行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

懐かしい人に会った・・・社会部で初めて記事をほめてくれた人

2015-10-06 12:35:04 | 日記
社会部の駆けだし記者時代、最初に書いた特ダネはとても小さな記事だった。警視庁第二方面担当で羽田空港を取材していた私は、日本航空が機内で発生した男性乗客の乗務員二人に対する暴行事件を刑事告発する準備を進めていることキャッチした。サービス業の航空会社があえて乗客を訴えるのは異例のことだった。航空の安全確保と社員の保護を熟慮した末での決断だった。

利光松男・同社社長の自宅を訪ねると、気さくに対応してくれた。応接間のソファに案内され、オールドパーをごちそうになった。「ハワイで日本のお祭りをするのが夢だ」と子どものように目を輝かせていた。私は、高円寺のソバ屋で育ったので、阿波踊りには何度も参加しました、と応じた。母方の祖父がそば店を経営し、私は隣接する実家で育ったのだ。湯が煮立つ大きな釜の下を、するする駆け抜けてかくれんぼをした記憶がある。そんな話に興じ、本来の取材を忘れるところだった。最後に
要件を切り出すと、「広報担当がきちんと対応するので問題ない」とお墨付きを頂いた。翌日、約束通り担当者から直接、私に連絡があった。

告発状を提出した当日、それを確認して記事にした。第二社会面(社会面の右側)三段の目立たない扱いだった。

私はこんなものだろうと思い、初の特ダネが紙面に載っただけでうれしかった。ところがこれを見たある事件担当デスクが、「お前がこれを書いたのか」と私を探してきてきた。何のことかと思っていると、「誰だ、こんな小さな扱いをしたデスクは」と怒っている。記者が何も不平を言っていないのに、代わりに文句を言ってくれているのだ。小さな記事も見逃さず、人の努力を理解できるデスクだと感激した。私の社会記者生活は、彼との出会いから始まった。

このデスクはその後も目をかけてくれたが、衝突もした。東京地検特捜部を取材していたとき、私の後輩が書いた特ダネを彼に出稿したところ、非常に粗末な扱いを受けた。早版(配達時間のかかる遠隔地向けで、締め切り時間が最も早い)の段階でそれを知った私は本社に駆け込み、外で会食をしている同デスクを強引に呼び出した。私が「どういうことですか。ニュース判断を間違っている。若い記者がようやくつかんだ特ダネですよ!」と激しく抗議し、わずかに扱いが大きくなった。私は相当、生意気な部下に映っただろうが、相手もけんかをしがいのある上司だった。

昨晩はもう一人仲間を加えて痛飲した。「お前が生意気なのは変わっていない。強情なのも昔のまま。本当に面倒くさいやつだ」と言われた。かつての上司も変わらず元気だったが、私の言うことに反論せず、笑って聞いていたのが、大きな違いだった。彼は事情あって新聞社を早く去った。会社と対立したが、私は個人としての付き合いを続けた。会社のメールアドレスで連絡を取ったのは私一人だったという。昨晩、彼の著書にサインをもらったら、「お前だけだったぞ」と書いてあった。

たとえがよくないが、一つの例を挙げたい。

中国では、政府への抗議を続ける陳情者がしばしば「精神障害」とのレッテルを貼られ、病院に送られる。そうなると彼がなにを訴えても、「精神障害者の言っていることだから」と相手にされなくなる。私もそういう陳情者を多く見てきた。だが、10年以上、場合によっては30年以上も、個人や家族に降りかかった厄災、権力による不正義、不公正について、政府だけではなく裁判所、弁護士、全国人民代表大会、新聞社、テレビ局、ありとあらゆる組織、個人を尋ね歩き、服はぼろぼろに、食べるものもろくにない生活を送れば、大抵の人は正常でなくなってしまう。

行き先のなくなった彼らが、「私は愛国者だが、もはや外国に恥をさらさざるを得ない」と観念して外国メディアにやってくる。彼らのような存在があることを知ってから、厄介者を精神障害者扱いして社会から排除しようとする発想を憎むようになった。そして「彼らをおかしくさせたのはだれなのか。社会そのものにも問題があるのではないか」と考えるようになった。


日本の社会でも、ケンカ別れのように会社を辞めた人が変人扱いされることがある。「あの人もすっかり変わったね」というのだ。そういう話に接するたび、私は中国の陳情者が置かれた状況と共通のものを感じる。「すっかり変わった」のであるならば、どうして変わってしまったのか。組織として何か問題はなかったのか。すべてを個人の問題として片づけてよいのか。こんなことを考えてもいいのではないか。個人と組織を比べれば、個人は圧倒的に小さい。強いものには厳しく、弱いものに優しい組織、強いものには断固と立ち向かい、弱いものに寛容な組織であってほしいと願う。

そんなことを考えた再会だった。