Ryojinブログ

剣道のこと、オオカミ復活運動のこと、そして紀州犬のことやいつも行き来している大好きな京都のネタなども綴っていきます。

モスクワ最後の夜。

2024-11-02 15:57:17 | 随想・・・。

  明日ロンドンに発つ前の晩、お世話になった面々が勤める日本料理店「さくら」で食事をすることにしました。

タクシーでお店まで出向き、先日の御礼をのべてから、その日初対面のNさんというマネージャーさんがあれこれと面倒をみてくれて久々の日本食を食べましたが、味はさておき日本料理はやっぱり口に合います。

  焼き鳥や何だかんだと食べて、お酒も日本酒を飲んで堪能したのでそろそろ帰ろうかと勘定をお願いしたら、マネージャーのNさんが支払いを担当してくれて、料理長にも会えなかったので僕がもう一度丁寧に御礼を伝え帰ろうとすると、すでに知り合いのタクシーを呼んでくれていて、出口で彼が小さな声で「オカダさんが今支払った額は、ここの従業員たちの1か月の給料と同じくらいですからね・・」とささやきました。

多分日本円で3、4千円だったと思います。ドルで支払いましたけど・・・。

「タクシー代はタバコで充分ですからそうしてくださいね」とも言われ、再度ありがたく御礼を言ってレストランを後にしました。

  ホテルについて支払いの際、親切で丁寧なその運転手さんに対し、僕の判断でルーブルで全額を支払い、プラスたばこを一個て手渡しました。僕の気持でしたから・・。

運転手さんは随分喜んでくれましたけどね、手元のルーブルはほとんど無くなりました。

当時のレートは忘れましたが、余りの生活と金銭の格差に唖然としてしまい、今始まったことではないにしろ忸怩たる思いにさいなまれましたね。

  こうして短かったけど色々あった激動のモスクワを後にしました。

ヨーロッパ旅行の話はあまりに古くて現実的はないのでまた気が向いたら書きます。

  当時の「トーマスクック」の時刻表もボロボロの状態ですけど残っていますし「地球の歩き方」も何とか原形を留めてあります。

僕の日記手帳も残っていますのでネタには不自由しませんから。

  終わります。

 

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ブルージュの思い出2 ロシア編

2024-11-01 10:30:19 | 随想・・・。

  かえすがえす気障な表題でごめんです。

ようやくこのホテルに行き着いたのは良かったのですが、薄明りの下のドアをノックしても誰も来ません・・不安になって大声で何度も呼びかけたところ、やにわにドアが開いて若い金髪の青年がニコニコとしながら出迎えてくれました。

いやーホットしましたよ。

で、彼氏、笑いながら招き入れてくれたのですがどうも通路も狭くておかしいと思っていたら、何のことはない「裏口」でした。ったくバカでしょう!(^^)!。

  少し進むと急に目の前が明るくなり、そこがこの小さなホテルのフロントとこじんまりしたレストランだったという訳です。

  チェックインの後すぐに部屋に案内してくれたのですが、そこは急な階段を登った最上階の屋根裏部屋で、僕はひと目で気に入りました。

食事はどうかと訊ねられたので「もちろん」と答え、そのまま荷物を置いて階下のレストランに行き、早速ビールを注文、いやーこれがメチャ美味い、これが僕が初めて飲む本場のベルギービールでした。

僕はこの日までそれなりに比較してもやっぱり日本のビールが世界一と思っていましたからね。まったくこれには参ったでしたね。

今でこそベルギービール有名になりましたが、その時はね・・。帰国してからもしばらくはまってました。

中ジョッキというか日本の大ジョッキ並みですが二杯立て続けに飲んじゃいました。

  料理は肉か魚かどちらが良いかと聞かれたので、すかさず「肉」この旅が始まってやっと初めて本格的な食事にありつきました(イギリスでは、エジンバラでもですが、寒い中もっぱら夜な夜なで出張っては毎晩のようにパブを巡り、飲んで食ってしてましたから・・)嬉しかったですね。安らぎを覚えましたよ。

