本日は母の墓参で出かけた。11回目の命日だ。アカマツは常に変わらず緑の葉をつけていたが、桜の葉は柿色に変わり始めていた。11年前、茫然としながら拾ったどんぐりの実は今もなお、私の書斎に並んでいる。
告別式の日、涙の止まらなくなった私に、同僚の女性が「男の子は一生に一度泣いてもいい時がある。それはお母さんとお別れする時」と話してくれたことが、ありがたく思い出される。『1000の風』(三五館)という本を贈ってくれた大学時代の後輩がいた。作者不明の英文詩を南風椎氏が翻訳したものだ。
私の墓石の前に立って 涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって 吹き抜けています。
私はダイアモンドのように 雪の上で輝いています。
私は陽の光になって 熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって 駆けあがり
鳥たちを 空でくるくる舞わせています。
夜は星になり、
私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んでないのです。
「I am not there,I did not die.」人が多くの人に生かされていることを思えば、一人の生死は一人のものではない。肉体が滅んでも魂は生き残るとはそういうことではないか。だとすれば、この詩は死の哀しみではなく、生の有り難さを詠ったものだ。有ることが難しい、当たり前にあるものではないから「ありがとう」と言う。追悼は感謝することなのだ、と当時受け止めたことを思い出した。
母は高血圧で腎臓を患い、亡くなるまで15年にわたって人工透析を受けた。母が最初、高血圧で倒れたのは私の中国留学中だった。父は私に一時帰国するよう連絡をしようとしたが、気丈な母は「大事な1年を過ごしているのだから、知らせないでほしい」と言った。私は帰国して初めて、衰弱した母の姿から一部始終を知った。歩くのが困難なので週末などは父親や私、実弟がドライブに連れて行った。2004年、私に中国勤務の話が持ち上がった際、まず思い浮かんだのは母のことだった。私が身近にいなくなることを知ったらさぞ落胆するだろう、と。留学時代のことを思い出し、もうこれ以上、辛い思いをさせたくないと思った。
社会部の仲間は「もし中国に行けば社会部には戻ってこられない。これまでのキャリアを捨てることになる」と心配してくれたが、ある上司は「『人間至る所青山あり』というから、どこへ行ってもやりようがある。加藤の好きにしなさい」と言われ、40歳を過ぎた我が身の第二の人生を考えた。いつまでも現場記者でいたいとの気持ちが強かった。人生の折り返し地点に立ち、未知の世界で自分の力をもう一度試してみたいとの願望が湧いてきた。著しく発展を遂げる中国の舞台は申し分ないと感じた。
私の気持ちは半ば海外駐在に傾いていたが、母にはなかなか言い出せなかった。どのように伝えるべきか逡巡しているとき、母が突然倒れ、3日後に息を引き取った。海外転勤の件は結局、口に出さないままだった。母が私の背中を押してくれたと思った私は、通夜の場で国際部への移籍を決意した。こうして世界に飛び出した以上、とことん中国報道のために力を尽くそうと気持ちを固めた。
以上が記者であることにこだわる大きな理由の一つである。私は自分に「独立記者」の名を与えたことを先ほど、母の墓前に報告した。
告別式の日、涙の止まらなくなった私に、同僚の女性が「男の子は一生に一度泣いてもいい時がある。それはお母さんとお別れする時」と話してくれたことが、ありがたく思い出される。『1000の風』(三五館)という本を贈ってくれた大学時代の後輩がいた。作者不明の英文詩を南風椎氏が翻訳したものだ。
私の墓石の前に立って 涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって 吹き抜けています。
私はダイアモンドのように 雪の上で輝いています。
私は陽の光になって 熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって 駆けあがり
鳥たちを 空でくるくる舞わせています。
夜は星になり、
私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んでないのです。
「I am not there,I did not die.」人が多くの人に生かされていることを思えば、一人の生死は一人のものではない。肉体が滅んでも魂は生き残るとはそういうことではないか。だとすれば、この詩は死の哀しみではなく、生の有り難さを詠ったものだ。有ることが難しい、当たり前にあるものではないから「ありがとう」と言う。追悼は感謝することなのだ、と当時受け止めたことを思い出した。
母は高血圧で腎臓を患い、亡くなるまで15年にわたって人工透析を受けた。母が最初、高血圧で倒れたのは私の中国留学中だった。父は私に一時帰国するよう連絡をしようとしたが、気丈な母は「大事な1年を過ごしているのだから、知らせないでほしい」と言った。私は帰国して初めて、衰弱した母の姿から一部始終を知った。歩くのが困難なので週末などは父親や私、実弟がドライブに連れて行った。2004年、私に中国勤務の話が持ち上がった際、まず思い浮かんだのは母のことだった。私が身近にいなくなることを知ったらさぞ落胆するだろう、と。留学時代のことを思い出し、もうこれ以上、辛い思いをさせたくないと思った。
社会部の仲間は「もし中国に行けば社会部には戻ってこられない。これまでのキャリアを捨てることになる」と心配してくれたが、ある上司は「『人間至る所青山あり』というから、どこへ行ってもやりようがある。加藤の好きにしなさい」と言われ、40歳を過ぎた我が身の第二の人生を考えた。いつまでも現場記者でいたいとの気持ちが強かった。人生の折り返し地点に立ち、未知の世界で自分の力をもう一度試してみたいとの願望が湧いてきた。著しく発展を遂げる中国の舞台は申し分ないと感じた。
私の気持ちは半ば海外駐在に傾いていたが、母にはなかなか言い出せなかった。どのように伝えるべきか逡巡しているとき、母が突然倒れ、3日後に息を引き取った。海外転勤の件は結局、口に出さないままだった。母が私の背中を押してくれたと思った私は、通夜の場で国際部への移籍を決意した。こうして世界に飛び出した以上、とことん中国報道のために力を尽くそうと気持ちを固めた。
以上が記者であることにこだわる大きな理由の一つである。私は自分に「独立記者」の名を与えたことを先ほど、母の墓前に報告した。