散文的で抒情的な、わたくしの意見

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リベラルは何故、道徳教育を嫌うのか。

2018年07月30日 | 歴史
自分で書いておいてなんなんですが、「題名がおかしい」ですね。「リベラル」とは何か。「本当に嫌っているのか」など、変な点はいくつも指摘できます。

まあTVのコメンテイターのうち、良識派とか左寄りと言われるひとが、「官製の道徳教育を嫌う」もしくは「どうせ実効性はない」などと揶揄(やゆ)するのは何故か、ぐらいの意味だと思ってください。

私の「立ち位置」を書くなら、「リベラル風」です、「風」がつくのです。凄く保守的な面もありますし、前衛的な面もある。総合すれば「リベラル風」かなと思います。人間は矛盾の総合体ですから、「イズムで生きる」なんてことはないのです。商売右翼さんとか商売サヨクさんは別にして、いや彼らこそまた矛盾の総合体であり、つまりは「みんな色々な面を持っている」はずです。

リベラル風ですから、「日の丸」とか「愛国心を声高に言う人」はまあ「好きじゃない」方です。でも自分で言うのもなんですが、日本史の知識は平均以上ぐらいにはあります。日本という国をいつも考えているのです。正直、「愛国心を声高に言う人」より「よほど私の方が日本の歴史を知っている」と思います。でも自分は愛国者だなんていう必要もないのでいいません。そういうことを大声でいうひとはほとんど「ニセモノ」だと思っています。まあ実際、ワタクシは「いわゆる愛国者」ではないでしょう。好きな面もあるが嫌いな面、改良しないといけないと考える面も日本には沢山ある。そもそも僕にとっては愛国者かどうかなんて「本当にどーでもいいこと」です。

さて本題。

今の50代とか60代の人が大学で学んだ場合、当時の大学の先生たちはほぼサヨク的でした。「ほぼ」です。ウヨク的だと「保守反動思想家」と言われて「忌み嫌われる」わけです。だからほとんどの大学の先生は「サヨク的」です。そういう人が書いた本で学ぶわけだから、どうしたって頭は「サヨク的」もしくは「リベラル的」になりがちです。そういう時代だったのです。中にはサヨク的では飽き足らず、もっと左へ行きたい人々もいました。吉本隆明氏なんかは共産党さえ「保守的」だと批判し続けていました。

そういう人たちは、カントの道徳律の影響を「自然に受けて」いることが多いと思います。別にカントを読んだことなくても、カントに影響を受けた人の本を読めば、自然に受けてしまうのです。マルクスを理解するためにはヘーゲルの理解が必要であり、ヘーゲルの理解のためにはカントの理解が必要です。

僕の場合などは、高校の倫理の時間でカントを勉強して、すっごく感動したわけです。だから自覚的に影響を受けています。

そんなに難しい話ではないのです。

「人間は自律性を持ち、みずから立てた道徳律に、みすから従う能力を持っている」というだけのことです。外在的な道徳に従う必要はないけれど、みずから立てた道徳法則に従うことは重要だ。僕はそのように解釈しました。そして「感動」したのです。

「内面化された道徳律こそ真の道徳律であり、すなわちそれこそが倫理である。同時にそこにこそ人間の真の自由がある」。高校生だった私はそのように解釈しましたし、その考えは今も変わっていません。

でも「みんなが勝手に道徳律を持ち、その個人個人の道徳律に従うなら、争いが起きる」。つまりは「万人の万人による闘争」が起きてしまうのではないか。

そこで有名なこの文章が登場します。

「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」

なんじゃそりゃ、と書きたいところですが、実はそんなに難しくはありません。「格率」さえ分かれば、そんなに難しくないのです。

格率とは「個人の道徳律」のことです。それを「個人が自由に選んだ道徳の法則」と書かずに「格率」なんて書くから分からない。そもそも「格率」なんて日本語、普通は見たことも聞いたこともないものです。なんでそんな訳になったか調べても分かりませんでしたが、要するに「訳がいけない」のです。誰がこんな日本語考えたのだろ?

「あなたは自由に自分の道徳の法則、行動の法則、基準を選ぶことができますよね。でもね、それにできるだけ普遍性を持たせなさい。普遍性がなければ、個人と個人の衝突が起き、結局誰も真の自由を得られないのですよ」

そんな感じの訳になるはずです。

「ふへん」という日本語。漢字にすると不変、普遍、不偏と3つの漢字が存在します。「不偏」は偏りがないこと。普遍は「いつでもどこでも通用すること」です。

道徳基準は大切ですよ。でも外から押し付けられた道徳基準はあまり意味がないですよ。自分で考えて、自分の意志で道徳の規準(倫理)を持ちなさい。自分の頭で考えた道徳の法則です。でもね、それが「なんでもあり」にならないようにしなくちゃいけない。そうしないと「個人の自由道徳と個人の自由道徳の激突」が起ってしまう。みんなが不自由になって、真の自由は得られませんよ。

だから「個人の道徳律」を持つ時は、それができるだけ「普遍的」であること目指しなさい。

カントの言っていることはそういうことで、別に難しいことでも何でもありません。

で、最初の話題にもどるのですが、こういうカント風の道徳思想の影響を受けた、リベラル派とか良識派の人がいるとして、そういう人から見れば、「官製の道徳教育がカント主義に基づくわけがない」と「どうしても思えて」しまうのです。

「道徳教育をやってもいいが、道徳教育の最終目標は分かっているのかい?それは人間の真の自由と解放なんだよ」と「言いたくなっちゃう」のです。

で、「なんとなく嫌い」というか「信用できない」となり、「どうしても揶揄したくなる」、、、うーんちょっと「書ききれてない」感じはしますが、まあ今の段階では、とりあえず私はそのように考えます。

普遍的な道徳律をもった人間を「人格」といい、そうした「人格」で成り立つ社会を、カントは目的の王国と呼びました。国連の成立に大きな影響を与えます。「目的の王国でこそ人は真に自由になれる」、だからカントにおける道徳の最終目標の一つは「真の自由」なのです。



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