2020年3月12日(木)
『古事記』に第16代仁徳天皇の有名な歌があります。
於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまみゆ)』乃自其嶋傳而幸行吉備國。
(岩波文庫『古事記』1963年、158頁)
ここに天皇、その黒日賣を戀いて、太后を欺きて日うに「淡道島を見むと欲す」と。幸行(い)でましし時、淡道島に坐して、遙に望み歌いて曰く。
「押し照るや 難波の崎よ 出で立ちて 我が國見れば 阿波志摩(あはしま) 淤能碁呂志摩(おのごろしま) 檳榔(あじまさ)の島も見ゆ 放(さけ)つ島見ゆ」
すなわちその島より傳いて、吉備國に幸行(い)でる。 (読み下しは泉城による)
於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまみゆ)』乃自其嶋傳而幸行吉備國。
(岩波文庫『古事記』1963年、158頁)
ここに天皇、その黒日賣を戀いて、太后を欺きて日うに「淡道島を見むと欲す」と。幸行(い)でましし時、淡道島に坐して、遙に望み歌いて曰く。
「押し照るや 難波の崎よ 出で立ちて 我が國見れば 阿波志摩(あはしま) 淤能碁呂志摩(おのごろしま) 檳榔(あじまさ)の島も見ゆ 放(さけ)つ島見ゆ」
すなわちその島より傳いて、吉備國に幸行(い)でる。 (読み下しは泉城による)
難波野崎は、丹後半島でした。
そして、仁徳天皇が歌った場所は、太鼓山(683.2m)。
阿波志摩は、但馬・丹波・・この話は実に面白いし、日本にたどり着いた人たちのルーツが分かります。
大食 たいしょく タージ イスラム ・・んん~~ん、古代史研究家の市川慎さんが、解き明かしていますね。
淤能碁呂志摩は、隠岐の島
檳榔(あじまさ)の島は、ビロウが生息する南九州・市房山(1720.5m)
先月私は、弟の十三回忌と母の一周忌の法要で熊本の実家に帰った。
その時、従兄の廣さんが来ていたので、「中学か高校の時、突然、山に連れて行ってもらったんですが、どこの山でしたかね。しんどかったことだけ覚えています」と話すと、本人は記憶にないみたいで、「行ったのなら霊峰市房山だろう」と教えてくれました。もう50年ほど前に大事な山に登らされていたのには、今更ビックリです。今になって、仁徳天皇の国見の場所に繋がるとは・・不思議な時空を超越しています。
放(さけ)つ島は、狗奴国(徳島・和歌山)
山形も見える
太鼓山が決定的証拠と言えるのは、入炭山(816.9m)と、光が通ることである。
そして入れる炭の山とは、卑弥呼の時代、そこは、大事な光通信基地ですから、いつでも火が焚けるように、炭に火があったということを今に伝えています。
入炭山から80度800mの場所に卑弥呼の墓(婀月山)は在ります。
もともとそこは、卑弥呼の居城と思われます。