散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

徳川秀忠は恐妻家じゃなかったんじゃないか。

2017年08月30日 | ドラマ
徳川秀忠は正式な側室を持たなかったということで、恐妻家とされています。

その怖い奥さんは「お江」です。淀君の妹で、などと説明しなくても一応大河の主役になってますから、みなさん周知の「お江」です。

一方で「かわいそうなお江の身の上を思って、側室を持たなかった」という「優しい旦那説」もあります。

大河「江」。きちんと見てません。6月ぐらいで「これ以上は無理だ」と思って見ませんでした。

だから秀忠の扱いも分かりませんが、向井理さんが演じてました。やけにクールだったような気がします。

大河「江」。最低というより無茶苦茶が過ぎて「気味が悪い作品」なんですが、調べてみるとちゃんと「最低作品賞」も受賞しているようです。

そりゃそうだ。ひどすぎて作品を批判する気すら起きません。狂気の沙汰の作品です。

柳生もので、蟹江敬三さんが秀忠を演じたことがあって、あれなんかは良かった。家康が死ぬと「ついにくたばったか、あの狸じじい」とか言ってました。

船越さんのケースなんか見ると、怖い奥さんは本当に怖いな。怪談の数百倍怖いな、とは思います。

でも「江」なんて何の後ろ盾もない女です。当初は秀吉の後ろ盾がありましたが、当然なくなります。ただの浅井長政の遺児です。怖いかな?と単純にそう思います。

恐妻家じゃなかった、に別に根拠はありません。でも怖くないでしょ、彼女の身分から考えても。お市の娘で織田系でもありますが、秀忠にとって織田なんて主筋でもなんでもありません。

あまり男子を作りたくなかった。特に側室系の男子を持ちたくなった、のではないかと思います。プラス大奥の混乱も面倒だった、お江VS春日局で十分に混乱しているわけですから。

「江」は多産なんですね。たまたま男子は二人でしたが、全部男子だったらそれだけで5人か6人です。

男子が多いことは子孫を残すぶんにはいいですが、非常に厄介というのは、親父家康の例で分かっているはずですし、何より彼には二人も兄がいました。

長兄は早くに親父によって死を命じられていますが、次兄の結城秀康は秀忠が将軍になった段階では生きています。その他弟も沢山いました。

まあ当時は子供が大人まで成長する「確率」が非常に低いので、「男子を作りたくなかった」という私の説もあまり説得力はない、と自分でも感じますが。

でも結果としては「家光」と「忠長」という「二人しかいない男子」でさえ、確執を深め、ついには忠長は切腹ということになります。

周知のように秀忠にはもう一人、男子がいます。家光の弟ですね。

でも庶子だったので、徳川姓も、松平姓さえ秀忠は与えません。(制度的な側面もあるようです)

でも結果としてはこれが大成功でした。

彼は保科家に育てられ、保科姓を名乗り、将軍の弟だという身分を主張することは決してありませんでした。

言わずもがな、保科正之です。家臣として家光に重用され、家光亡き後は4代家綱の幕閣となりました。江戸期のおいて最も卓越した政治家と言われています。

会津藩の藩祖でもあります。生涯松平姓は名乗りませんでした。会津が松平になったのは3代目からのようです。

もっとも保科正之はあまりに兄ではあるが何よりも主君である徳川家光に信頼され、愛情を受け、そのあまりに徳川宗家に対して恩義や愛情を持ちすぎました。

その会津藩の「徳川愛」が、260年後に会津武士を追い詰めることになります。会津だって徳川宗家と同じように恭順していたのですが、なにせ新選組の雇い主です。

薩長がどうしても許さず、あの悲惨な会津戦争になっていきます。

なんだか恐妻家話からいつの間にかズレてしまいましたが、まとめようもないので、終わりにします。



真田家は何故譜代並みなのか。

2017年08月30日 | ドラマ
真田家、というのは幸村家ではなく、兄の信之家のことです。松代藩ですね。

なぜ譜代並みなんだろう?というのはなんとなく疑問に思っていたことです。調べてみました。

真田家は真田信之の段階でも徳川の家臣ではありません。秀吉によって徳川につくように命じられた与力です。与力は協力者であって家臣ではありません。

たとえば大河「功名が辻」では、山内一豊が信長存命中も、まるで秀吉の家臣のように表現されていましたが、「信長存命中は」違います。やはり信長によって命じられた秀吉の与力です。

