前回、「信仰」を語る社会と回避する社会について書いた文章について、「孫景文」氏から以下のコメントが届いた。
神と精霊の思想を失くすには数字的打算とその評価を普遍化します。
深層の情緒性が衰えると 、思索は欲望の本性に覆われ、個別の実利に向かいます。
道教神仙の利福や長寿もその姿でしょう。
孔子や釈迦、国のスローガンも、「あれはハナシ」と考える鷹揚さがあります。
まさに、天下思想です。
諦観と生きること、まさにたどり着いた独得の智慧ということでしょう。
名前と文章から推測するに筆者は中国人かと思われる。難解な部分もあるので、以下、私が独自の意訳をしたうえで回答してみたい。
「神と精霊の思想」とは、信仰の根源にある原初的な人間の心を指していると思われる。自然、不可知なものへの畏怖があるから、人は自分たちの力を超えた正義、真理の存在を信じようとする。人間は本来、理性では説明のできない「深層の情緒性」を持っているものである。もしそれが悪霊によって利用されれば、人は不幸に陥ることになるので、「神と精霊」は「深層の情緒性」を正しく導く善でなくてはならない。こうして広く受け入れられる普遍的な信仰の生まれる余地が生じる。
だが、その信仰がなくなると、純粋な情緒は消え失せ、畏怖によって押さえつけられていた欲望がむき出しになる。不可知を前提とする思考は容易に踏みにじられ、そのあとに生まれるのは実利偏重の社会である。数字によって計量可能な尺度が普遍化し、社会の多様性を奪っていく。本来、無為自然を説き、単一な価値観から解放されんとする精神の営みである道教も、個人の利得や長寿といった世俗願望を満たす道具となってしまう。
儒教や仏教、政治スローガンは主として為政者のための信仰であり、また、王権が民の信託を受けているという虚構を支える物語、つまり「あれはハナシ」というべきレベルのものである。その根底にあるのは、天下は万人のものであるという天下為公の思想であり、王権は天から命を受け、天に見放されれば滅びるという易姓革命を正当化する根拠となる。
個人では如何ともしがたい天意を上に頂き、民は運命を受け入れ、生活を楽しむ術を身につけてきた。これがまさに中国人が長い歴史の中から勝ち得た生活の知恵、人生の知恵である。
以上が大意ではないか。日本人を含め多くの外国人が「中国は儒教の国」と認識しているが、上記コメントが「庶民レベルの信仰は道教である」としているのは中国理解を助ける指摘である。戦前から中国に住んだジャーナリスト、橘樸(たちばな・しらき)も同じ主張をした。中国で文字を残した読書階級は儒教信仰者たちが主流を占めたので、庶民の歴史が抜け落ちた史料だけを見ていると、中国全体への理解を誤ることになる。小説『水滸伝』で描かれている庶民の世界には、文よりも武、儒教よりも道教や仏教の色彩が濃い。
拝金主義を招いている根源に神や情緒の不在があるとの指摘は、無神論に立つ共産主義に対し鋭角な問題提起をしていると読み取ることができる。そしてそれはまた、物質主義、機械万能に傾く現代社会への警鐘でもある。「深層の情緒性」は、インターネットを席巻する軽薄な「情緒の表層化」と対比させられるべきものである。
時空を超えた普遍的な指摘であると敬服し、感謝したいと思うが、果たして正しい読み方かどうかはコメント氏に判断を仰ぐしかない。
神と精霊の思想を失くすには数字的打算とその評価を普遍化します。
深層の情緒性が衰えると 、思索は欲望の本性に覆われ、個別の実利に向かいます。
道教神仙の利福や長寿もその姿でしょう。
孔子や釈迦、国のスローガンも、「あれはハナシ」と考える鷹揚さがあります。
まさに、天下思想です。
諦観と生きること、まさにたどり着いた独得の智慧ということでしょう。
名前と文章から推測するに筆者は中国人かと思われる。難解な部分もあるので、以下、私が独自の意訳をしたうえで回答してみたい。
「神と精霊の思想」とは、信仰の根源にある原初的な人間の心を指していると思われる。自然、不可知なものへの畏怖があるから、人は自分たちの力を超えた正義、真理の存在を信じようとする。人間は本来、理性では説明のできない「深層の情緒性」を持っているものである。もしそれが悪霊によって利用されれば、人は不幸に陥ることになるので、「神と精霊」は「深層の情緒性」を正しく導く善でなくてはならない。こうして広く受け入れられる普遍的な信仰の生まれる余地が生じる。
だが、その信仰がなくなると、純粋な情緒は消え失せ、畏怖によって押さえつけられていた欲望がむき出しになる。不可知を前提とする思考は容易に踏みにじられ、そのあとに生まれるのは実利偏重の社会である。数字によって計量可能な尺度が普遍化し、社会の多様性を奪っていく。本来、無為自然を説き、単一な価値観から解放されんとする精神の営みである道教も、個人の利得や長寿といった世俗願望を満たす道具となってしまう。
儒教や仏教、政治スローガンは主として為政者のための信仰であり、また、王権が民の信託を受けているという虚構を支える物語、つまり「あれはハナシ」というべきレベルのものである。その根底にあるのは、天下は万人のものであるという天下為公の思想であり、王権は天から命を受け、天に見放されれば滅びるという易姓革命を正当化する根拠となる。
個人では如何ともしがたい天意を上に頂き、民は運命を受け入れ、生活を楽しむ術を身につけてきた。これがまさに中国人が長い歴史の中から勝ち得た生活の知恵、人生の知恵である。
以上が大意ではないか。日本人を含め多くの外国人が「中国は儒教の国」と認識しているが、上記コメントが「庶民レベルの信仰は道教である」としているのは中国理解を助ける指摘である。戦前から中国に住んだジャーナリスト、橘樸(たちばな・しらき)も同じ主張をした。中国で文字を残した読書階級は儒教信仰者たちが主流を占めたので、庶民の歴史が抜け落ちた史料だけを見ていると、中国全体への理解を誤ることになる。小説『水滸伝』で描かれている庶民の世界には、文よりも武、儒教よりも道教や仏教の色彩が濃い。
拝金主義を招いている根源に神や情緒の不在があるとの指摘は、無神論に立つ共産主義に対し鋭角な問題提起をしていると読み取ることができる。そしてそれはまた、物質主義、機械万能に傾く現代社会への警鐘でもある。「深層の情緒性」は、インターネットを席巻する軽薄な「情緒の表層化」と対比させられるべきものである。
時空を超えた普遍的な指摘であると敬服し、感謝したいと思うが、果たして正しい読み方かどうかはコメント氏に判断を仰ぐしかない。