2022年10月5日(水)
新宮で泊まった先は、新宮ホテルニューパレスだった。
25日(日)朝、8:50にお願いしていたタクシーは、時間通りに来てくれて、阿須賀神社に数分で着いた。
神社の社務所の周りには打ち水がされていて、すがすがしい気持ちになりました。そして境内に居てた1人の男性が、9時前になって私に近づいてきて、「神戸から来られた上森さんですか・・」と。
「はい、そうですが・・」と私。
「実は私は元新聞記者なんですが、資料館の知人に今日、山に上られると聞いて、取材させてもらえたらと思いまして・・」と。
時間は9時になったので、とりあえず宮司さんにあって許可をもらわなくてはなりません。
社務所を覗くと宮司さんが窓越しに現れました。
「いつもは上れないのですが、特別に許可いたします。今の季節、まむしもいますので注意してください」と。
新聞記者の人は宮司さんと結構顔見知りらしく、親しげに話していました。
許可をもらってから、前日コアロッド調べた擬木のベンチの前で、同じことをして記者の方に金探査の仕方を説明していると、宮司さんも社務所から出てきて、不思議そうに見つめていました。
「ここで山の方に3mほどキャッチしました。私の足で1歩、二歩、三歩で3mです」
すると記者のひとも、「一歩、二歩、・・六歩で丁度3mですね。私の歩幅は60㎝ですから・・」と。
コアロッドの説明と探査の仕方の説明をして、そして私は、「上り口はどこからでしょうか・・」と宮司さんに尋ねると、「ありません、好きなところから上られては・・」と言うことで、「では、上りましょうかね」と記者の方に声かけて、私は本殿に向かって左手から上がることにしました。許可をもらって上がれる嬉しさと、でも頭の中にはマムシ・・というより好きになれない「ヘビ、蛇、へび・・」対策に、ちょと長手の枝を拾って、数歩先を叩きながら、そして蜘蛛の巣をはらいながらゆっくりゆっくりと私が先頭を行きました。・・と言っても、はじめての記者の方と二人だけの山登りでした。
ブヨや蚊などに弱い椿さんは、ホテルで休んでもらうことにしました。本当に禁足地で人が入らないようで、自然そのものの情景で、でも30mほどですからすぐに山頂に辿り着きました。山頂は倒木で足元が悪くて、ヘビもでそうで・・。 でも折角辿り着いたのですから、バッグからコアロッドを取り出して先ずは24金のチェーンをセットするのに部品を絶対に落とさないようにゆっくりと注意をはらいながら取り付けました。足元は草木で計測しにくい状態でしたが、なんとか計測することができました。金の反応は、前日の3m×3mと全く同じ。つづいて空洞探査を行い、通路も神社がわに5.6mほど伸びていて、空洞が切れた場所が、大きく土が陥没していました。おそらく石室への横穴への入口部だと思わせるような雰囲気でした。記者の太田さんは私の行動をカメラに収められていました。下りて出てきたのは、今度は神社に向かって右手の所に出てきました。そしてそこには、徐福之宮がありました。
・・
私は、数か月前までは、丹後半島の方が徐福の墓だと思っていましたが、丹後半島にある巨大地下神殿が徐福たちが造った秦始皇帝の地下神殿であり、阿須賀神社の御神体山である蓬莱山が徐福の墓であることを知っていて一大率の墓の位置も決められたと確信を得ました。
間違いなく「丹後半島に秦始皇帝を祀る地下神殿がある!」と。
私の頭の中でスッキリと整理ができました。
秦始皇帝の地下神殿と一大率の墓と徐福の墓は、古い時代の基本形である一ラジアンの角度を用いた直角三角形である。
2022年9月24日(土)
一昨日前の私のブログに対して、大西さんが鳳来寺山の存在を教えてくれました。
②今朝のブログについて
鼻高山、始皇帝のお墓と等距離にある新たな空海コードの先にある山。
愛知県の494.8の山は、愛知県新城市の鳳来寺山に近いですね。
鳳来寺山といえば徐福が目指した東海の蓬莱山は富士山ではなくて、この三河に
ある鳳来寺山ではないか?という話を聞いたことがあります(そんな本を読みました)。
一方、紀伊半島の南部の真ん中にある大塔山は、その名の通り神社やお寺にある
石灯籠(石塔)を横から見たような等高線...人が手を広げているようにも..
