城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

秋のバラ(22年) 22.10.27

2022-10-27 19:04:08 | バラ、クレマチス等
 庭では秋のバラがぱらぱらと咲いている。春のように一斉に咲かない(8月終わりから9月初めのかけての剪定により、咲く時期は変わるが、素人では咲く時期をあわせることは難しい。)。また、春のような豪華さとはほど遠い。四季咲きだと秋までに既に3回程度は咲いているし、夏の暑さも経験しているので、咲いてくれるだけで嬉しいと思っている。今年も黒点病などにより、葉が落ちてしまい、株の上部しか葉が付いていない。もう少し葉を残すためには、予防及び治療のための薬剤散布を増やさないといけない。さらに葉が残っていないと剪定が浅くなる(できない場合もある)ので、バラの背丈がかなり高くなってしまう。踏み台に載らないと花が見れないという悲しい状況となる。

 10月21日から今日まで咲いたバラをマクロレンズ100mm、少し露出アンダーで撮影した。

 ギーサヴォア(フレンチ) 10.21

 タルトポム(フレンチ) 10.21

 モナコ 10.21

 タッチオブクラス 10.21 踏み台に載って撮影

 グラハムトーマス(イングリッシュ) 10.25

 ヴァネッサ・ベル(イングリッシュ) 10.25

 セプタードアイル(イングリッシュ) 10.25

 アンブリッジ・ローズ(イングリッシュ) 10.25

 セシルブルンナー 10.25

 ジーンレックス(イングリッシュ) 10.27

 クィーン・オブ・スウェーデン(イングリッシュ) 10.27

 ボンヌイ 10.27

クレマチス




 
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原風景-秋の収穫 22.10.25

2022-10-25 19:04:33 | 地域のこと他
 おじさんが所有する農地は3反(30アール)と少し、そのほとんどがいわゆる田んぼ=水田である。春の田植え時そして秋の稲刈り時にかつてはあちこちで見られた風景があった。知り合いあるいは家族を総動員して田植えや稲刈りを行っていた。子どもも戦力とはならないまでも、例えば脱穀時の稲持ちとか落ち穂拾いなどはよく手伝わされた。おじさんも下手であったが、田植えや稲刈りを行った。田植えではぬかるみに足を取られて苗をまっすぐに植えられないので、蛙さんが困るよとか言われたものだ。高校性くらいになると、脱榖機とか発動機とか重い農機具を親父と天秤棒で担ぐ仕事(それ以前は母親がやっていたが、背の高さが随分違い、親父からいつも文句を言われたいた。その文句は今度はおじさんにくることになったのだが・・・)が回ってきた。細い畦、柔らかい田んぼ、まっすぐに歩けと言われても歩けなかった。田植えや稲刈りは、各家にとって大事なイベントであったのだ。

 それから半世紀以上経ってしまった。今や、おじさんの地区の農家(田んぼを所有しているという意味)は一軒を除くと自分で全く耕作していない(もちろんおじさんもだ)。作り手は、個人から農業法人(農事組合法人等)へ移り変わった。その法人は大型の機械を使って、農作業を行っている。今や農家個人で行っているのは極めて例外だと言える。おじさん所有の3反の田んぼの稲刈りなど1時間もかからないくらいだ。今や家族にとっての一大イベントではなく、いつ刈り取りが行われたかさえ、気づかないようなことになっている。

上の写真黄色く見えるところは稲刈りが終わったか稲刈り前、緑の帯のようになっているところは大豆が植付けられているところ(城台山公園から)
おじさんの子どもの頃はもちろん写真のような直線的でかつ大きな区画(長辺が100m、短辺が30mで3反、30アール)ではなく、大きくても1反程度だった(圃場整備の結果大きくなった)
おじさんの家の所有する田んぼはその時8反、3、4箇所に分散していたので、そのたびに機械を移動させなければならなかった 

 では現在の米作りはどうなっているのか。ここからは小川真如著「日本のコメ問題」(中公新書22年6月)を紹介しながら説明していきたい。まずは、その本の210ページにあった図を紹介しよう。

※図の説明 1967年というのはコメの国内生産が需要=消費に追いついた年(過去にも豊作で100%以上となった年はある)。この年からコメが国内で余りだした。食糧管理法でコメは全量国が買い上げ、消費者に売る制度であった。コメの価格は生産者の所得の確保と消費者の家計とを考慮して、生産者米価(毎年の米価決定が大きな政治的イベントであった)が購買価格よりも高いいわゆる逆ざやとなっており、食管会計に毎年多額の赤字(最初は制限されたヤミ米が後には奨励されるような事態になった)が貯まることになった