まぁ、とにかく美味しくてね、ヨーロッパ・・・を感じましたね。

 で、屋根裏部屋、その部屋の天窓から射し込む月明りはそれはそれはロマンチックで素敵でしたよ。想像してください。

窓から見下ろすと階下に広がる中世そのままの先端の尖った建物とそこに暮らす家々の明かり・・外見は中世のままで中には現代の生活がある。

やっぱりこの街は「ヨーロッパの宝石箱」といわれるだけのことはあるんですね。

  このホテルも従業員もとても感じがよくて、どうも家族らしく、とても居心地がよくついつい仲良くなって、このホテルのオヤジが翌朝、自前の船で運河を案内してくれることになってね、嬉しいサプライスでしたよ。

 僕はフロントのおかみさんとおぼしき女性に「ホッカイロ」(旅行の前にばあさんが僕のカバンに詰め込んでいた)を数個プレゼントしました、多分そんな文化はこのヨーロッパの片隅にはなかったのですね。随分驚かれ喜ばれました。

代わりにこの街の有名なレースの手編み、小さいけど奥さん手作りの物を頂きましたよ。

  そういえばモスクワのホテルの彼女達にもプレゼントして随分喜ばれましたけどね・・・ホッカイロ。

ただ後々「ストッキングはないか」とか、何々はないかとか、色々言われ辟易しましたけどね。

  このブルージュも2月のシーズンオフで客も少なく、お陰で自転車を借りて、あちこち走り回って郊外の水車小屋まで足を延ばしたりしてね。ぼろい自転車だったけど楽しませてもらいました。

  とてもいい街でした。

  先のTV番組「世界街歩き」がこの思い出を蘇らせてくれました。

ということでブルージュ・・まだ他にも思い出たくさんありますがきりがないのでこの辺で終わります。

  人が旅行に行った話とうまいものを食った話ほど聞く側にとってつまらないものないですものね。

 前後しますが、成田を発ってアエロフロートの古い小さなジェットで朝焼けやら夕焼けやら分からない景色を眺めながらシベリア上空を飛んで最短、確か約9時間・・。

ようやくロシアのシュレメチュボ空港に到着したのは随分夜遅くで、ほとんどの客がトランジットでロンドンとかパリに向かう人達でここで降りたつのは多分僕だけじゃないのかと思いましたよ。寂しかったですね、ホント。

  うす暗くて天井の低い空港ロビーでね、心細かったですよ正直・・この先どうしようかなと・・。

やれやれ初めての海外旅行でこれかよ・・みたいなね。

  出国手続きも不慣れで、もたもたして、軍服みたいな身なりの目つきの鋭い職員が何だかんだと細かくて、随分困っていたら、その時なんです、ある人が突然救世主みたいに日本語で声を掛けてくれましてね、更に手続きの手伝いまでしてくれて・・・もうホント助かりましたよ。

  ロビーを出てからも大きなロシア人達が肩に手を回さんばかりに「キャビア・・キャビア」と声を掛けてくるし、乗るはずのバスがどれだか分からないし、何だか二両編成のトレーラー見たいなバスでね、いよいよ心細さもピークでこのまま空港に戻ってどこかの便で東京に引き返し、1週間くらいホテルに隠れて外国のお土産でも買って帰ろうか、と本気で考えましたからね(>_<)

  で、その後先の声を掛けてくれた日本人、僕がロビーに舞い戻って、うろうろしてたら自分の荷物が多くて随分手続きに時間が掛かったらしくまだそこにいて、会話「お前何しにこんなとこへ来たんだ?」「旅行です・・」「この時期にここへ来る旅行者なんかいないぞ。これからどうするの?」

ブック(地球の歩き方)を取り出して、このホテルを予約してますが・・(このモスクワの二泊だけは事前予約しておいた)

