昨日、中国人留学生を支援するNPO主催のBBQが若洲キャンプ場であった。困難な日中関係にあってこうした行事が継続していることは力強い。会場で北京の日本大使館勤務経験がある元政府高官から「必要なのは人類愛だ」と聞かされ同感した。インターネットでは憎悪が拡散され、政治の世界では「愛国」という耳障りの良いスローガンばかりがもてはやされ、人々の心はますます寛容から遠ざかっている。特定の宗教によらずとも存在する「愛」こそ、我々がまず見直さなければならないものなのではないか。実はそれが小説のテーマにもなっている。
「愛」について最近、考えされられたのは14日、習近平が1年前に「行った文芸工作座談会の講演全文が公開された際だ。習近平の講和は発表後、すぐに書籍が出され、宣伝効果を特に気にかけている姿勢が強いが、1年後に公表されるのは異例である。党内外から様々な意見を聞いたうえ、慎重に公表したことがうかがえる。言い方を変えれば、全文の内容を社会に受け入れさせる準備に1年を要したことになる。非常に問題の多い講和である。1942年、毛沢東が延安で行った文芸講和と比較すると、その特徴がよくわかる。
毛沢東の講演は抗日戦争期、戦線から離れた陝西省延安で行われたもので、戦争を戦うため軍備と同様に「文化の軍隊」によっても人民を団結させるべきと説いた。文芸は労働者・農民・兵士らプロレタリア階級のためのものであって、文化の質を向上させるよりも、幅広く普及させることを訴える。芸術は政治に従属するとの立場で、政治の要請はまず「抗日」である。普遍的な価値観は階級概念をあいまいにするので否定される。「愛」も同様だ。プロレタリア階級は愛すべきだが、日本帝国主義は憎むべきである。毛沢東はこう言っている。
いわゆる”人類愛”については、人類に階級が生まれて以来、こうした包括的な愛は存在したことがない。これまであらゆる統治階級はこうした愛を好んできた。多くのいわゆる聖人賢人も好んでこうした愛を唱えてきた。だが、だれも本当に実践した者はいない。というのも階級社会では不可能だからだ。
毛沢東の講演は歴史上のある特定の時期、特定の場所で行われた。その時代背景を考えれば非常にわかりやすい内容である。はっきりしている。あいまいさがない。迷いがない。
だが習近平の講演はどうか。中国が比較的平和な国際社会の中で経済大国として台頭し、中華民族の偉大な復興を実現する「中国の夢」を政治スローガンにかかげている時期に、グローバル化によって相互依存が深化する国際情勢の中で行われた講演だ。時代背景が全く異なる。直面している危機は戦争ではなく、市場経済化によってイデオロギーの求心力が弱まったことによる価値観の崩壊である。
習近平はそこで、文化の大衆化、低俗化が進行し、「軽薄」な時代を迎えているとの危機感を示し、人民に基礎を置き、党の指導を強化し、社会主義核心価値観を普及さえなければならないと説く。その価値観のうち「最も深く、最も根本的で、最も恒久的なのは愛国主義」と訴える。だが同時に、様々な視点の表明を提唱し、寛容な社会の雰囲気を求めているが、これには大きな制約がついていることになる。総花的で、様々な解釈が可能で、非常にわかりにく内容だ。歴史的な欧米文化人の名前を数多く羅列しているのも意味不明だ。
法治建設や市場経済化を統治の手段として利用することはできても、文化を愛国の手段にしているままでは大国のソフトパワーには程遠い。愛の方向性が違う。
習近平の講演から憎しみは消えたが、人類愛にも至っておらず、中心に据え置かれたのは「愛国」である。毛沢東は愛を階級から限定的に解釈したが、習近平も愛はまだ国から切り離していない。文化的にも他国から敬意を払われる大国となるためには、他国にも受け入れられる「愛」を語らなくてはならない。それはソフトパワーの核心と言ってもよい。毛沢東は階級が消滅したときに人類愛が存在すると言ったが、現代社会は多様化、多元化し、一つの階級を想定して括ることのできる社会からはますます遠ざかっている。
