2024年3月9日(土)
五島列島で空海は「荒神岳」 最澄は「山王山」を大事な山とした。
空海は、荒神岳(五島)と交野山と「月山」とで二等辺三角形を描かせた。
最澄は、山王山(五島)と秦始皇帝の地下神殿と「月山」とで二等辺三角形を描いた。二人が岩手の「月山」に思いを馳せていることが私には伝わってくるが、この一連の流れは、能登内親王の墓へと上がって、フラフラ状態でスタート地点にやっとの思いで帰り着いて見せられたときの印象的な「月」からでした。
2024年3月9日(土)
五島列島で空海は「荒神岳」 最澄は「山王山」を大事な山とした。
空海は、荒神岳(五島)と交野山と「月山」とで二等辺三角形を描かせた。
最澄は、山王山(五島)と秦始皇帝の地下神殿と「月山」とで二等辺三角形を描いた。二人が岩手の「月山」に思いを馳せていることが私には伝わってくるが、この一連の流れは、能登内親王の墓へと上がって、フラフラ状態でスタート地点にやっとの思いで帰り着いて見せられたときの印象的な「月」からでした。
2024年3月1日(金)
上森三郎古代史シリーズ・・またまた矢野さんがうまく纏めてくれました。
素晴らしい作品です。周回遅れの人達から見れば、「何を根拠にアホな!」ともう声は聞こえますが、一緒に古代史を探求して先頭を行ってる人達からすれば、「うまく纏めましたね」と・・。
昔も今も、建物を作る時は、意味ある場所に、意味ある方角に向かって出来るだけ耐久性を持たせた設計をするのが建築家なのです。そして建物が朽ちても、基壇(基礎)や地中に遺構は残っていて、そこからその意味を探ることができるのです。 なんと素晴らしいことでしょう!当時の人達と理念も時間も共有できるのです。周回遅れの人達は、いつまでたっても真実にふれることもないのです。
2024年2月16日(金)
下の図形は二つの二等辺三角形を重ねていますが、見事にシンメトリーを描いています。
赤い大きな星の位置が皇大神社で、底辺の右手、紫の星の位置が第10代崇神天皇の墓です。
左手がイエスの八幡山ピラミッド近くの卑弥呼の祈り場です。
そして一番上が丹後半島の太鼓山近くにある秦始皇帝の地下神殿です。
元伊勢内宮と言われる皇大神社の位置決めがどような経緯によってどのような願いを持って造営されたかが伺い知れるようです。
そして、崇神天皇の墓は、ダビデの星の中心に位置していましたね。
一刻も早く崇神天皇の墓の岩戸を開けなければならない!
2024年2月15日(木)
神武天皇陵から皇大神社までとイエス・キリストの墓までは同距離で二等辺三角形を描く。
また皇大神社、高売布神社、イエス・キリストの墓は、正三角形を描く。
皇大神社か秦始皇帝の地下神殿までと、光明皇后の十字架の地下神殿までの距離は同距離で二等辺三角形を描く。
また光明皇后の地下神殿から皇大神社までとイエスの八幡山ピラミッドまでは同距離で二等辺三角形を描く
2024年1月25日(木)
秦始皇帝の地下神殿と、邪馬台国の政治政体の中心地であった粟殿(桜井市)と段ヶ峰近くのフトウガ峰の三点は直角三角形を描きます。
巨大なヘビの地上絵の鼻先が段ヶ峰ですが、フトウガ峰はそのヘビの眉間に当たる場所なのですが、そこには整然とした立派な大きな祭壇石のようなモニュメント的な磐座が存在していました。
なんとも言えない実に清らかな空気が漂う場所でした。
このフェニックスコードには重要な意味が隠されています。それは邪馬台国創建に、ユダヤの十部族のリーダー的役割を果たしたダン族の重大な関わりを教えているようです。
2022年10月5日(水)
新宮で泊まった先は、新宮ホテルニューパレスだった。
25日(日)朝、8:50にお願いしていたタクシーは、時間通りに来てくれて、阿須賀神社に数分で着いた。
神社の社務所の周りには打ち水がされていて、すがすがしい気持ちになりました。そして境内に居てた1人の男性が、9時前になって私に近づいてきて、「神戸から来られた上森さんですか・・」と。