「そうか、良かったら、今から仲間が迎えに来るから、そのホテルまで送ってやるよ」

僕「地獄に仏とはまさにこのことだ(心の声)」と思いました。

もちろん一も二もなく「お願いします」となり、迎えに来た2,3人の日本人スタッフと同行して雪の中、暗い夜道をモスクワ市街までドライブしました。

  この親切な彼らは、僕の泊まるホテルが道路を挟んで二つあることまで教えてくれて、僕が最初間違えた側から別の二番館とでも云うかホテルまで送ってくれました(一人だったらどうしたことやら・・)

おまけに別れ際、ドルをルーブルに両替までしてくれましてね、これには本当に助かりました。

  ここでは現金よりタバコを使えとか、なるべくドルは使うなとか、治安は良くないから気を付けよとかね、随分アドバイスをもらって名残惜しみつつお別れしました。

  彼らは、当時ソビエト国内で一軒しかない「さくら」という日本料理店のスタッフで、最初に声を掛けてくれた彼はチーフ料理長とのことでした。

  その後、二泊。

有名なモスクワの地下鉄(一面大理石で作られた豪華な駅。そこからゴトゴトとどこまでも地下深く降りて行く・・)木製の内装のレトロな車体の電車に乗ってそのまま方向も関係なく、話のネタだとばかりに分からないまま30分ほど揺られ、もうそろそろ降りようと着いた駅を出ると何だかプーシキンの銅像のある街で、またウロチョロして訳の分からぬままとある映画館に入り、多分プロレタリアートものの映画が上映されていましたが、いくら映画好きの僕でも言葉も判らないし字幕もなくさっぱりチンプンカンプンでしばらくしてもうとっとと出ようとしたら、周りの客に随分顰蹙を買ったようで、かなりイヤな顔されましたよ。おまけに出口がカンヌキされて封鎖状態なんですよね。

僕は思わず近くにいたスタッフらしきおばさんに少々きつめに「ここ出たいんだけど!」と言ったら渋々、渋々ですよ、やっとこさ開けてもらって外に出てとっても清々した記憶があります。

  この国の映画館、自由に出られんのかい!みたいな不思議な感覚でしたね。

 まぁ、それはさて置き最終日、これはモスクワのほんとに良い思い出です。

  今日はクレムリンに行こうと、ホテルの前でタクシーを待っていたら、一台の車が止まってくれました。

僕は「クレムリン」とだけ伝え、広場まで行ったのは良かったのですが、カメラをホテルに忘れてきまして、その運転手にホテルまで戻って欲しいことを伝えたら機嫌よく了承してくれましてね、その若い運転手はハンサムで当時有名だったピアニストのブーニンみたいな感じで、物静かで僕はすっかり気に入ってしまい、クレムリンに戻って恐る恐る衛兵と並んで写真など撮ってから、ようやく待ってもらっていた車に戻り、その運転手の彼に「今日は1日僕の案内をしてくれないか」と英語と身振り手振りでお願いしてみました。

  そしたら彼、急にが困った顔をしだして、今から仕事があるからとか云々・・色々と英語交じりで答えてくれました。

よくよく話を聞いていると、なんと彼はタクシーの運転手じゃなかったんです。そういえば変なメーターらしきもが無かったような気もするし・・・。

  で、日本人を見かけてなのかどうかはわかりませんが、ほんとの好意だけで乗せてくれてたんですよね。

あんな気まま言っといて僕は「穴があったら入りたい」ほど恥ずかしく困惑しました。

  彼は相変わらずニコニコとはにかみながら別れを告げます。

僕はどう御礼をしたらよいかもわからず、しどろもどろしていたら思わずバッグにしまっていたタバコを思い出し、1パックそのまま手渡しました。

そしたら彼はとても喜んでくれてね「本当にもらっていいのか?」みたいな顔していましたが「そんなん問題じゃないよ」と僕は本当に恐縮で恥ずかしく、同時に嬉しく感動して握手してお別れしました。