習近平の語る社会主義核心価値観の中身もあいまいで、国内で共通認識が生まれていない。習近平は強大な権力を掌握したが、歴代の指導者が積み残した、階級闘争のイデオロギーに代わりうる価値観の提示はまだできていない。だから口では「自信」を語っても迷いやあいまいさ、わかりにくさが残る。中国の思想イデオロギー担当者が事なかれ主義に走り、習近平を毛沢東を重ね合わせて講演を解釈する可能性がある。当惑する知識人たちの顔が思い浮かぶ。
「愛」について最近、考えされられたのは14日、習近平が1年前に「行った文芸工作座談会の講演全文が公開された際だ。習近平の講和は発表後、すぐに書籍が出され、宣伝効果を特に気にかけている姿勢が強いが、1年後に公表されるのは異例である。党内外から様々な意見を聞いたうえ、慎重に公表したことがうかがえる。言い方を変えれば、全文の内容を社会に受け入れさせる準備に1年を要したことになる。非常に問題の多い講和である。1942年、毛沢東が延安で行った文芸講和と比較すると、その特徴がよくわかる。
毛沢東の講演は抗日戦争期、戦線から離れた陝西省延安で行われたもので、戦争を戦うため軍備と同様に「文化の軍隊」によっても人民を団結させるべきと説いた。文芸は労働者・農民・兵士らプロレタリア階級のためのものであって、文化の質を向上させるよりも、幅広く普及させることを訴える。芸術は政治に従属するとの立場で、政治の要請はまず「抗日」である。普遍的な価値観は階級概念をあいまいにするので否定される。「愛」も同様だ。プロレタリア階級は愛すべきだが、日本帝国主義は憎むべきである。毛沢東はこう言っている。
いわゆる”人類愛”については、人類に階級が生まれて以来、こうした包括的な愛は存在したことがない。これまであらゆる統治階級はこうした愛を好んできた。多くのいわゆる聖人賢人も好んでこうした愛を唱えてきた。だが、だれも本当に実践した者はいない。というのも階級社会では不可能だからだ。
毛沢東の講演は歴史上のある特定の時期、特定の場所で行われた。その時代背景を考えれば非常にわかりやすい内容である。はっきりしている。あいまいさがない。迷いがない。
だが習近平の講演はどうか。中国が比較的平和な国際社会の中で経済大国として台頭し、中華民族の偉大な復興を実現する「中国の夢」を政治スローガンにかかげている時期に、グローバル化によって相互依存が深化する国際情勢の中で行われた講演だ。時代背景が全く異なる。直面している危機は戦争ではなく、市場経済化によってイデオロギーの求心力が弱まったことによる価値観の崩壊である。
習近平はそこで、文化の大衆化、低俗化が進行し、「軽薄」な時代を迎えているとの危機感を示し、人民に基礎を置き、党の指導を強化し、社会主義核心価値観を普及さえなければならないと説く。その価値観のうち「最も深く、最も根本的で、最も恒久的なのは愛国主義」と訴える。だが同時に、様々な視点の表明を提唱し、寛容な社会の雰囲気を求めているが、これには大きな制約がついていることになる。総花的で、様々な解釈が可能で、非常にわかりにく内容だ。歴史的な欧米文化人の名前を数多く羅列しているのも意味不明だ。
法治建設や市場経済化を統治の手段として利用することはできても、文化を愛国の手段にしているままでは大国のソフトパワーには程遠い。愛の方向性が違う。
習近平の講演から憎しみは消えたが、人類愛にも至っておらず、中心に据え置かれたのは「愛国」である。毛沢東は愛を階級から限定的に解釈したが、習近平も愛はまだ国から切り離していない。文化的にも他国から敬意を払われる大国となるためには、他国にも受け入れられる「愛」を語らなくてはならない。それはソフトパワーの核心と言ってもよい。毛沢東は階級が消滅したときに人類愛が存在すると言ったが、現代社会は多様化、多元化し、一つの階級を想定して括ることのできる社会からはますます遠ざかっている。
習近平の語る社会主義核心価値観の中身もあいまいで、国内で共通認識が生まれていない。習近平は強大な権力を掌握したが、歴代の指導者が積み残した、階級闘争のイデオロギーに代わりうる価値観の提示はまだできていない。だから口では「自信」を語っても迷いやあいまいさ、わかりにくさが残る。中国の思想イデオロギー担当者が事なかれ主義に走り、習近平を毛沢東を重ね合わせて講演を解釈する可能性がある。当惑する知識人たちの顔が思い浮かぶ。