 この図のポイントはご飯用のコメを作った面積と田んぼの面積の差がどんどん拡大し、田んぼあまりが激しくなっているという事実である。その最大の理由は、日本人がコメを食べなくなった結果、コメ作りのための田んぼは少なくてもよくなってきているということである。どれくらい食べなくなったかというと、一世帯当りの年間購入額でいうと、コメは1万8503円、パンは2万5551円(この数字には正直驚いた。パンは既に2010年にコメを上回った。)、麺類1万6510円(2020年)。いずれ麺類に抜かれてしまうだろう。消費が減ったのだからコメ以外の食糧、例えば野菜を作るとか田んぼ自体を減らせば良いではないかと思うであろう。ところが、戦争が勃発するとか大地震が起こることを考えると現在のように自給率が低い(輸入に依存する)状態では、食べるものがなくなり(食糧生産国は自国を優先する)、かつてのように飢餓が発生する可能性を否定することはできない。いわゆる食糧安保というものである。加えて、水田は雨が多い日本の気候に対して水を貯めるという機能(洪水防止)も持っている。さらにかなりの田んぼが水はけが悪く、野菜づくりに適していない。また、コメ作りに比べて野菜作りは手間がかかるということもある。機械さえあればコメ作りは片手間(専業でなくても)にできることもあり、兼業農家が現在も大きな割合を占めている。

 水田の果たす多機能を説明

 コメが余るようになってから、国ではコメを作らせないための施策を行ってきた。いわゆる転作というものである。おじさんの田んぼでもコメ作りは一年ごとで、作らない時は麦を植えていた。大豆を植えた時もあるが、どちらもおじさんの田んぼは湿田でコメ以外の作物はあまりできなかった。今やコメを作らない田んぼには、麦、大豆、飼料作物、WCS用稲、加工用米、飼料用米が作られるようになった。そして大部分が飼料用として消費される。これらの作物には水田活用直接支払交付金が支払われる。例えば飼料用米を作ると1反あたり5.5万円から10.5万円が支払われる。戦前ではなかなか農民の口に入らなかったコメは、今や家畜の餌としての需要が増えているのである。日本人のコメに対する特別の感情(ご飯粒一粒でも粗末にしない、新嘗祭のなどの神事)からすると微妙な気持ちになる。

 コメ余りが問題ではなく、田んぼ余りが問題なのである。そして著者が一番心配するのはもう少し先に起こる食糧安保上確保しなければならない田んぼの面積が実際の田んぼの面積よりも少なくなる時、これは日本の人口が減ることから発生するのだが、どうするのかということである。今後農村の風景は今以上に大きく変わるかもしれない。

※コメ問題はなかなか錯綜していて理解が難しい。このため読み違いをしているところもあると思う。
 
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天狗党伝説の越山に登る 22.10.20

2022-10-20 16:25:01 | 山登り
 越山(おやま、1129.2m、三等三角点点名「赤岩」)は旧根尾村温見峠に上がる途中、右側に見える極めて地味な山で山体も特徴がないのだが、ぎふ百山に選ばれている。その理由はこのあたりの山を水戸天狗党が岐阜側から福井側に越えた史実があるからであろう。私が聞いているのは、越山の東にある蝿帽子嶺(1037.3m、地図に地名はない、三等三角点点名「這星」、どちらもはえぼ(う)しだが、当てている漢字が全く違う。いつか探求してみたい。)の西肩あたりにある峠を越えたということである。越山の西にある激藪の刈安(1301.72m)と蝿帽子嶺は登っているので、この越山は是非とも登ってみたかった山である。

 今回(10月20日)、5年前に登ったEさんとヤブ山大好きなKさんのほかいつものM(ヤブ山初経験)さん、Yさんの5人で挑戦した。揖斐を7時少し前に出発、根尾川を北上すると能郷白山が見えてきた。酷道の157号線を避けて、大須から越波、猫峠を経て大河原に至り、河原に続く林道(堰堤工事のための作業道)の入口に車を停めた。根尾西谷川を横切り、越山谷を横切る必要があるが、Eさんから聞いていたのは堰堤を利用して渡る計画だった。私たちはまず長靴を履いて出発した。林道を進むと目の前に大きな堰堤が現れた。堤体の左側にある小さな梯子を渡ると堰堤の上に出た。しばらく行くと堰堤に据え付けられた梯子階段を下り、河原に出て、水が流れているところを渡り、最後は水の下降点を慎重に渡った。ここで私たちは長靴から登山靴に履き替え、さらにストックも堰堤の上に残した。堰堤を渡り、西に進み、再び越山谷の堰堤を横切った。

