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城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

かつて「リベラル」にあこがれたが・・・続 19.2.15

2019-02-15 19:53:09 | 面白い本はないか
大学生時代はいわゆる「ノンポリ」であったが、なんとなく反体制的な考えに共感することもあった。とはいえ全共闘グループ等の話すことや書いてある立て看を見てもほとんど理解できなかった。ベトナム戦争中でもあり、当時の社会党の掲げる「非武装中立」などにもシンパシーがあった。今や、左翼という言葉はめったにお目にかかれなくなった。どちらかというと日本全体が右寄りになってしまったと識者は言っている。先進国という過去の栄光を失い、心に余裕がなくなってしまった。そして、日本は急速に左右の多様な考えに寛容でなくなっている。

 細谷雄一著「自主独立とは何かー冷戦開始から講和条約まで」を読んだ。ニューディール系の理想に満ちた政策を占領する中で実施しようとしたGHQ。それが冷戦開始からパワーバランス論(ジョージ・ケナンー彼の考えが方向転換に大きな影響を及ぼしたことを認識した)に変わり、戦災からの急速な再建が目指されるようになった(急速な民主化により日本が不安定化し、ソ連側につくことをアメリカは恐れた。)その中には、日本の再軍備もあった。これにかなり抵抗したのが吉田茂である。
 
 吉田茂といえば後の池田、佐藤、宮沢につながる保守本流の人物であるというのが我々の認識である。しかし、戦前彼はリベラルであるということで、軍部から忌避された人物である。戦後には、経済の復興を最優先にし、アメリカに依存する形で軽武装にとどめた。旧日米安全保障条約を後から問題になるといけないからと彼単独で調印した(その旧条約を改正したのが安部さんのお爺さんの岸信介さん)。

 吉田が「対米隷属」と批判された時に言った言葉が印象的だ。回顧録から「私は独立以後の在職数年の経験を顧みて、日本政府が自己の打算と判断とによって行動する自由をいささかでも制限された記憶を持たない。殊に米軍駐留の事実が、日本政府に何らかの政治的圧力になった経験は全くない。」

 最近保守に関する本を読んでいても若い頃のような違和感を感じなくなり、むしろ親しみさえ感じるようになってきた(昔から年をとれば保守的になると言われた。しかし、今の若者は本来何も失うものはないはずなのに、随分保守的になっているらしい。)。18世紀のイギリスの政治思想家のエドモント・パークによれば「保守とは、人間の理性には決定的な誤謬が存在し、能力にも限界が存在する。だから、裸の理性に依拠するのではなく、歴史に耐えてきた経験的集合知や常識、伝統に依拠しながら、漸進的に改革する」で復古主義とか保守反動というものではない。こういう考えならなんとなく支持できると思うのである。

 細谷氏の本では、昭和天皇の役割について触れていない。天皇は共産主義が広がることを極度に恐れた。アメリカ軍の駐留を強く望んだのは天皇だし、そのために沖縄を差し出しても良いと言っているのを別の本で読んだ。いずれにしても、今を考えるうえでこの時期の歴史を学ぶことは大いに意義のあることだと思う。   
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大ダワに登る 19.2.11

2019-02-12 19:28:12 | 山登り
 「大ダワ」(二等三角点 点名「川上」1067.55m)って聞いたことないなー。山に登っている人でも、この名前を知っていれば、奥美濃あるいは揖斐の山について相当詳しい範疇に入るであろう。私も実は昨年まで知らなかった。旧坂内村川上から、夜叉ヶ池方面に右折するとすぐ神社が左手に見えてくる。このあたりから大ダワに登る。昔、ワカンを付けて、少しだけ登ってみたことがある。
 坂内、徳山地域の山は登山道があるのは例外的である。蕎麦粒山、三周ヶ岳(夜叉ヶ池)、金糞岳、冠山、金草山、花房山といった山は登山道がある。そのほかの山は道がない(踏み跡があることが多いが)ので、無積雪期なら沢を遡行するか激藪に耐えるかしないと登れない。しかし、こうした山でも冬になると比較的容易に尾根からでも登れる。大ダワはこうした山の一つである。今年は暖冬で雪が少なく、雪が藪を押さえてくれないので苦労することが予想される。

 川上あたりでも道路には雪が全くない。建設会社の資材置場あたりから登り始めた私たち3人は、いきなりの藪と急な登りに遭遇する。この後傾斜が緩くなり、雪も増えてきたので、ここでスノーシューを着けた(一人はワカン)が、藪は相変わらず続く。進行方向が北に変わる付近からブナが現れるあたりで藪は一端なくなるが、すぐにまた藪に逆戻り。

