Ryojinブログ

剣道のこと、オオカミ復活運動のこと、そして紀州犬のことやいつも行き来している大好きな京都のネタなども綴っていきます。

「死は自分のものではない」

2024-03-22 10:50:05 | 随想・・・。

 表題の言葉、誰かが言ってました。

妙に納得しましたね。

  先日、母が数え93歳で亡くなりました。

何だかその死というものが随分と遠くに感じましてね、距離の問題じゃありません、すぐ近所で妹が懸命に世話をしてましたから・・・。

ただ寂しいとかつらいとかという思いが余り湧かなくて、そういう自分は物事に随分と醒めた存在なのかなぁと少し己を見直してみましたが、どうもそういう問題じゃなくて、要は「時間というもの」のなせることなんだ、と云うところに行き着きました。

  母親の93歳という人生は息子の僕との関りを持ってしても、長い人生だったと思います。

思い出は良いことも嫌なこともその都度都度に湧いてきますが、それも詮無いことと自分の中で清算されていくんですよね。

  あれよあれよという間に時は過ぎて行きます。要するに自分も含め歴史の時間軸の上に乗っかって誰もが人生を送っているんだという事実、それだけなんですよね。

  何を成したかとか成そうとしたかとか、豊かだとか健康だとか円満だとか、金持ちだとか貧乏だとか、そういう人間を取り巻く生きるという世界の基準のようなものや、あらゆる比較の世界で一所懸命に生きることも、またこれと言って何もせず、とりわけ物事を考える訳でもなく、ただ漫然と日々を過ごして年老いていくだけの生き方も結局は「死」という終局で幕を閉じ、その死を迎えた瞬間、自分という存在は終わっていて、後はその死を取り巻く生前の自分に近しい家族や親戚、友人知人たち、それすらいないという人も含め、つまるところ生きている人達の問題で「死は自分のものではない」と云うことになるのですよね。

まぁそんなこと思った訳です。まったくしょうもないたわ言かもですけどね。

  話は大きく飛躍しますが、亡くなった人というか大袈裟ですが過去の「人類」それが遺した思想、知識や経験、あらゆる知性というもの。それが今を生きている人間の素晴らしい糧となっているのは紛れもありません。

しかしながら今の世界の情勢を見ても判りますが、長い年月をかけて引き継がれ、守られ、残されてきたものや培われてきたものは決して良いことばかりではなく、人類にとってまさに負の遺産としか言いようのないものも多く存在するというのも事実ですがね。

  ということで母の死という一穴から色々と考えを巡らすことができました。

あの大切だった榎本さんの死からもう5年目になりました。

  こうして日々が流れ、物事は過ぎ去っていくのですね。

  終わります。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本オオカミを考える。 | トップ | 「熊野の森」のオオカミみゅ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

随想・・・。」カテゴリの最新記事