鈍感ながら私には見えてきました。
始皇帝繋がりの高貴な方...もしかして。
シュンガ朝建国の秦の王室の方、あるいは朱蒙、または瑠璃明王...なんてことは
ないですね。少々浅はかでした。
マリア様やイエス様と空海コードが繋がればひょっとしてと想った次第です。
以上報告まででした。
大西
そして武部さんも同じブログに対して新宮市の阿須賀神社と、その御神体山である蓬莱山の事を教えてくれました。
二つとも「ホウライ」である。そしてその二つの「ホウライ」には『徐福伝説』があると言う。
・・ので、地理院地図にその二つの山にポイントを打って、私の頭にひらめくのは、丹後半島に伝わる徐福伝説の地に教え導かれた山を、当初は徐福の墓だと思い込んでいましたが、ここにきて新宮市の蓬莱山が徐福の墓で、仁徳天皇が国見をした丹後半島の太鼓山から見下ろすすぐ下の山の地下に存在する巨大空間こそが、徐福たちが造り祀った『秦始皇帝の地下神殿』だと響いてきた。それで「もしや・・」と逸る気持ちでそこから二つの鳳来寺山と蓬莱山までの距離を測ると・・、なんと! 229.7kmと同距離なのです。 もうビックリ!です。 私の中で確信に変わった瞬間でした。
それで・・、今日、新宮市の蓬莱山を調査です。新宮駅のホームに「くろしお1号」にて11:58分に初めて降り立ちます。
秦始皇帝の地下神殿と一大率の墓と徐福の墓は、古い時代の基本形である一ラジアンの角度を用いた直角三角形である。
2022年9月8日(木)
昨日、7日は、一大率の墓の地権者が誰なのかを調べに行きました。
先ずは管轄の岐阜県池田町役場に行きました。
神戸の六甲道駅を9:30の快速に乗って米原まで行って、そこから特急しらさぎ で大垣駅まで行って、そこから養老電鉄に乗り換えて目指した駅は、北池野駅でした。
着いたのは、13:00数分前でした。そして池田町役場はその駅から数分の所にありました。
目指す課に行って、一大率のお墓の地番を教えてもらいに行きました。
今回はすんなりいきましたねぇ。待つこと十数分のようでした。
すぐに土地の地番は分かりましたが、帰りの電車を待つこと誰もいないホームで40分ほど、ボ~~~っと良い時間を過ごすことができました。
電車に乗ってもボ~~~っと車窓からの見慣れない景色を見ていました。
そうこうしていると、終点、大垣駅です。
そこからタクシーで、大垣の法務支局へと行って、ここでもすんなりと知りたい地権者と土地の情報を上げることができました。
そして帰りは、大垣駅まで歩いて帰りました。
そして、JRの窓口で米原駅からの新幹線の切符を買い求めて、神戸の事務所に着いたのは17:07ほどでした。
一日がかりの仕事でした。 でも‥私の頭に刺さっていたトゲが一本抜けたという安堵感でした。
一大率の土地の情報が何も分からなければ、何一つ前に進みません。
そういう意味で、非常に有意義な一日でした。
2021年12月31日(金)
隠された隠岐の島の摩尼山(大満寺山)の存在から、改めて古代の重要人物たちのお墓の場所が浮かび上がってきました。
そして、絶対に辿り着く、外してはならない神様が祀られている場所も浮かび上がってきました。
このことはまだ書けません。
そして、岐阜の山中に眠る古代の歴史を紐解く重要な人物である『一大率』のお墓にも先月久々に行きましたが、立派な石室と大量の黄金が詰められていることも分かりました。
だれも知ることができないと思い込んでいる古代の歴史が解き明かされる日も近づきつつあるように思います。
今年も大いに動き回ることができた一年だったと多くの皆様に感謝する次第です。
ありがとうございました。
良い年をお迎えくださいませ。
2021年4月15日(木)
聖武天皇の勅命により行基が創建したという真言宗御室派恵日山 円満院(神通寺)の真北に伏見山(ぶくみやま)は位置しています。
この意味は重大です。
そして、ヤナ谷製鉄遺跡や夜久郷の鉱山にまつわる話など京都府福知山市夜久野町畑の歴史に私は興味をそそられます。
富久貴(ふくみ)の滝にも惹きつけられるものがあります。
この地域の歴史は邪馬台国建国にさかのぼる気がしてなりません。
そして、伏見山の東にそびえる三岳山との間に位置する
の歴史も重要です。
投馬国(つまこく)の大王であり初代出雲の大王、 彌彌(ミミ)のピラミッドである伏見山の歴史が見えてきます。
当然、空海はこの地に来ています。
下の図形は、卑弥呼の時代の重要な立役者である、彌彌 彌彌那利 一大率の墓です。
そして・・コヤネの墓との関係図です。
空海コードは、凄い!
