行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『三国志』が描いた曹操の墓について思うこと

2016-06-05 10:24:42 | 日記
孫文は遺体を完全保存し、革命のスタート地点である南京に埋めるよう遺言を残した。ふと思い浮かんだのが、曹操の言い残した言葉だ。史書の裏付けがなく、『三国演義』の記載にとどまるが、彰徳府講武城外に似た塚を27作り、外から見て本当の墓がどれかわからないようにしろと遺言を残した。自ら魏王を名乗ったものの、天下の帰趨は定まらっていない。呉の孫権、蜀の劉備と英雄が並び立ち、お互いがにらみ合いをする中での死だった。幾多の戦乱で自ら兵を率い、家臣の身から漢の簒奪を図る野心を抱いた曹操は、死後、墓を暴かれることを恐れた。かくも激しい生存競争の時代だった。

享年66歳。劣勢の軍を率いて勝利した官渡の戦いに際し、「老驥、櫪に伏すとも、志は千里に在り(名馬は老いて小屋に伏せってはいても、その志は千里のかなたに及んでいる)」(『歩出夏門行』)と詠じたのは53歳の時だった。





河南省安陽市の郊外、西高穴村に曹操の墓がある。曹操が王都とした鄴城の西十数キロの場所だ。墓道の長さ40メートル、幅10メートルという大きな墓だが、過剰な副葬品、装飾はなく質素な作りだという。盗掘が発覚し、地元政府が調査をしたところ2009年、「曹操の墓」と認定された。異論も出ているが、私が注目したのは、曹操が「土は盛らず、木も植えず」と薄葬を命じていた点において、史料と現物が一致していた点だ。忠孝を尊ぶ時代、祖先の祭祀こそ最も重視される儀式だったはずである。前例を破ったことの意味は深い。「乱世の奸雄」とレッテルを張ってしまっては、人間が抱える深い苦悩は見えてこない。

曹操がこのとほか称賛した武将は、敵方の劉備に仕える関羽だった。一時は関羽を捕らえ配下に置くが、関羽は劉備への忠義を貫き去っていく。曹操の関羽に対する敬意は、彼を去るままにさせるほどのものだった。「奸雄」であっても仁義は重んじる人物だった。関羽は孫権との戦いに敗れ、斬首されるが、彼を葬る役回りが曹操に回ってきたのも、縁のなせる業であろう。曹操は関羽を王侯並みに手厚く葬った。自分には薄葬を命じた曹操が、関羽には破格の待遇で迎え、送り出した。



無敵の武将であり、忠義を貫いた関羽は死後、神格化され、いまでもあちこちに関公として祭られている。関公を見るたびに思い浮かべるのは、桃園の契りを結んだ劉備、張飛、そしてなぜか曹操の姿がそのあと鮮明によみがえってくる。