そんなことでした。気持ちの良い思い出ですね、36年前のね・・。

  次回は、モスクワ最終日「さくら」にお邪魔した話です。

続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ブルージュの思い出。

2024-10-23 12:44:52 | 随想・・・。

 何だかきざっぽい表題ですが、ブルージュという街の名前も美しいので・・。

昨日「世界街歩き」というNHKBSの番組でこのブルージュが特集されていて、つい懐かしさがつのり、これを書いています。

  僕は1990年、1月中頃から約2か月半ヨーロッパに一人で旅行に出かけました。約35年前になるのかな。

理由は色々ですが、勤めていた会社を辞め新しい仕事に就くという、その前でした。

僕的には少なくとも途上国の東南アジアとかに行こうという気持ちはまったくなくて、というかどこか日本人として豊かな優越感をバックにしたそういう旅をしたくなくて、それといつもテレビで見ているアメリカもまぁいいかみたいな感じで興味がわかず、それよりも日本などよりはるかに歴史的にも文化的にも先進国であり何となく不思議でよく知らないヨーロッパの国々を歩いてみたいという願望がありました。漠然と興味ありましてね。

  この旅の道中の話をしだしたら切りがなくなるので取り敢えずこの辺にしておきますが、この旅の最初の頃ですね、成田からアエロフロート航空で旧ソ連のシュレメチュボ空港に到着(ここでこのうす暗いロビーで不安の真っ只中に早速、とても珍しい日本人に出会い助けてもらった・・詳しくはまた今度)モスクワから入り、2、3日滞在して(だから1990年ロシアが崩壊した年です(ほとんどものが無かった印象・・)で、ようやくと云うかやっとイギリスに渡り(本当にホッとしました。英語の表記が嬉しかった)ロンドンを拠点に1週間ほど、スコットランドのエディンバラからネス湖やスカイ島まで巡り、ロンドンに帰還後さぁいよいよ大陸に渡るぞと意気込んでドーバー海峡を経てオステンドという聞いたこともない街に辿り着き、そこから汽車に揺られてで夜遅くに着いたのがこのブルージュでした。

事前情報は「地球の歩き方(以下ブック)」だけ。

駅からこのブックを頼りに調べていたホテルに向かったのは夜の8時過ぎていました。

運河の街らしく何か所も橋を渡り、タクシーの運転手さん(なぜか日本の演歌を聞いていた!(^^)!)が最後の某橋を渡るとようやく車を止めて「ほら、あそこ」みたいに指さして教えてくれたのが運河沿いのそのホテルでした。

まわりは真っ暗でその指さされたところの明かりだけが頼りでした。

続く・・。

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家内が大怪我しちゃいました。

2024-10-20 09:40:38 | 随想・・・。

  先々週の日曜日(6日)前日土曜の京都の稽古会を終えて翌日帰宅したその日夕方、事務所で本を読んでたら家内から着信があり、いつも通りホィホィと出てみれば何だか声の様子がおかしくてとても逼迫した声で「これはおかしい!」と瞬間的に思いましたが、案の上「すぐ来てぇ!ソファーから落ちちゃって…動けないの・・」で、取るものも取らずすぐにダッシュで自宅まで駆け上がり声を掛けるも、うつ伏せに倒れた状態でまったく動けず、すぐに起こそうにも痛がって何ともならず、ようやく腰を抱きかかえるようにして立たせたものの痛めた右肩を痛がってどうしようもなくて、ここは致し方なくすぐに救急車を呼びました。

  近くの妹にもすぐ連絡し、救急車の案内を頼み、僕は家内を左から抱きかかえるようにして通路の坂と階段を降り、途中まで迎えに来てくれた救急隊員にも委ねつつ、下の道路まで来ていた救急車に運び込みました。

