侵害する」

2016-06-21 15:54:49 | 独立記者論
英紙『ザ・タイムズ』の元編集長、ウイッカム・スティード氏の『THE PRESS』(邦訳『理想の新聞』浅井泰範訳、みすず書房)が書かれたのは1938年、ドイツにはヒットラー、イタリアにはムッソリーニの全体主義体制が台頭し、ソ連ではスターリンによる独裁体制が敷かれていた。ヒットラーが英国政府に対し、英国メディアのナチス批判を統制するよう要請し、多くの英国メディアが沈黙した。同書には、新聞の自由を信奉するスティード氏の怒りと危機感が貫かれている。同氏は、広告主の横暴を許容する新聞を「商業ジャーナリズム」として非難する。

彼は「不作為の罪は、作為の罪と同様、自由を侵害する」と、利益の奴隷となった事なかれ主義が自由を侵食している現状へのいらだちを表明した。

「もしも私たちが自由でありつづけたいというのなら、寛容を許さない動きに対してけっして寛容であってはならない、ということである。(中略)寛容という態度は、およそ政治的にも社会的にも、唯一絶対の真理なるものは存在しない、ということを認めることからはじまる」

彼が理想とする新聞は、平和を希求するが、教科書にあるような平和主義ではなく、「国民に対して、もしもほかに道がなければ、擁護のためには死を賭してもとことん戦わねばならない死活的な価値を明確に描き出す」ようなものである。安易な妥協を許さない信念がある。

スティード氏は、尊敬する英紙『ウェストミンスター・ガゼット』の元編集長、ジョン・アルフレッド・スペンダー氏の言葉を引用すする。
 
「新聞の地位は、政府の性格をとらえる基本的なテストのひとつと言ってよい。きわめて多くの国で新聞の地位が低下させられている事実を、私たちすべて、そして対外問題に責任を持つ政府や大臣たちは十分考えなくてはならない。ヨーロッパの半分の国の人々は、自己の考えを自由に表現する術を持たない。だから、もしも為政者が決心したら、それらの人々は、かんたんに隣国との道徳的、知的、政治的交流を断たれてしまう」

「ジャーナリストがこの仕事においてほかの職種の人たちよりも尊敬と厚遇を享受できるのは、新聞は世論の偉大な体現者であり、国際問題の扱いについても恐れずに独自の批判を加える存在だ、という一般的な考えにもとづいている。だから、もしこの姿勢がいささかなりとも守られなければ、ジャーナリストがほかの一般の職種の人たちより高い地位に置かれるべき理由はなにもない」

スティード氏はこの言葉を受け、「専制国家の人々が外国での思想、言論、行動を知りえない状況に置かれているとするならば、それは同時に、もっとも明敏な新聞読者層をのぞいて、自由国家のほとんどすべての人々が専制国家における人々の状況を理解できないことを意味している」と、国際関係におけるメディアの自由の意義を語る。一国の問題にとどまらない、ある特定の時代には限定されない、普遍的な重要性を持っているのだ。印象に残ったスティード氏の言葉をさらに引用する。

「全体主義国家の政府は、往々にして、新聞や世論が比較的自由な国々との和平、友好を望むという意志を表明する。そのうえで、外国からの批判とか、好ましからざる事実の公表は『友好を損ない、和平を危機に陥れる』ことになる、と遺憾の意を表明するわけだ。それだけではない。自由国家で、独立した消息筋の筆者が全体主義国家の行ったことに対して、自分の信念にもとづいた意見を発表すると、全体主義国家の大使や外交官がただちに新聞社の社主や編集幹部に連絡を入れて、そのような筆者の文章を紙面に載せることは、指導者の感情を『いらだたせるもの』であり、危険であると通告する」

日本がかつて、中国に対し「抗日言論の取り締まり」を要請した歴史を思い出させる。

正しい情報の流通は、正しい判断を助け、個人の自由、独立を支える土台となる。国境のないインターネットで、時にデマや過剰な言論が流布する時代にあって、メディアの役割はさらに高まっているが、実態はその期待通りにはなっていない。日本語だけの言論市場だと思っていても、たちどころに翻訳され他国に伝わるのがネット空間である。狭隘な視点の壁を取り払わなければ、自滅の道しか残されていない。

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