 大ダワ周辺を望む
 800mを過ぎるあたりからやっと積雪が多くなり、藪が消える。今のスノーシューは、登りもめっぽう強い。つま先部分にアイゼンのような金具が付いているし、ヒールをあげることができる。しかし、ワカンのようには沈まないので、スノーシューが先行しても、ラッセルにならない。
 最後の急な登りを終わるとおそらく土蔵まで続いているようななだらかな山稜となる。時間があれば快適な道を土蔵まで行きたいところだが、既に11時45分、時間切れで大ダワまでとした。

 大ダワは近い

 大ダワに到着
 昼食は少し下ったところでとることにした。スノーシューは急な下りが大の苦手、横向きに下りようとするとはずれてしまう。

 昼食タイム 湿雪が降っており、長時間だと体が冷えてしまう そそくさと済ます

 ブナの木に雪が積もった

 昨年3月にスーノーシューを買ったが、なかなか使うところがなかった。やっと本格的に使うことができて大満足である。

コースタイム 主発地7:30→大ダワ11:45→出発地14:10


 大ダワまでのルート
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かつて「リベラル」にあこがれたが・・・ 19.2.10

2019-02-10 19:53:58 | 面白い本はないか
 最近集団で山に登っていても、食事は別、さらにはテントもそれぞれ持ってくるような山行が若者の間では主流であるそうだ。私がかつて職場の山岳会に所属してきた時は、5,6人が共同で調理をし、狭いテントの中では酒を飲みながら談話し、時には歌も歌ったものだ。現在の大垣山協でもテント山行の時はそうだ。

 家庭での個室から始まった個人化はとどまるところを知らないのかもしれない。昨今の自分=アイデンティティ探しもますます盛んである。今の年になってみれば、自分といったものを少しは説明できるようになったと思うが、20代の頃そんな自分はなかった。学び、働き、あるいは家族を作り、地域とかかわる中でできてきたものばかりである。

 あまり関係ないとは思うが、ここからは読んだ本の話となる。昨日と今日、マーク・リラ著「リベラル再生宣言」という本を読んだ。普段、翻訳本は大部なのが多いのと、話の進め方がまわりくどくて、いつも途中で投げ出してしまう。しかし、この本は160ページしかないうえに、意外と面白い。こういう本に出会うと少し気分が良くなる。

 さて、内容だが、なぜ、リベラルがアメリカで力を失っているかである。リベラルがアメリカの未来について国民の心を奮い立たせるビジョンを示すことができたのは、F・ルーズベルトからリンドン・ジョンソン(ニューディール、公民権運動、偉大な社会キーワードは「連帯」「機会均等」「公共への義務」)までだとする。この後のレーガンは、個人主義的で家族やコミュニティを重視する一方、国家の足かせを少なくしようとした。

 リベラルは、レーガン時代に大きなビジョンを示すことに失敗し、アイデンティティ・リベラリズムに傾斜していった。アイデンティティとは個人がそれぞれ持っている属性に注目する。女性、ヒスパニック、LGBT、ネイティブアメリカン、アフリカ系アメリカ人などいくらでもある。こうした結果、「私たち」という感覚が薄れ、お互い市民であり、助けあって生きているという感覚がなくなってしまった。現在は、リベラルを代表する民主党も共和党も国民をまとめ上げるのに失敗し、そのなれの果てがトランプなるものだ。

 様々な政治運動についての著者の懐疑も頷ける。運動ばかりではその政策の実現も難しいし、実現したあともそれを維持することはできない。それは、人々の声に耳を傾け、選挙に勝ち、政策を実現するしか方法はない。これこそが民主政治なのだ。本から引用すると「民主政治で重要なのは、他人を説得することで、自己を表現することではない。ただ、私はここにいる、私はこういう人間だ、受け入れろ。と言ったところで、周囲の人間は、あなたの頭を軽くたたいてなだめようとするか、あきれた顔をするかのどちらかだろう。・・・・まず、他人とすべてのことについて意見を一致させることなどできないと認めなくてはいけないーそれが民主主義社会に生きる条件だ」「現在の状況から抜け出す唯一の方法は、アイデンティティの存在、重要性を否定することなく、アメリカ人であればアイデンティティとは無関係に全員が共有する何かを基に訴えることである。その何かこそが「市民という身分」である。リベラルは、今こそ再び「市民」という言葉を使って話をするべきだ。」(すごく当たり前のことを言っている気がする)

 これはアメリカの話であるが、日本にもあてはまらないであろうか。最近の「個人責任」の大合唱にはあきれかえっている。私には、政府の役割、あるいは公共というものが一体何であるのか分からなくなってきている。まさか「夜警国家」に逆戻りするつもりであろうか。

