交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

起こしてくださったんだ、という喜びを感ずる人と、うるさいお母さんやな、という人

2012-01-26 11:31:19 | 教育

昭和38年(1963)3月15日、 松下電器 女子新入社員導入教育(68齢)


現在では、科学的な面は非常に尊重されておりますが、

反面、精神的な面はあまり尊重されておりません。

そういう状態のまま物資が豊富になり、立派な建物ができ、

機械が進歩いたしまても、

その結果、人間的な不幸が生まれるということも起こってくるわけです。

これはやはり、心の面に貧困さがあって、

いわゆる心の豊かさが足りないということによるのだと思います。

 

人間とは妙なもので、

同じものを見ても喜ぶ人もあるし、喜ばない人もある

いや、喜ばないどころか、かえってそれを不足に思う人もある


たとえば、お母さんが朝起こしてくれる。

それを、お母さんが起こしてくれた。

やはりお母さんが気をつけていて、

起こしてくださったんだ、という喜びを感ずる人と、

うるさいお母さんやな、という人と、二つあると私は思うのであります。

どっちがいいでしょうか。

お母さんは、子どもが遅刻してはいけないからと、

早くから起きて、そして起こしてくださる。

そういうお母さんの慈愛に対して、 感謝と喜びを感じるか

または、うるさいな、もっと寝させてくれたらいいのにな、思うか。

どちらかによって、 すっかり変わってくると思います。

どちらがいいかというと、

お母さんの立場から考えても、 喜んでもらいたいでありましょうし、

また子どものほうからいっても、喜びをもって起こされるほうがいい


あっ、 お母さん、すみませんでした。

わざわざ起こしてもらって…。
私はもっと早く、自分で起きのがほんとうでしたのに、

こういうような、言葉には出さないけれどもそういう心持ち、

ここに私は、非常にお互いに温かい心がかよいあうと思うのです

 


これほど自由奔放にさせているのに喜びを感じない。これは恐ろしいことである。

2012-01-26 11:20:25 | 教育

これほど自由奔放に

欲するままに申していいほどにさせているのに喜びを感じない

不平がつのってきているということを考えてみますと

これは恐ろしいことである

なんでそうなっているのか。

これは、そういうことを教えない、教育しないからであると思うんです。

白い紙を持っていって、これは白いんだと、こう教えたならば、

この紙は白いことがちゃんと分かるんです。

で、この白い紙を、これは黒いんだと教えたならば、

白い紙を見ても黒いんだと言います。

教えることによって、ものを知るんでありますから。

その教えることを今は怠っている

こういうことはありがたいことなんだ、こういうことは非常に幸せなことなんだ

こういうことは不幸なことなんだ、という説明をちゃんとして教育していったならば

教育のとおりになると、私は思うんであります

アメリカで生まれ育った子ども、
あるいは英国で生まれ育った子どもは、

当然のことながら、英語がベラベラとしゃべれる。

そのイギリスで生まれた子を、すぐに日本に連れてきて、

日本の家庭で育てたならば、英語はしゃべれないけれど、

知らず識らずのうちに日本語はしゃべれる。

これはなぜかというと周囲の人が、日々教えていくわけです。

そういう、教育によって教育のとおりになっていくのが、

日本人、というよりも、世界の人間の姿であります。


ですから、非常に不平を訴えるような教育をするか
あるいは、一つのものを見て、

それをありがたいというように教えるかによって、

みな変わってくると思うんであります

そうでありますから、教育がいかに大事なものであるかということを考えて、

それに断固として取り組まないといかん。

けれども、そういう姿があるのかないのか。

私は、ここで断言することはできませんが、

 テレビの数字の教えるところによると、そういう結果が出ています。

日本の青少年が、感謝を知らない、喜びを知らない、不平不満ばかり知っている。

それは、不平不満を教えているからである。

感謝を教えないからである

喜びを教えないからであると思うんです。

昭和51年(1976)81歳 浜松ライオンズクラブ

 


人間の心の悪を刺激すれば悪になる。善を刺激すれば善になっていく

2012-01-26 11:15:04 | 徳育 人間力

私は最近感じますのに、善と悪と申しますといろいろな議論の余地はございましょうが、人間の心には善と悪との面があると思うのです。いかなる人でもそう考えていい。一方で善意があれば、一方でやはり悪意をもっている。その二つが心に住まっていると思うんであります。

そういう人間の心の悪を刺激すれば悪になる。善を刺激すれば善になっていく

 

最近の読み物を見ましても、軽く手に取る新聞、週刊誌を見ましても、悪の面を刺激するような記事が多いですね。ですから、どうしても心に住んでいる悪の面が出てくるということであります。これが青少年の犯罪になって現れてくるわけであります。