  病院は日曜であいにく専門医がいなく、取り敢えずレントゲンを撮りましたが、僕の見立てでは「多分脱臼したかな」くらいにしか思っていなかったのですが、後からやって来た当直の内科医が言うに肩付近二か所の骨折が見えると云いました。

その日はそのまま固定して帰宅し、翌日に整形外科医の診断を受けたのですがやはり骨折で「明日手術しましょう」と簡単に言います。

レントゲン写真を見ながら「こことここにプレートを埋め込みネジで固定します」とのことで、将来取り除くのですかと聞くと「そのまま放置です」とのことでした。

僕の経験上、妹(10年ほど前に肩の骨折で入院)を始め、数人手首など同様の手術を受けた人を知っていますが、プレートやネジを後で取り除いて良くなったという人はいますが、それ以外の人は数年たってもは未だに痛たがったり痺れたり違和感覚えたりと、ろくなことがありません。

  家内は例え肩が上がらなくなっても絶対に手術は嫌だと言うし、僕も余程のことがない限り手術はさせたくありませんからきっぱりと拒否しました。

相談の上「そこまでおっしゃるのなら命に係わる訳ではないので保存療法で行きましょう」と云うことで手術はしないということに決めたのですが、肩が上がらなくなるかもとか、痛みがなくならないかもとか、まぁ医者としては当然のことでしょうが随分と脅されましたよ。

ただまぁ、僕的には骨さえくっつけば後はどうにでもなるという自信がありましたけどね。

自然形体療法をもってすれば大丈夫という確固たる自信がありましたから、判断できたのだと思います。

  よく考えたら、出会った翌日にすぐ手術と云うのもね、怖いと云えば怖いですよ。

その若い整形外科医は有能で自信もあるのでしょうが、彼の今までの症例の経験も手術の経験数もまったく知らない訳でそれでいきなりというのもちょっとね・・。

多分にほとんどは「ハイそうですか」となって否応なく手術してしまうのでしょうね。

  ということでその約1週間後、再受診し、新たにレントゲンを撮ったところこれがまぁ医者が驚いて首を傾げるほど経過が良好で、翌日病院のリハビリセンターから電話があり何と早速リハビリ開始と言われ、正直驚きました。

こんなに早くてええのかいな、とね。

  自然形態の先生に紹介してもらった腕っこきの接骨医に何度か話を聞きましたが、ひょっとしたら折れていなかったか写真を見逃したという可能性もあり、それはよくある事らしいとのことで、何はともあれとにかく一安心でした。

まだまだリハビリが続きますが、ある程度落ち着いたら自然形体で新たにリハビリの指導を受けてみようと相談しています。

「身体のことに精通しているから・・」とその腕っこきの接骨医先生も言っていました。

そういう顛末ですが、幸いにも彼女は左も少々使えるので、介護状態とまではいきませんが、何かと世話焼きはしばらく続きそうです。

肩で幸いと考えることにしています。

もし腰や頭などだったらと考えるとぞっとしてしまいます。

  オカダ君この際「普段の御礼とかお返しとかしなくちゃね(>_<)」などと心無い!(^^)!人には良く言われますけど。

ということで、まだまだ大変ですけど頑張っています。

何せこまめなオカダ君ですから・・・・。

私事ですが終わります。

 

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「那智」熱中症になる。

2024-09-29 10:36:32 | 随想・・・。

  今月の初旬、少し暑さも和らいだ夕刻に久し振りに那智(我が家の珍しい班毛の紀州犬)を散歩に連れ出しました。

少し走った後に珍しい知人に出会い立ち話をしていたら(那智は僕が誰かと話していたら必ずと言ってよい程ずっと自転車の横で座って待っています)そこにいつも仲の良い柿沼家の三匹(甲斐犬のゴンとハヤテそれと那智の子の小梅)が、もちろん飼い主に連れられてというか軽トラに乗せられてやって来て、いつものようにお互い嗅ぎまわったりして仲良くワイワイと賑やかにしていたのですが、まぁウンチも済ませたことだしそろそろ帰ろうと云うことで、僕たちはみんなに挨拶をすませ、そのまま家に帰りました。その後なんですよね。