   
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貴方も買い物難民に 19.2.8

2019-02-08 19:57:49 | 地域のこと他
 1月中旬旧揖斐町に住む高齢者にとって悲報がもたらされた。長年地域の重要な買い物拠点であった揖斐川ショッピングセンターがその歴史の幕を閉じた。テナントは何回か入れ替わったが、直近ではトミダヤと百円ショップ。特にトミダヤの閉店は、今後に及ぼす影響が計り知れない。

 完全閉店した揖斐川ショッピングセンター

 高齢者とって、買い物は生きていくための糧とも言える。文字通り、人は食事をしなければならないので、そのための材料仕入れすなち買い物が必要となる。不自由になった手足を考えれば、車に乗ることはもちろん不可能だし、遠くまで歩くことはできない。スーパーにお総菜、コーナーがあれば本当に助かると思う。加えて、狭くなった交友関係がある。一日誰とも話さないことだってあることだろう。近くに買い物できる場所があれば、そこで知り合いの誰かに会うこともあるだろう。あいさつ程度でも生きるはりあいにはなる。

 揖斐川ショッピング近くの区長と話をする機会があった。彼の話によると、閉店後かなりの高齢者が食料の宅配を利用しているという。しかし、材料は冷凍されて届くので、これの処理に難儀しているとのこと。以前、福祉関係者から、揖斐川ショッピングの存在自体が福祉になっており、これがなくなると福祉の費用が一段と増えるのではないかと言っていたことが思い出される。

 昨年12月の区長会で閉店されるとの報告を聞いた。また、今のところそれに代わる買い物場所が確保されるという話もない。少し市街からは離れているが、スーパーはあるので、民間の話に行政はなかなか踏み込めないのかもしれない。他県の例では、地域が買い物場所の運営に乗り出している。今こそ行政及び地域の奮闘を期待したい。

 昔、商店街振興策というのが行政の重要な施策だった。特に、大型店舗の進出に対して、地域の商店街を守るため大店法という法律があった。今や、一部の地域を除き商店街は絶滅危惧種となった感じがする。現状は、大型店同志の食うか食われるのかの争いとなっている。かつて、揖斐にも川口屋というのがあったが、競争に負け撤退した。当時は単純に客の奪い合いであったが、今は少なくなるばかりの人口が大きな問題となっている。

 私の子ども時代、様々な店があった。今さらながら懐かしい。 
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今江戸時代が面白い? 19.2.6

2019-02-06 19:30:32 | 面白い本はないか
 大学は経済学部だった。そこは、大きく近代経済学とマルクス経済学に分かれていた。近代経済学はケインズの経済学であったと言って良い。私はこちらの方を選んだが、既に数学を使うことが多くなっていた。4年の時に落第させることで有名な経済原論があり、私の仲の良かったI君がこれに落ちてしまった。このため留年を余儀なくされ、内定していた超有名企業に入社することができなかった。さて、一方のマルクス経済学である。こちらには数学こそないものの、「資本論」という私にとって超難関の課題本があった。2,3度読もうとチャレンジするものの、投げ出してしまった。

 最近、そのマルクスについて書かれた本が多く出ている。そのうちの簡単な本を読んでみたが、こちらは投げ出すことはなかった。現在私たちを取り巻く状況がマルクスが生きた19世紀の状況に似てきているのだろうか。確かに経済にしても、社会、安全保障にしても、先の見通せない状況が続いている。絶対的貧困(食うにも困る状態)はないが、相対的貧困(平均年収の半分以下の世帯の占める割合)は先進国中最悪となっている。しかし、マルクスを読んだところで、今後のことがわかるとも思えない。

 なぜ、マルクスの話をしたかというと、私たちが昔学んだ歴史がマルクスの考え(唯物史観等)に随分影響されているからである。江戸時代に頻発した「百姓一揆」はどんなイメージだろうか。水呑百姓等悪政に苦しむ百姓がむしろ旗を押し立てて、領主と対峙するといったイメージではないか。白土三平のカムイ伝などは下層民衆が革命を起こす様を書いている。ところが、実態は若尾政希著「百姓一揆」に寄れば大部分は領主により良い政治を求める(著者は「仁政」と言っている)闘争であったとしている。私は、儒学・朱子学が武士階級を中心に受容されていたと思っていたが、これを同書で否定している。

 渡辺京二著「逝きし世の面影」は、幕末日本を訪れた外国人がどのように日本を見たのかをとりあげている。今、自信をなくした日本人がテレビで好んでみる「日本は一番」という番組とはもちろん違うが、このような先祖を持ったことについて少し自慢できる。明治の藩閥政治により不当に貶められた江戸時代、実際の姿を少しでも知りたい。

 とりとめもなく書いてしまった。間違い、誤解も多いことだろう。年寄りの戯言ということでご寛恕を!

 
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