大河「功名が辻」では「秀吉様」なんて呼んでましたが、どうなんでしょう。与力にそんな呼ばせ方をして「あたかも主君」のように振舞ったら、秀吉の首は信長によって飛ばされるはずです。

筆頭家老の柴田勝家だって果たして与力から「柴田様」と呼ばれていたかどうか。ドラマなどではよく「おやじ殿」とか呼ばれています。

昔の考証がしっかりしたドラマだと山内一豊は、秀吉を「木下殿」とか「羽柴殿」とか呼びます。与力だから本能寺前はそう呼んでいたと思えます。

譜代大名というのは、関ケ原前から徳川の「家臣」だった家です。真田信之は家臣ではないので、いくら徳川に対して忠節があっても譜代ではないのです。外様です。

なるほど信之は徳川に功績があり、しかも90過ぎまで生きて、尊敬も集めました。さらに妻は本多忠勝の娘です。だから「譜代並み」なのかというと、そうでもないようです。

これはドラマですが、「真田太平記」などでは「秀忠にひどく恨まれていた」ことになっています。譜代並みなんてとんでもない、という描き方です。

ではどうして譜代並みになったのか。

真田家の家系を考えると、途中で信之の男系の血筋は絶えてしまいます、のち女系の血筋も絶えると思います。

男系の血筋が絶えた時に(18世紀末ですから幕末に近づいていく時期ですが)「井伊家」から養子を迎えて当主とします。

大老格である井伊家の血が入ったから「譜代並み」、、、とそう簡単にはいきません。養子縁組があるたびに「家格を変えて」いたのでは、わけがわからなくなります。

どうやらその次の養子、真田幸貫がキーマンのようです。考えてみるといつの間にか「幸」の字が復活しています。

この人、松平定信の子なんです。松平定信は「寛政の改革」で教科書にも出てくる人で、田安宗武の息子です。で、田安宗武というのは8代将軍徳川吉宗の次男です。

田安宗武は、出来のいい次男で、出来が悪く言葉がはっきり話せない嫡男、9代家重に代わって将軍になろうと(または周りがしようと)し、かえって吉宗に疎まれて何の功績も残せなかった、とまあ「通説」ではそうなっている人物ですね。

徳川吉宗の次男(田安宗武)の子(松平定信)の子(ひ孫)が養子(当主)になったから、譜代並み、かというとそんなことにもなりません。

だいたい田安宗武は徳川吉宗の子ですから譜代じゃありません。将軍の家族、御三卿です。(田安家の初代当主)。御三卿は政治に参与できないので老中にすらなれません。

田安宗武の子である松平定信が老中になれたのは、親藩である奥羽松平家の養子になっていたからで、田安家を継いだら老中にはなれません。老中より家格がずっと上だからです。

真田家は何故譜代並みなのか。

結局答えは松平定信の子である真田幸貫を老中にしたかったからということになります。真田幸貫は実際老中になります。真田家から老中が出ているのです。

でも老中にするためには家格を「譜代並み」にしなくてはいけません。だから譜代並みなわけです。譜代並みだから老中になったわけではなく、老中になったから(当主を老中にするために)譜代並みになったのです。

彼を老中にしたのは天保の改革の水野忠邦です。もうほとんど幕末ですね。幕末前夜。だから最後の最後に譜代並みになったのであって、江戸時代を通じて、真田家は、ほとんどの時期は外様だったのです。

幕末は官軍になりますが、それは当然で、真田家は本質的には外様だからです。もっとも尾張徳川家も井伊家だっていち早く官軍になっていますから「外様だから官軍」という言い方は正確には間違いですが、。