「はい、そうですが・・」と私。
「実は私は元新聞記者なんですが、資料館の知人に今日、山に上られると聞いて、取材させてもらえたらと思いまして・・」と。
時間は9時になったので、とりあえず宮司さんにあって許可をもらわなくてはなりません。
社務所を覗くと宮司さんが窓越しに現れました。
「いつもは上れないのですが、特別に許可いたします。今の季節、まむしもいますので注意してください」と。
新聞記者の人は宮司さんと結構顔見知りらしく、親しげに話していました。
許可をもらってから、前日コアロッド調べた擬木のベンチの前で、同じことをして記者の方に金探査の仕方を説明していると、宮司さんも社務所から出てきて、不思議そうに見つめていました。
「ここで山の方に3mほどキャッチしました。私の足で1歩、二歩、三歩で3mです」
すると記者のひとも、「一歩、二歩、・・六歩で丁度3mですね。私の歩幅は60㎝ですから・・」と。
コアロッドの説明と探査の仕方の説明をして、そして私は、「上り口はどこからでしょうか・・」と宮司さんに尋ねると、「ありません、好きなところから上られては・・」と言うことで、「では、上りましょうかね」と記者の方に声かけて、私は本殿に向かって左手から上がることにしました。許可をもらって上がれる嬉しさと、でも頭の中にはマムシ・・というより好きになれない「ヘビ、蛇、へび・・」対策に、ちょと長手の枝を拾って、数歩先を叩きながら、そして蜘蛛の巣をはらいながらゆっくりゆっくりと私が先頭を行きました。・・と言っても、はじめての記者の方と二人だけの山登りでした。
ブヨや蚊などに弱い椿さんは、ホテルで休んでもらうことにしました。本当に禁足地で人が入らないようで、自然そのものの情景で、でも30mほどですからすぐに山頂に辿り着きました。山頂は倒木で足元が悪くて、ヘビもでそうで・・。 でも折角辿り着いたのですから、バッグからコアロッドを取り出して先ずは24金のチェーンをセットするのに部品を絶対に落とさないようにゆっくりと注意をはらいながら取り付けました。足元は草木で計測しにくい状態でしたが、なんとか計測することができました。金の反応は、前日の3m×3mと全く同じ。つづいて空洞探査を行い、通路も神社がわに5.6mほど伸びていて、空洞が切れた場所が、大きく土が陥没していました。おそらく石室への横穴への入口部だと思わせるような雰囲気でした。記者の太田さんは私の行動をカメラに収められていました。下りて出てきたのは、今度は神社に向かって右手の所に出てきました。そしてそこには、徐福之宮がありました。
・・
私は、数か月前までは、丹後半島の方が徐福の墓だと思っていましたが、丹後半島にある巨大地下神殿が徐福たちが造った秦始皇帝の地下神殿であり、阿須賀神社の御神体山である蓬莱山が徐福の墓であることを知っていて一大率の墓の位置も決められたと確信を得ました。
間違いなく「丹後半島に秦始皇帝を祀る地下神殿がある!」と。
私の頭の中でスッキリと整理ができました。
秦始皇帝の地下神殿と一大率の墓と徐福の墓は、古い時代の基本形である一ラジアンの角度を用いた直角三角形である。
2022年9月24日(土)
一昨日前の私のブログに対して、大西さんが鳳来寺山の存在を教えてくれました。
②今朝のブログについて
鼻高山、始皇帝のお墓と等距離にある新たな空海コードの先にある山。
愛知県の494.8の山は、愛知県新城市の鳳来寺山に近いですね。
鳳来寺山といえば徐福が目指した東海の蓬莱山は富士山ではなくて、この三河に
ある鳳来寺山ではないか?という話を聞いたことがあります(そんな本を読みました)。
一方、紀伊半島の南部の真ん中にある大塔山は、その名の通り神社やお寺にある
石灯籠(石塔)を横から見たような等高線...人が手を広げているようにも..