青は、二等辺三角形。赤は、2:1:√3の基本形の図形です。
2020年1月4日(土)
伊奢能麻和迦王の陵墓を私はこれから竜石山古墳と呼ぶことにしました。
竜石山古墳の大きさは、応神天皇陵とほぼ同じ大きさの古墳です。
そしてこの古墳の主の故郷なり、伝え残したい場所は、尾張、三河方面を教えています。
この方向には、名古屋港がある名古屋市港区です。
一点を示すなら港区の「龍神社」です。龍神社は竜石山古墳との関係を教えています。
そしてこの龍と竜を結んで1:1:√2になる場所に、邪馬壹国の女王卑弥呼が絶対的に信頼し頼りにしていた「一大率長官」の墓があります。
一大率の墓は、出雲大社と内子のピラミッドと2:1:√3の地点に造営されました。
出雲大社と宇佐八幡宮と内子ピラミッドは2:1:√3で、出雲大社と内子のピラミッドと馬路の八杉森も2:1:√3です。
「女王国より以北、特に一大率を置き諸国を検察しむ、諸國はこれを畏(おそ)れ憚(はばか)る。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史(しし)如くあり」
卑弥呼が一大率長官に特に目を光らせていた地域が、敦賀であり琵琶湖であり伊勢湾でしたね。
そして一大率長官は、船で移動する海神でしたね。
下の地図のピンクの部分が、邪馬壹国です。
卑弥呼は、女王国より以北、特に一大率を置き諸国を検察しむなのです。
琵琶湖と日本海の拠点が敦賀・若狭湾であり太平洋が伊勢湾・三河湾、伊良湖水道です。
一大率は、現代で言えば、自衛隊の海軍を率いる国防大臣でしょうかね。
イエス・キリストの血を引く卑弥呼を女王とし、オリオン座を下ろして設計された邪馬壹国の国土は、外敵から重要ものを絶対的に守るための国土設計になっています。
その重要なものとは・・、イエス・キリストの墓です。女王卑弥呼は、イエス・キリストやその王家の人達の墓守が務めでした。
畿内説を悩ませてきたひとつの記述が「女王国の東」である。
女王國の東、海を渡る、千余里、復た國有り、皆倭種。
畿内説では、東に海がないからである。
上森説の邪馬壹国の版図は、日本海岸まで達しているので、東へ海を渡ることができる。千余里は1里=77mの短里で計算すると、77km余なので、80kmくらいか。
この距離は、丹後半島の伊根、あるいは宮津、舞鶴から出発して、敦賀湾の奥の敦賀までの距離に相当する。ここには気比(けひ)神宮という神社があって、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)というこの神社特有の神様だ。この神様の降臨の地、「土公」と呼ばれる塚には、大きな木が生い茂っているが、卵型の岩が八角形に並べられていて、最澄さま、空海さまが7日7夜の祈祷をされたというから、ただ事ではない。
また、気比神宮の摂社に角鹿神社(つぬがじんじゃ)があり、『日本書紀』に垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が祀られているのも注目に値する。
聖地神河には、猪篠(いざさ)という地域があります。そしてその奥に卑弥呼の陵墓が一番きれいに見えるところに奥猪篠と言う集落があります。
そしてこの奥猪篠の上に白岩山(973m)があり、この山を私は七福神の一人、毘沙門天の墓だと教えられています。
んん・・・ん、全て繋がってきますよ。
壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が尾張に援軍を要請したことで、大友皇子の陣営が戦意を失う意味、その謎が解けてきましたよ!
2019年7月20日(土)
「壬申の乱の謎解き」をしなくてはならないところに差し掛かったようです。
天武天皇を語る時、今までに明らかにされていないことを大地に記された図形から辿らなければ答えは見出せません。
それは、卑弥呼の時代まで遡らなければ解けません。
その重要なカギを握っているのは、「一大率(いちだいそつ)」の存在とその拠点にあるようです。
2012年5月23日(水)
朝から倉庫の片づけをし、在庫を調べると底をつきそうな気配なので、ピンクのテラファイトを久々に組み終わってホッとすると、夕方の6時ぐらいになっていました。疲れと安心感からか、意識を失ったように椅子に座ったままの昏睡状態から目が覚めた時には、8時を回っていました。
目が覚めるなり・・
「出雲のイヅモは 伊投媽 と書きます。伊都国と投馬国を合わせた国が出雲(伊投媽)の国ですと・・」 ?? んん ??
6.伊都国 | 戻る |
東南に陸行すること五百里で、伊都国(筑前の国怡土郡)にいたる。 官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸がある。 世々王がある。みな女王国に属している。(そこは帯方)郡使が往来す るときつねにとどまるところである。
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7.奴国 | 戻る |
東南(行)して、奴国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。 百里である。官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)という。 二万余戸がある。
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8.不弥国 | 戻る |
東行して不弥国(筑前の国、糟屋郡の宇瀰、いまの宇美町付近) にいたる。百里である。官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)という。千余戸がある。
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9.投馬国 | 戻る |
南(行)して投馬国にいたる。水行二十日である。官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)という。五万余戸ばかりである。
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10.邪馬台国 | 戻る |
南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。七万戸ばかりである。
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35.一大率 | 戻る |
女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。 (倭)王の使が京都(魏の都、洛陽)・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、(帯方)郡の使が倭国に(いたり)およんだときは、みな津(船つき場)に臨んで 伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王(のもと)にいたらせるときに、差錯(不足やくいちがい)がないようにする。 |
伊王島 伊島 大王崎 を底辺とした二等辺三角形の頂点に出雲大社があります。
出雲を伊投媽と書いて・・ みると・・。 そして 伊勢神宮の伊にも共通した意味があるようです。
・・・
夢と言いますか、お告げといいますか、 忘れないうちにとここに書いてみました。
投馬国が吉備王朝のように言ってますね・・、私には最初から総社宮が物部王国(吉備王朝)の総本宮だと教えていますが、出雲の国譲りと邪馬台国の謎をキッチリ教えてくれているようです。
伊王(伊投媽の神)が築きあげた瀬戸内海の制海権を三角形の図は表しているようです。