どうも那智の様子がおかしい。

  しばらく様子を見ていたのですが、かなり疲れた様子でなんだか水すらも自分では飲めなくて、もちろん食欲もありません。ぐったりして時々つらそうな短い悲鳴を上げたりしてね、これには僕も家内もとても心配しまして、まず症状からして熱中症としか考えられないので、とにかく水は手で飲ませ、氷袋や冷凍パックやらで腹から脇、それに喉元を徹底的に冷やしながらほとんどずっと付きっきりで様子を見守りました。

しばらくすると少し元気が出てきたようで胸をなでおろしましたが、まだいけません。

翌日も余り食べないし、相変わらず水を飲むにも容器に頭を下げられないのです。

イヤー、一瞬このまま死んでしまうのではないかともう気が気ではありません、あたふたしました。

もしものことを想像していくら心の準備をしようとしても、胸が締め付けられるようでいけません。

  那智は来年2月で14歳になるかなりの老齢です。

いくら普段は類まれな元気さでいつも感心していたといえどもやはり限界というものがあるもので、それが今じゃなあろうかとほんと心底心配しました。

  娘(彼女は犬の専門家で、多くの犬と関り、訓練したり預かったりして今も毎日多忙にしている)に相談して色々アドバイスももらったりしながら慎重に過ぎゆく時間を見守っていました。

  で、2日過ぎた頃からようやく自力で水が飲めるようになって、同時にいつもの二階の僕の部屋によたよたしながらも上って行こうとするようになりました。

ただいつものようなわけにはいきません、もちろん調子よく上がって行くことはできず、僕が後から支えてやらなければならないような状況で、ほんとヘロヘロで足元もおぼつきません、それでも自分の寝床に行こうという意識があるので好きにさせていました。

  日頃からあの子の凄さは、我が家の急な階段をあっという間に登るのは勿論のこと、その階段を躊躇することなくリズムよく駆け下りてくるところにあります。それも平然とね。

とにかく大した運動能力ですから・・・。

  それが随分昔のことのように思えるほど弱り切ってしまいました。

勿論下りは僕が抱かえて降ります。そういう日が何日か続きました。

  ということでその後のことです。

その抱いて階段を降りるというその習慣も何だかんだと数日で終わりました。

やはりあの子は只者じゃありませんでした。

  すぐに自力で降りようとしだしました。それからまた数日過ぎた頃には、僕がフォローしながら躊躇しつつも慎重にようやく自力で降りてくるほどになりまして、それでもまだ介護状態でしたけどね。

そうこうしながらある時、突然、僕が目を離した隙に自分で勝手に降りてきて、まるで何事も無かったかのようにいつものフロアで寝転んでいました。えっ!みたいな感じでしたよ。

で、結論的に現在はどうなったかということなんですが、以前とまったく同じに戻りました (>_<)

  今やそれが当然のことのように、いつの通り好きな時間に好きなように勝手に駆け降りてくるようになりまして、その後に自分のソファーに飛び上がる時のジャンプ力もスピードもリズムも前と変わらぬどころかそれ以上かと思わせるほどです。

  今は、何食わぬ顔しています。

長々と「那智」の熱中症のその後を書いて来ましたが、一時は「別れと死」も覚悟したものの、要するに今や完全に回復と云うか復活したということです。

  僕も家内もそのいつもながらの動きを見ながら顔を見合わせては呆れています。

そして今はその強靭な体力と回復力に唯々驚いています。そして嬉しいのです。

  外の段々畑跡を駆け上がる姿も、涼しくなって再開した僕の自転車散歩に付いて走る姿も前と何も変わりません。

鉄人だわこりゃ!鉄犬かぁ・・・なんて思っていますよ。

  ということで、犬バカ日誌じゃないですがそんな近況です。

ありがとうございます。

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