行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論㉑】メディアと国家をめぐる普遍的な議論

2016-06-20 22:05:58 | 独立記者論
国際関係におけるメディアの責任を研究していて、英紙『ザ・タイムズ』の元編集長、ウイッカム・スティード氏の『THE PRESS』(ペンギン・ブックス 1938)の邦訳『理想の新聞』(みすず書房)を手に取った。翻訳者は元朝日新聞欧州総局長の浅井泰範氏である。



スティード氏は1896年から第一次大戦前夜の1913年までベルリン、ローマ、ウイーン特派員を務め、その後は外報部長、編集長と要職を歴任した。英国の対外宣伝工作にもかかわり、国益を前面に打ち出した強い主張で物議も醸したが、特殊な時代に取材と編集の最前線に身を置いた経験に基づく発言は学ぶべき点が多い。

スティード氏は、民主主義社会では、平時にあっては、すべての人々が自分たちの福利にかかわるあらゆる情報を知らされる権利を有するのだから、その情報を伝達するジャーナリストは、人々の精神の番人として振る舞わなければならない」と主張し、新聞に政権が恣意的な規制を加えることを批判する。ジャーナリストの良心を重んじる立場から、「新聞に課せられた信頼関係および道徳的責任は、聖職者と宗教の関係、政治家や指導者と社会思潮の関係に似ている」と言う。

だが同書には、新聞界が少数の資本に牛耳られ、新聞の自由に対する危惧が下敷きにある。「いまは、私たちの”民主主義的な文明”という衣服の光沢が失われつつあり、生地の下の織り糸が現れつつある時代」と疑問を呈し、織り糸の状態を徹底的に調べるよう警鐘を鳴らす。氏が批判する以下のような海外特派員の弊害は今にも通ずる。

「自分が派遣された国の新聞を読むだけで入手したニュースや、官僚、大使、政治家たちが興味を持って自分たちに話してくれる話題だけに頼っている海外特派員は、競争からたちどころに脱落するだろう。特派員たる者は、当該国の国民が学んだこと以上に、その国の歴史、出来事、人物などについて勉強しなくてはならない。そして、自分がニュースを手に入れようと思っている大事な人たちに、情報や十分精通した助言などをあたえることができるくらいにならないといけない」

織り糸をたどる原点は、19世紀半ば、ルイ・ナポレオンが自ら皇帝になるためのクーデターを起こした際、英のパーマスト外相が独断で承認した一件にさかのぼる。『ザ・タイムズ』がそれを激しく攻撃すると、仏関係を考慮したダービー首相は「新聞は政治家の責任もいっしょに負わなくてはならない」と同紙に自制を求めたため、同紙は1852年2月6、7日の2日間、新聞の責任と義務に関する記事を載せた。権力から独立し、正しい情報を国民と共有することを新聞の責任、義務として主張したものである。

「公表することや事実を伝えることが、存在理由そのものになっている私たち新聞人にとって、事実を、あるがままに、率直かつ正確に公表するのを控えることほど不名誉なことはない。私たちは結果を恐れることなく、みたままに真実を伝えなくてはならない。不正や抑圧を隠す便宜をはかってはならないし、そうした不正や抑圧の事実をたちどころに公表して、世の中の判断に供しなくてはならない」

時空を超えた真理である。さらに国際関係におけるメディアの責任に言及している。

「新聞は、世界じゅうの文明の大義にかかわるものにはすべて無関心ではありえない。英国の新聞は、現在の世界で、ひとり完全な自由を享受しているように見える。しかし、英国の新聞の自由がヨーロッパ共通の利害関係に直結していることを反省しなければ、英国の新聞は、現在享受している崇高な特権の根源をひどく無視することになろう。(中略)私たちは、みずからの正当性を示すためにも、ヨーロッパで埋葬されたり弾圧された自由がいま一度再生して、私たちが固執する自由の基準にまで回復して一緒に隊列を組むことのできる日が到来するのを待つこととしたい」

