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904,733
昭和二十七年秋場所の「四本柱」
撤廃は矢張り当時としても劃期的
改革だったに違いない━でも、主に
観客の邪魔もの─それが理由だった。
それよりもっと・もっと大改革は
その22年ほど前の昭和五年夏場所、
四本柱を背に土俵上に坐っていた
4人の大きな男たち─元力士の勝負
検査役を土俵下へ降ろした。
仮に、太刀山の“四五日”(ひとつき半)
の突き…や、栃木山の押しで相手力士
が土俵上の検査役に“体当り”して負傷
したら一大事であった。そんな記録は
皆無だったから、永年の陋習が続行と
なっていたものだろう…。
でも、その要因は江戸~明治の頃は
大抵が所謂「四つ相撲」であり、土俵
外へ出す〔もしくは倒す〕取口が少な
かった証左でもある─と、愚考する。
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昭和二十七年秋場所の「四本柱」
撤廃は矢張り当時としても劃期的
改革だったに違いない━でも、主に
観客の邪魔もの─それが理由だった。
それよりもっと・もっと大改革は
その22年ほど前の昭和五年夏場所、
四本柱を背に土俵上に坐っていた
4人の大きな男たち─元力士の勝負
検査役を土俵下へ降ろした。
仮に、太刀山の“四五日”(ひとつき半)
の突き…や、栃木山の押しで相手力士
が土俵上の検査役に“体当り”して負傷
したら一大事であった。そんな記録は
皆無だったから、永年の陋習が続行と
なっていたものだろう…。
でも、その要因は江戸~明治の頃は
大抵が所謂「四つ相撲」であり、土俵
外へ出す〔もしくは倒す〕取口が少な
かった証左でもある─と、愚考する。