使っているノートPC・Surfaceのスタートアップやネットワークのボタンが突然反応しなくなった。不便をしたので購入した新宿の大型電器店に行き、サポートをお願いした。計3人の担当者と接し、非常に貴重な経験をしたので書き留めておくことにした。
最初に出向いたのは昨日の午前中。整理券を取って順番を待ち、故障の状況を説明すると「復元」を勧められ、「これ以上の作業をしてしまうと1万円の手数料がかかってしまう」と言われた。非常にもったいぶった言い方で、余計なことは一切しないという態度である。こちらが顧客であるにも関わらず、あたかも主導権は店側にあると言わんばかりだ。かつて中国の国営商店などはみなこの手のサービスだった。この店でははたぶん厳格な接客マニュアルがあって、それに従って杓子定規な対応がされているのだろうと思った。顧客満足度からすると完全にマイナスである。
やむなく店内で一人で復元作業をしたが直らない。そこでもう一回、整理券を取って相談した。別の担当者だった。復元では効果がなかったことを伝えると、初期化による解決を提案してくれた。こちらが不案内なのを察知し、そのためのショートカットまでデスクトップに作ってくれた。「引き取って同じ作業をすると費用が発生してしまうのでもったいない」というのだった。完全に顧客の立場に立った対応だった。満足度は一気に80%に高まった。
自宅に戻って必要なデータのバックアップを取り、初期化をしたところ問題は解決されたが、同時にワードやエクセルのofficeソフト、セキュリティソフトが抜け落ちてしまい往生した。メールアカウントでofficeのインストールサイトから取り込むというやり方がわからず、翌日、再び窓口に持ち込んだ。すると3人目の担当者が「お安い御用」と言わんばかりにすべての復旧作業をやってくれた。顧客満足度は100%に引き上がった。
もし最初の1人が厳格なマニュアルに従ったとなると、あとの2人はマニュアル違反になるので店の名前は明かすことができない。接客対応をほめてあげたいところだが、矛盾である。そもそもそれほど厳格なマニュアルがないのだとすれば、私は最初の1人で貧乏くじを引いたことになる。いずれにしても、人がルールの奴隷になっているように感じられることが多い日本の社会にあって、ホッとする経験だった。
人生の晩年を迎えた老企業家の家族を描いた川端康成の『山の音』で、主人公の尾形信吾がこう漏らす一節がある。
「閻魔(えんま)の前へ出たら、われわれ部分品に罪はございません、と言おうという落ちになった。人生の部分品だからね。生きているあいだだって、人生の部分品が、人生に罰せられるのは酷じゃないか」
部分品にも少しは隙間があった方が過ごしやすい。もし私なら、主人公にこう言わせたい。
「たとえ人生の部分品であろうとも、部分品には部分品の覚悟というものがあるだろう。部分品が自分の意思を持つことぐらいは許されてもいい。ぎっちり隙間なく部分品を埋め込まれたのでは、閻魔に罰せられても甲斐がないじゃないか」
最初に出向いたのは昨日の午前中。整理券を取って順番を待ち、故障の状況を説明すると「復元」を勧められ、「これ以上の作業をしてしまうと1万円の手数料がかかってしまう」と言われた。非常にもったいぶった言い方で、余計なことは一切しないという態度である。こちらが顧客であるにも関わらず、あたかも主導権は店側にあると言わんばかりだ。かつて中国の国営商店などはみなこの手のサービスだった。この店でははたぶん厳格な接客マニュアルがあって、それに従って杓子定規な対応がされているのだろうと思った。顧客満足度からすると完全にマイナスである。
やむなく店内で一人で復元作業をしたが直らない。そこでもう一回、整理券を取って相談した。別の担当者だった。復元では効果がなかったことを伝えると、初期化による解決を提案してくれた。こちらが不案内なのを察知し、そのためのショートカットまでデスクトップに作ってくれた。「引き取って同じ作業をすると費用が発生してしまうのでもったいない」というのだった。完全に顧客の立場に立った対応だった。満足度は一気に80%に高まった。
自宅に戻って必要なデータのバックアップを取り、初期化をしたところ問題は解決されたが、同時にワードやエクセルのofficeソフト、セキュリティソフトが抜け落ちてしまい往生した。メールアカウントでofficeのインストールサイトから取り込むというやり方がわからず、翌日、再び窓口に持ち込んだ。すると3人目の担当者が「お安い御用」と言わんばかりにすべての復旧作業をやってくれた。顧客満足度は100%に引き上がった。
もし最初の1人が厳格なマニュアルに従ったとなると、あとの2人はマニュアル違反になるので店の名前は明かすことができない。接客対応をほめてあげたいところだが、矛盾である。そもそもそれほど厳格なマニュアルがないのだとすれば、私は最初の1人で貧乏くじを引いたことになる。いずれにしても、人がルールの奴隷になっているように感じられることが多い日本の社会にあって、ホッとする経験だった。
人生の晩年を迎えた老企業家の家族を描いた川端康成の『山の音』で、主人公の尾形信吾がこう漏らす一節がある。
「閻魔(えんま)の前へ出たら、われわれ部分品に罪はございません、と言おうという落ちになった。人生の部分品だからね。生きているあいだだって、人生の部分品が、人生に罰せられるのは酷じゃないか」
部分品にも少しは隙間があった方が過ごしやすい。もし私なら、主人公にこう言わせたい。
「たとえ人生の部分品であろうとも、部分品には部分品の覚悟というものがあるだろう。部分品が自分の意思を持つことぐらいは許されてもいい。ぎっちり隙間なく部分品を埋め込まれたのでは、閻魔に罰せられても甲斐がないじゃないか」