行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

木枯らしの吹き付ける夜だった・・・シュウカイドウに想う

2015-10-23 23:03:37 | 日記
木枯らしの吹き付ける夜だった。秋子は疲れた足を引きずり家路を急いでいた。細い路地を入って街灯は途絶え、風にカサカサと揺れる葉の音だけが道しるべだった。この町に来て一年がたつが、心を打ち明けられる相手も見つけられず、金魚鉢で飼っている金魚だけが話し相手だった。ベットを置いただけの狭い部屋を思うと、孤独を運んだ木枯らしが胸の隙間に入り込んできた。

無造作にゴミがはきためられた一角で、かすかな月の光に照らされた影が動いた。子猫だった。暗がりでちらりとガラスのような目をこちらに向けたが、吹き消されそうなか弱い光だった。鳴き声さえも出てこない。「おなかがすいているのだ」。そう思った秋子はバッグの中を探った。だがついさっき、小腹がすいたたので最後のクッキーを食べてしまったことに気付いた。居ても立っても居られず、走って家に戻り、魚の缶詰を持って引き返した。

道にはぐれたかわいそうな子猫は、都会で一人暮らしをする自分のように思えた。だれにも知られず、気付かれず、ひっそりと暮らしている。おなかがすいていても、だれも気にかけてくれない。声を出すこともできない。この寒い夜、少しでも口にものを入れなければ・・・。

「早く食べ物をあげないと死んでしまう」

秋子は暗がりの中、もとの場所を探した。弱い月明かりは秋子の影を頼りなさそうに映すだけだった。ようやく見つけたと思ったとき、子猫の姿はなかった。招き寄せる音を出してみたが、反応はなかった。木枯らしが肌を刺した。昼間、薄紅色の花を垂らしていたシュウカイドウももう見えなかった。彼女の頬が白く浮き出たかと思うと、一筋の露が花びらのように流れ落ちた。

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超ショートストーリでした。秋に咲くシュウカイドウは「断腸花」の異称を持つ。哀しい女性をたとえるのにふさわしい。

真っ赤に燃えるヘンリーヅタの中国名は「順地紅」?

2015-10-23 09:29:16 | 日記
今朝は急に冷え込んだ。鉢に植えた草花が競うように紅をさす。確かな四季の移ろいは、人生の無常を悟らせるだけではない。地道な営みの尊さを教え、運命に身をゆだねる知恵も授けてくれる。寒暖を生む大自然が、わずかな一枚の葉に小さな自然を描き出す。そうではなく、一枚の葉が大自然を受け止め、映し出しているのかも知れない。これもまた雑念であるならば、大小もない自然が一つとなって交響曲を奏でていると見るべきなのだろう。賢しらな心を捨て、無為のまま自然を受容することができれば、人生はもっと豊かになるのであろう。



ハゼノキ、ツリバナ、カエデ、みな色を変えている中、ひときわ燃えているのがヘンリーヅタだ。鉢に収まっているので、領分をわきまえ、出しゃばることがない。足ることを知る者は富み、知らない者は大きな禍に巻き込まれる。『菜根譚』には「足ることを知る者には仙境にして、足ることを知らざる者には凡境なり」とある。同じ状況にあって、人の心の持ちようが至福をも凡庸をももたらす。知足安分という。「分に安んずる」とは、身の程知らずに対する批判である。「身の程」とは社会の地位や身分を言っているのではない。足るを知る境地を指している。

手入れが簡単で、ガーデニングに多用されるヘンリーヅタは、その名からはうかがい知れないが中国産という。学名を頼りに調べたところ、中国名は「順地紅」あるいは「花葉地錦」らしい。実物に近いのは「順地紅」、想像が膨らむのは「花葉地錦」といったところか。赤や錦が目を楽しませてくれる季節である。李白は月と影を相手に酒を飲みかわしながら、「行楽 すべからく春に及ぶべし」と詠った。月が名月だとすれば、枯れゆく秋の寂寥が漂うが、月明かりに照らされた錦の興趣もまた盃を勧めるのではないか。われは酒仙なり。