 駐車地 8:20

 能郷白山 8:34

 越山方面 どれが越山なのかわからない

 越山谷堰堤を横切る(帰り)

 堰堤を渡るといよいよ急な登りの連続となる。足場も柔らかく不確かなので、近くの木の枝、幹につかまりながら高度を上げていく。Eさんが適宜赤テープをつけてくれる。柔らかな土の斜面を登り切ると少し道らしきものがあった。また、残置の色あせた赤布や荷造り紐を見つけることができるので、少ないとはいえ登られていることは間違いない。植林された場所の上はブナ林が続いており、少し色づいて来ている。あと10日もすれば見頃になると思われた。山頂近くになってやっと急登から解放された。登りが緩やかになると私は途端に方向感覚が狂ってくる。赤テープを目印に進み、無事山頂に着くことができた。山頂といっても、周りの木は一切切り払われず、展望は全くない。

 急な登りが少しだけ緩やかとなり、ブナ林が現れる 9:33

 ブナ林少し色づいて来ている 9:52

 Eさんが5年前に付け、回収を忘れた赤テープ 9:55

 10:21

 10:43 Eさんが今日のために用意した山銘板 木の枝に設置されたので、この後登る計画のある人は「見たよ」とブログ「奥揖斐山荘」にコメントお願いします

 11:31(下り) 能郷白山を望む

コースタイム 揖斐6:50→駐車地8:20~8:30→山頂10:43~11:09→駐車地12:49



※「ぎふ百山」
 ・昭和51年7月1日発行 岐阜県山岳連盟編集 岐阜日日新聞社(岐阜新聞社)発行
 ・百山とあるが、120番まであり、さらに2山あるのが4あるので、全部で124座あることになる。
 ・内容は山の説明と言うより、地域の歴史などが中心で、わずかに登山情報があるだけなのだが、ここに掲げてある山を全部登る会があるし、これを目指している人も多い。私は目指していないとは言わないが、登れる山はできるだけ登りたいというのが今の気持ち。ちなみに現在92座。
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高校同窓会 22.10.17

2022-10-17 10:55:40 | 地域のこと他
 昨日、8回目となる高校同窓会に出席した。この会は本来、私たちが古希となる2年前に開催するはずだったのだが、新型コロナ蔓延の影響により、2回の延期のあと、やっと開かれたものだった。今回の幹事さんにとってはやっとのことで実現できたというわけで、そのご苦労にただただ感謝するばかりである。私は久しぶりに乗る養老鉄道(揖斐線)で会場である大垣市内のホテルに向かったのだが、中学以来の同窓生Oさんも一緒だった。最初の話題は、近所に住んでいたM氏の話題で、確かOさんとも親しかったのだが、地元に一人で住んでいた母親が亡くなったあとすぐにM氏も亡くなったことだった。

 大垣市の北にある高校に通った 当時の校舎、今は大学かと思い違うばかりに立派になった

 会場には2時半に到着。入口ロビーに高校の同じクラスで同じ職場であったNさんがいた。時間が早く、まだ受付けが始まっていないとのこと。3時頃受付けが始まった。そこには久しぶりに見る顔があった。受付けで今日の出席者と同窓生の名簿を渡された。同じ中学校からの出席者がさきのOさん以外ないことに驚いた。確か8人ほどいたはずなのだが。出席者は総計で58人、過去の同窓会からコロナの影響もあり随分減った。集合写真のあと、会が始まった。正面のスクリーンにまず物故者がクラスの順に映し出される。写真は卒業アルバムからもってきているので、紅顔の美少年・美少女(白黒だからわからないが)が次々と映り、その中には懐かしい顔がたくさんある。その総数52人。今回の幹事代表であるIさんの乾杯の挨拶のあと会が始まる。各テーブルはクラス毎となっているので、顔見知りが多いのだが、別のテーブルとなると途端に顔がわからなくなる。もともと顔見知りが少ない。宴たけなわの頃、スクリーンに同窓生の活動が紹介される。他の同窓会を知らないが、これだけ多くの集まりができているところは他にないのではないかと思う。関東在住のものの集まり、ゴルフ、ハイキング、陶芸、お茶会、グルメの会などなど。

