行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論2】独立の精神を犠牲にした痛恨の南京報道

2015-10-20 09:34:37 | 独立記者論
自分の恥をさらそうと思う。

私は2005年、上海赴任にあたって「南京を書くこと」を最大の目標に定め、それを周囲に語った。中国経験の長いある上司は「そう言い切った上海特派員は初めてだ」と驚いていた。南京は言うまでもなく日本軍がかつて大量の中国人を虐殺した地である。犠牲者数について中国側は30万人とするが、日本側には数万から20万人まで諸説あり確定した数字がないが、日本政府も「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」ことは認めている(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/)。困難な問題である。だが困難なものから目を背けてはならない。最も困難な場所にこそ突破口のチャンスがある。「日中関係はまず南京から」。そう考えた。当時、最も多く南京に通い、最も多く南京の記事を書いた日本メディアの記者だったと思う。

私が最初に南京を訪れたのは北京に語学留学をしていた一九八六年の夏休みだ。前年に南京大虐殺記念館が完成したことを聞いたので、見に出かけた。同館の正面には現在と同様、中国語、英語、日本語で「遭難者300000」と刻まれた石壁があった。真新しい慰霊碑が点在する広場を抜けると、土に埋められた犠牲者の遺骨群「万人坑」が、発掘された状態のまま展示されていた。当時の日記には「人骨を直視することは困難。絶句。中国人が舌打ちをする」と書き込まれている。手を合わせその場を去った。記念館というよりも広場のような印象だった。この時から南京への関心は持ち続けている。

私が書いた南京関連の記事で1件、痛恨の出来事があった。
2007年12月13日、南京事件70周年を記念して地元の南京大虐殺記念館が敷地面積で3倍以上、屋内展示スペースは10倍以上拡張された。規模もさることながら、議論のある「犠牲者30万人」を視覚、聴覚に訴える仕掛けで強調し、真偽が明確でない刺激的な「百人斬り」の新聞記事が等身大に拡大されていた。隈丸優次・駐上海日本総領事(当時)は同館を訪れて視察し、朱成山同館館長に「参観した中国人に日本人への反感、恨みを抱かせる懸念がある」と展示内容の見直しを申し入れた。私も解説記事で「感情に訴える愛国主義教育と理性的な平和の希求は相矛盾する」と警告した。

再オープンの当日は、早朝から同館で行われる70周年記念式典を取材しなければならず、夕刊用の原稿はあらかじめ予定稿として東京に送り、式典開始とともに「解禁」の連絡を入れる手はずになっていた。すると日本時間の午前8時半ごろ、夕刊の当番デスクから私の携帯に連絡があり、いきなり「この原稿いるのか?」と尋ねられた。数日前の社説で取り上げられていることなどを説明すると、「そうなのか」と納得したようだった。だがしばらくしてまた電話があり、「真偽の定まっていない日本人将校による百人斬り……」の個所について、「こんな中途半端な書き方でいいと思っているのか。百人斬りなんてなかったんだろう!そのぐらいもわからないで上海特派員やっているのか!ふざけるな!書き直せ」と怒鳴りつけられた。

私はすでに移動中で、「その表現で十分だと思う」と答えたが、デスクは「直さなければ使わない」の一点張りだったので、いったん電話を切り、すぐに「報道統制下の日本の新聞記事のみをもとにした」と、電話で直しを読み込んだ。式典後、実際に刷られた夕刊を確認すると、「百人斬り」の部分は削除されていた上、南京事件の説明として書いていた「多数の中国人を殺害した」が「中国人多数を殺害したとされる」と、「される」が挿入されていた。日本政府の見解からも既定事実であって、「される」という不確かな表現はかえって誤解を招くと感じた。

「南京を書く」ことを標榜する記者として当然、「百人斬り」についても必要資料に目を通していた。根拠とされる東京日々新聞(現毎日新聞)の真偽をめぐっては、日本人将校の遺族が東京地裁に名誉棄損訴訟を提起し、東京高裁判決(2006年5月24日)は、「『百人斬り』の戦闘成果ははなはだ疑わしいものと考えるのが合理的」「当時としては、『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、『百人斬り競争』を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできない」と認定した。その際、「肯定、否定の見解が交錯し、歴史的事実としての評価は定まっていない」(東京地裁判決、2005年8月23日)との判断は踏襲された。「百人斬り」の事実については、賛否両論が併存し、歴史的事実として確定していないというのが客観的な見解だと認識していた。

デスクの取った行為は、今で言えば間違いなくパワハラであり、それ以上に、歴史認識の誤認や偏った政治思想が感じられ、記者としての適格にも問題があった。明らかに「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」とした日本新聞協会の新聞倫理綱領に反していた。私は当時の上司に以上の経緯の説明とデスク本人からの謝罪を求める文書を送った。形に残るやり取りをしようと思ったからだ。周囲からも「加藤に分がある」と感想を聞いていた。だが上司から電話で「君はもう上海に来て何年になるのか」といきなり人事権をちらつかされ、「対応は一任します」と引き下がってしまった。その後、この問題はうやむやなままである。私の記者人生の中では、「独立の精神」を犠牲にした痛恨の出来事である。

どうしてもっと戦わなかったのか、と自問した。海外駐在で残ることを優先した自分の弱さだった。月刊『文藝春秋』2008年3月号に「中国『南京虐殺記念館』真の狙い」と題する寄稿し、「百人斬り」を含めた事実関係について解説をしたのは、せめても記者の良心に申し開きをしたいと思ったからである。