青少年でなくても、おとなでもそうだと思います。青少年ほど極端ではありませんが、お互いおとなでも、やはり悪の面を刺激する読み物があって、それを読んでいると、ついいくらかそういう気分になってまいります。これは人間の本性であります。しかし善意、いわゆる良心を刺激するものがあれば、これは悪は消えて善になってまいります。これは当然だと思うんです。

昭和41年(1966)71歳全国小学校道徳教育研究発表会


欲の本体は、船を動かす蒸気力のようなもの

2012-01-26 10:38:57 | 徳育 人間力

昭和25年(1950) 55歳

人間の欲といいましても、実に数限りなくあります。

仏教ではこれを三欲五欲とか、いろいろに分類し集約しておりますが、

まったく人間の欲望は、その質においてもその量においても、

他の生物とは比較にならないほど、

広くかつ深いものがありまして、

人間は欲の塊である、

いわれますのも、まことに当然のことだと思うのでたあります。


これほど欲は、人間と切っても切れない関係にあるのですが、

どうも欲といいますと、


今までの通念からして、

私たちにはよい響きを与えないのであります。

何か悪と結びついたものを連想させ、

まして、 欲が深いというとなおさらのことで、

欲が深い人

という言葉は何かよくない人の代名詞として

使われてきたように思われるのであります。

もっとも、こうした通念を私たちが抱くのま一応無理もないことで、

何かよくない事件や、

身を誤った所業、他人に害を与えた仕業などは、

いわゆる欲に目がくらみ、

欲に踊らされた結果起こることが多く、

そのことからして、 欲が悪の源泉のように思われ、

この欲を断ち、欲から脱却することが

人間の徳として教えられてきたと思うのであります

この通念自体は別に悪いことだと思いません。

しかし、 もしもこの考えにとらわれてしまって、

欲の本体を正しくつかまないと、

これは人間にとって非常に不幸なことだと思います。

なぜかといいますと、

欲の本体は、決して汚らわしいものでもなければ悪の根源でもなく、

それは人間の生命力の現われであり、

生きんとする力がかたちとなって現われてきたものだと思うからであります。

つまりこれは、船を動かす蒸気力のようなものであります

したがってもしもこれを悪とし、

その絶滅を図らなければならないと考えますと、

ちょうど船を止めてしまうに等しく、

人間の生命も絶ってしまわなければならないことになるのであります。

もちろん、古来聖賢の教えてこられた禁欲の教えは、

人間をよりよく生かすためであって

決して生命を否定するためのものではないのでありますが

この教えを表面的に受け取るために、

本来の人間の姿をゆがめてしまう場合が非常に多いと思うのであります。

そして、欲を汚らわしいもののように思い、

悪の根源として圧迫しようと考えたりするために、

本来楽しかるべき人生が非常に苦痛となってくると思うのであります。

これは非常な認識不足だと思います。

人間の欲望の本体の姿は、生命力の発現であります。

したがって、それ自体は善でも悪でもないと思います。

それは一つの力と考えるべきもので、善悪以前のものであります

この欲望の本体を、お互いにまずはっきりと知っておきたいと思うのであります。

欲望は生命力の現われであると申しましたが、

生命力は人間が生きていくために、

宇宙根源の力から与えられたものでありますから、

その現われである欲望もまた天与のものであり、

したがって人間は、これが与えられていることを

大いに感謝しなければならないと思うのであります。

すなわち、

欲望は感謝すべきものであって憎むべきものではないと思うのであります。

ただ注意しなければならないことは、それ自体は善ども悪でもない

善悪以前のものであるということは、いいかえると、

善にもなりうるし、悪にもなりうるということであります

すなわち、欲望は人間の用い方いかんによって、

善にも悪にも転化しうるのであります。

ちょうど、私たちは船のかじを握っているようなもので

蒸気力が与えられているのに対して、

これをよい方向にもっていくか悪い方向にもっていくかは、

このかじの動かし方ひとつにかかっているのであります。

すなわち、人間にはかじを

左にも右にも動かしうる自由が与えられていると同時に、

船を順調に進ませるか座礁させるかの

いっさいの責任が負わされているのであります。

自由と責任は、人間に与えられた特性でありますが、

欲望の善悪場合、

これがいちばんはっきりとしてくると思うのであります。

それでは欲望の善悪はどこから生まれてくるのかといいますと、

その欲望を満たそうとする行いが、

お互いの繁栄、平和、 幸福を進めるか損なうかによって

決まってくると思うのであります。

人間はいろいろな欲望をもちます。

そしてその欲望を満たすために、あらゆる努力をいたします。

欲望が生命力の発現であるかぎり、

どのような欲望をもち、どのような努力を続けようと、

それは生きるための尊い姿であって、

決して非難されるべきではありません。