 同窓会の模様

 私も、かつてはハイキングクラブの仲間で、最初に登ったのが2012年3月の城ヶ峰で、その後年に二回のペースで百々ヶ峰、南宮山、貝月山、菩提山、妙法岳、冠山、池田山、養老山などを登り、登山後は食事をし、楽しい一日を過ごした。その後山岳会の役員などにもなり忙しくなったことから参加しなくなっている。このグループを通じて、高校時代知らなかった同級生と知り合いになったことは大きな幸せだった。高校時代、私は自宅と高校をほぼ往復するだけの生活を送っていた。電車の中では豆単と呼ばれた辞書で英単語を覚え、家では受験勉強?という日程だった。だから、同じ中学校の同級生、高校時代の同じクラスであったもの以外との交流は極めて少なかったと言える。同窓会に出るたびに感じる居心地の悪さはひとえにこのことからきている。このハイキングに参加するようになってからその悪さは随分解消されたように思う。

 ハイキングと並んで同級生交流のインフラとも呼ぶべきものが掲示板である。これは同級生の電波さんが12年前に作った掲示板通称「あかね19」でこれまでの利用回数80万回、毎日の訪問者は300人、この中では行事のお知らせ、同級生の動向、意見等がなされ、私自身も登った山の報告、読んだ本の感想等を随分投稿させていただいた。この掲示板により、顔は知らなくてもコードネームだけは知った人が大勢いる。この時の経験は今はこのブログに受け継がれているとも言える。

 同窓会はこのあと4年後に開かれるという。そのときにまた会いましょうというのが同窓会を締める言葉となった。


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サツマイモ収穫 22.10.12

2022-10-12 19:16:53 | 野菜作り
 昨日に引き続き、今日もサツマイモの収穫作業を行った。既に9月20日に試し掘り、10月2日に第一回目の収穫を行っていたが、残りの全てのサツマイモを両日で収穫した。今年はベニハルカを10苗、安納芋60苗以上を植付けた。安納芋はツル苗を20、後は根付きの小さな苗を買ってきて、植付けて、そこからツルを40以上採った。畑のあちこちに植付けすぎたため、他の作物の植える場所が少なくなってしまった(サツマイモは連作できる。むしろ連作した方が良いとも言われている。)。

 収穫前 4箇所にサツマイモを植付けた

 今年は雨が多かったのだが、たくさんの収穫があった。去年ベニハルカは小さな芋ばかりだったし、数も少なかった。さらには連れ合いからベニハルカは干し芋にしてもおいしくない(上品な甘さはある)ということで、最小限の植付けにした。昨年と同じ場所にベニハルカは植付けたが、数は多くないものの大変大きな芋が収穫できた。

 上がベニハルカ 下は安納芋
 ベニハルカは大きいので、ケンピにすると連れ合いが言っている

 サツマイモを掘るためには、一面の蔓を処理しなければならない。この作業が大変で、とにかく疲れた。蔓を取り除くと、植付け場所が現れるが、土が固く、手では掘ることができない(テレビでは子どもが蔓を引っ張ると芋が出てくるが)。このためスコップを使うが、芋のある場所を手で少し掘って確かめておかないと、折角の芋がスコップで分断されてしまう。

 スコップで土を掘り起こす 芋が現れてくる 土が芋に付いているのでこれをできるだけ落とす
 その後半日畑に置いておき乾かす
 家ではブルーシートの上で一週間ほど陰干しをする


 たくさん採れた

 ヌートリアによる食害 今年は少ない

 サツマイモは寒さに弱く、10度C以下になると傷んでくる。冬を越そうとすると意外と面倒がかかる。2年前にはネットで温度30度、湿度90%以上の状態で3~4日置くと冬が越せると書いてあったので、室内用のミニ温室で試してみた。確かに芋は長持ちした。以前には発泡スチロールに入れて、冷蔵庫の上で保存したが、芋が息をするため、蒸せてしまいうまくいかなかった。少量なら干し芋やケンピにして冷蔵庫で保存すれば良いが、量が多いとそれも難しい。

 ただいま干し芋製作中 野菜乾燥機「カラリンコ」

 オニマン 今日のおやつ

 ユーチューブで保存方法について調べたら、芋を良く乾燥させ、土をつけたままで、段ボール箱に入れ、室内で13度から15度で保存とあった。これで保存できるなら簡単だと思うが、我が家の芋はこれだとかなりの芋が腐ってしまう。ユーチューブを見ると芋の違いに気づく。本当にきれいな芋に対し、我が家では土が固いため、芋の表面に細かいキズが付いてしまう。ここから傷んでくると思われる。我が家の芋の場合、洗って(日持ちは悪くなるが)保存した方が良いかもしれない。少し研究してみよう。



 
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