鈍感ながら私には見えてきました。
始皇帝繋がりの高貴な方...もしかして。
シュンガ朝建国の秦の王室の方、あるいは朱蒙、または瑠璃明王...なんてことは
ないですね。少々浅はかでした。
マリア様やイエス様と空海コードが繋がればひょっとしてと想った次第です。
以上報告まででした。
大西
そして武部さんも同じブログに対して新宮市の阿須賀神社と、その御神体山である蓬莱山の事を教えてくれました。
二つとも「ホウライ」である。そしてその二つの「ホウライ」には『徐福伝説』があると言う。
・・ので、地理院地図にその二つの山にポイントを打って、私の頭にひらめくのは、丹後半島に伝わる徐福伝説の地に教え導かれた山を、当初は徐福の墓だと思い込んでいましたが、ここにきて新宮市の蓬莱山が徐福の墓で、仁徳天皇が国見をした丹後半島の太鼓山から見下ろすすぐ下の山の地下に存在する巨大空間こそが、徐福たちが造り祀った『秦始皇帝の地下神殿』だと響いてきた。それで「もしや・・」と逸る気持ちでそこから二つの鳳来寺山と蓬莱山までの距離を測ると・・、なんと! 229.7kmと同距離なのです。 もうビックリ!です。 私の中で確信に変わった瞬間でした。
それで・・、今日、新宮市の蓬莱山を調査です。新宮駅のホームに「くろしお1号」にて11:58分に初めて降り立ちます。
秦始皇帝の地下神殿と一大率の墓と徐福の墓は、古い時代の基本形である一ラジアンの角度を用いた直角三角形である。
2022年9月22日(木)
台風14号も教えた重要な山、「鼻高山」から「大塔山」が知らされた。そして、鼻高山と大塔山から仁徳天皇が国見をした丹後半島の太鼓山のすぐ眼下にある秦始皇帝の地下神殿を空海コードは教える。そこから愛知県の494.8mの山に高貴な人の墓があることを知らされた。大塔山もそうであるが、いったい誰を祀った山だろうか・・。下の図形で赤いラインは皆、同距離です。
今まで丹後半島にある重要な山は、徐福の墓だと私は思っていましたが、そこは徐福たちが地下に造営した秦始皇帝を祀る地下神殿だと響いてきます。それを築いた徐福の墓は、和歌山県の新宮市にあると言っている。・・なので、新宮市にあるという徐福の墓にのぼらなくてはなりません。
2022年5月24日(火)
新井崎神社から西8.91㎞の地点に徐福の墓(地下神殿) 秦始皇帝の墓は在ります。
浦嶋神社から新井崎神社までと徐福の墓 秦始皇帝の地下神殿までとの距離は共に、5.59㎞と全く同距離に在ります。
徐福の 秦始皇帝の地下神殿の真上には現在、『風のがっこう京都』が建っています。
その建物の地下深くに巨大空間の存在がコアロッドで反応を示します。
地元の方々の手で、早く入口の扉を開けてほしいと私は願います。
徐福の墓 秦始皇帝の地下神殿と若草伽藍と入炭山は、3:4:5の大矩である直角三角形を描いています。
今は幻となった法隆寺の若草伽藍は、徐福の 秦始皇帝の墓に手を合わせるような建物の配置になっていました。(2022年10月18日加筆)
2022年5月5日(木)
関ちゃん、一昨日の徐福の話です。
徐福の墓は丹後半島にあります。
丹後半島の方は、徐福たちが造った、秦始皇帝を祀る地下神殿でした。
関ちゃん、先日話した徐福たちは間違いなく日本に来ています。
そしてその徐福の墓は、京都府の丹後半島に間違いなく存在しています。
徐福の墓は、新宮市の蓬莱山で、丹後半島は徐福たちが造った秦始皇帝の地下神殿でした。
そのことを空海コードは、幾重にも正確に教えています。
2024年1月17日 加筆訂正
2021年8月1日(日)・・2024年1月17日に前記事を訂正しています。
「矢野さん、斑鳩寺って奈良ではなく太子町にあるんですかぁ」と私。
9月4日のツアーの行程の中に、『斑鳩寺』と書いてあって、私の頭は・・???で、矢野さんに聞いたほどでした。
斑鳩(いかるが)って聞いたら、奈良の斑鳩を思い浮かべませんか。
それで早速、兵庫県揖保郡太子町にある斑鳩寺の三重塔にポイントを打って、私の頭の中に浮かんだのは、奈良斑鳩にある法隆寺の今は無き若草伽藍にポイントを打ちました。
そして、若草伽藍は丹後半島にある秦始皇帝の地下神殿に向けて造営されていましたから、その場所にポイントを打ちました。
そして三点の位置関係を見ると・・、斑鳩寺から若草伽藍までと、秦始皇帝の地下神殿までとは109~111㎞と凡そ同距離で二等辺三角形を描いています。
ここまで隠されたものが浮き上がると、西の比叡山延暦寺と言われる書写山円教寺摩尼殿と秦始皇帝の地下神殿までと、秦始皇帝の地下神殿に向けて若草伽藍を造営した蘇我入鹿の墓(松尾寺補陀落山)との関係を見ることにしました。
そうすると・・思いは的中しました。
書写山円教寺摩尼殿から徐福達が造った秦始皇帝の地下神殿までと、蘇我入鹿の墓である松尾寺の補陀落山までの距離は、共に102.2㎞と見事に同距離です。素晴らしい二等辺三角形です。
ここまでくれば、隠されていた日本の歴史が一気に表に吹き出しそうです。