スティード氏が同書で、あえて86年前の記事を引用したのは、ナチスドイツが勃興する中、融和政策をとる英政府とそれに追随する英メディアへの批判がこめられている。新聞のの自由を守る唯一の道は、ジャーナリストを奴隷化する全体主義的概念を全面的に否定することだと強調し、「残念ながら、英国のジャーナリストは、英国の政治家と同じように、政治哲学の基本についていますこし勉強しなくてはならない」と結ぶのである。

メディアの自由を語る議論は英国から米国に主導権が移ってはいるが、当時、先陣を切り開いた英国の記者は、時空を超えた至言を残したと言うべきだろう。いまなお、いやメディア自体が官僚化し、硬直している今だからこそ、問い直されるべき歴史である。名著を発掘した翻訳者の浅井氏にも敬意を表したい。





コメントへの回答

2016-06-20 07:03:40 | 日記
前回、「信仰」を語る社会と回避する社会について書いた文章について、「孫景文」氏から以下のコメントが届いた。

神と精霊の思想を失くすには数字的打算とその評価を普遍化します。
深層の情緒性が衰えると 、思索は欲望の本性に覆われ、個別の実利に向かいます。
道教神仙の利福や長寿もその姿でしょう。
孔子や釈迦、国のスローガンも、「あれはハナシ」と考える鷹揚さがあります。
まさに、天下思想です。
諦観と生きること、まさにたどり着いた独得の智慧ということでしょう。

名前と文章から推測するに筆者は中国人かと思われる。難解な部分もあるので、以下、私が独自の意訳をしたうえで回答してみたい。

「神と精霊の思想」とは、信仰の根源にある原初的な人間の心を指していると思われる。自然、不可知なものへの畏怖があるから、人は自分たちの力を超えた正義、真理の存在を信じようとする。人間は本来、理性では説明のできない「深層の情緒性」を持っているものである。もしそれが悪霊によって利用されれば、人は不幸に陥ることになるので、「神と精霊」は「深層の情緒性」を正しく導く善でなくてはならない。こうして広く受け入れられる普遍的な信仰の生まれる余地が生じる。

だが、その信仰がなくなると、純粋な情緒は消え失せ、畏怖によって押さえつけられていた欲望がむき出しになる。不可知を前提とする思考は容易に踏みにじられ、そのあとに生まれるのは実利偏重の社会である。数字によって計量可能な尺度が普遍化し、社会の多様性を奪っていく。本来、無為自然を説き、単一な価値観から解放されんとする精神の営みである道教も、個人の利得や長寿といった世俗願望を満たす道具となってしまう。

儒教や仏教、政治スローガンは主として為政者のための信仰であり、また、王権が民の信託を受けているという虚構を支える物語、つまり「あれはハナシ」というべきレベルのものである。その根底にあるのは、天下は万人のものであるという天下為公の思想であり、王権は天から命を受け、天に見放されれば滅びるという易姓革命を正当化する根拠となる。

個人では如何ともしがたい天意を上に頂き、民は運命を受け入れ、生活を楽しむ術を身につけてきた。これがまさに中国人が長い歴史の中から勝ち得た生活の知恵、人生の知恵である。

以上が大意ではないか。日本人を含め多くの外国人が「中国は儒教の国」と認識しているが、上記コメントが「庶民レベルの信仰は道教である」としているのは中国理解を助ける指摘である。戦前から中国に住んだジャーナリスト、橘樸(たちばな・しらき)も同じ主張をした。中国で文字を残した読書階級は儒教信仰者たちが主流を占めたので、庶民の歴史が抜け落ちた史料だけを見ていると、中国全体への理解を誤ることになる。小説『水滸伝』で描かれている庶民の世界には、文よりも武、儒教よりも道教や仏教の色彩が濃い。

拝金主義を招いている根源に神や情緒の不在があるとの指摘は、無神論に立つ共産主義に対し鋭角な問題提起をしていると読み取ることができる。そしてそれはまた、物質主義、機械万能に傾く現代社会への警鐘でもある。「深層の情緒性」は、インターネットを席巻する軽薄な「情緒の表層化」と対比させられるべきものである。

時空を超えた普遍的な指摘であると敬服し、感謝したいと思うが、果たして正しい読み方かどうかはコメント氏に判断を仰ぐしかない。