城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

日本のいびつな保守主義 20.8.29

2020-08-29 19:12:33 | 面白い本はないか
 安部首相がいよいよ退任する。例外的に長期政権となった方だから、その後継者となるときっと政権運営は難しいだろうと推測する。「戦後レジームのからの脱却」を掲げてきた方だから、その中の最大のポイント、改憲が達成されずに終わったことは残念だったろう。しかし、改悪となるような改正なら、何もしないで欲しいというのがおじさんの考えなので、この点では良かったと思っている。さらに、経済、外交という面においても評価できることは少ないとも思う。何より、小泉さんもそうだが、言葉によるきちんとした説明責任を果たしてこなかったことが、日本の民主主義をさらに弱体化させていると考えている。

 三輪神社隣の池の中のお地蔵様 

 ALS患者である女性が医師の助けを借りて自死した。日本で安楽死が認められる条件は大変厳しい。痛みというのに極めて弱いおじさんなんかには余計にそう思われる。同じように人の手を借りて自死(本人は自裁と言っているが)した保守の思想家西部邁がいる。高澤秀次著「評伝西部邁」によると、二人の知人の協力を得て、多摩川で入水自殺した。しかも、顔の損傷を避けるためネックウオーマーを着け、さらに岸の木と自分の体を結びつけ、死体が流れないようにしていた。そして娘には無言の電話をし、その決行を知らせた。準備万端のうえでの自裁ということになる。しかも、自裁することはその著書によって明らかにしている。

 雷電の手形 石に刻まれている

 その説明板

 西部氏を知ったのは、BSフジのプライムニュースであるから比較的最近のことである。たまたまその番組を見ていたら、そのゲストが西部氏であった。その人なつこい目とその発言にたちまち魅了された。彼が主張するのは、日本の保守のいい加減さであった。保守であれば、日本の対米従属は許しがたいことのはずが、親米を疑ったりしない。右翼もそうである。アメリカは、ソ連同様左翼であるというのも面白い。西部氏の友人の佐伯啓思氏(西部氏が東大にいたころ、大学院生で西部氏から、講義を受けた)の「日本の愛国心」によると、アメリカの歴史観というのは、野蛮に対する自由や民主主義の戦いで、解放の戦いを通じて文明は進歩するという左翼的思想の国なのである。一方、西欧の保守主義は理性に基づいた無条件の進歩を疑う、伝統を重視し、漸進的な改革を主張する。この保守主義から見ると、自民党は左翼ばりに改革ばかり叫んでいるし、アメリカ=左翼に従属するというまさに正反対の党だということになる。そして、その首領である安部さんは本来の保守派でないことは明らかである。祖父の岸信介は、60年の安保改定により、対米自主を目指したのであり、改憲によりさらに自主独立を図ろうとしたのである。(もちろん、祖父の時代と現在では時代の環境が全く違うと思うが、なぜこれ程までにアメリカのいうことを聞かなければならないのかと思う。)

 今日の池田山 ほぼ南北に伸びている尾根は大きく感じられる

 西部氏は60年安保反対運動(この頃多くの学者、あるいは卵がこの反対に関わった。)を担い、半年の拘置所生活、そして起訴猶予により、東大に就職。教授2年で人事案件からみで辞任、そして80年代以降保守論壇で活躍。時には当時の自民党指導者と深く関わる。そして、人生のパートナーというべき奥さんとの別れ、自身の病気を経て自死に至った。評伝から興味ある箇所を引用する。戦後日本への不適応もさることながら、西部邁の思想家としてのスタンスを決定したものとして、アメリカニズムへの反発は、より重要な要素かもしれない。それは悪しき自由・民主主義の指標であり、急進的な「近代主義」の別名であった。もう一つ引用すると、西部の際だった特徴は、日本共産党の前衛党神話をはがす「非行」としての安保闘争へのコミット、そして戦後日本社会への本質的な不適応とそれをバネした鋭い批判、さらにそこから身を翻しての「高度大衆社会」批判ということになる。

 自死の一ヶ月前に出た「保守の真髄ー老酔狂で語る文明の紊乱」を再読した。これは娘さんが口述筆記したものだが、語りは易しいが内容は難しい。最後にはその娘への遺書まで収めている。そこから一つだけ引用すると西部は核武装論者であった。核武装するために絶対必要だとしたのが、憲法に先制攻撃しないことを明記すること。このことがいかに難しいことか何となく想像できる。西部の本はやはりおじさんには難しいが、読みやすそうな本から読んでみたいと思っている。西部よりも前から読んでいる佐伯啓思の主張がこの西部のものと重なるし、随分読みやすい(本棚には佐伯啓思の新書が10冊以上もある)。
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かつて「リベラル」にあこがれたが・・・続続20.8.22

2020-08-22 19:43:47 | 面白い本はないか
 残暑お見舞い申し上げます

 17.8.23 飛騨ソーレ沢 五郎七郎滝

 同   岩洞滝

 同   大滝

 同   ナメを歩く

 同   最後の滑滝

 本当に暑いですね!朝6時前に畑に出勤しても、ここのところ少しも涼しくない。水やりと収穫それに時間があれば草取り(切りが無いが)をするともう汗ビッショリ。そして、庭の花に水やりし、朝食後城台山に出かける。標高差180m、所要時間40分程度だが盛夏の山登りは他の時期より2倍以上えらい(この言葉、他の地方では意味不明らしい)。山頂で涼しい風に当たりたいのだが、さわやかな風は吹いていないことが多い。水分やら冷たいものばかり多く取るので、お腹の調子も悪い。一日の日課が終わるとあとは大半の時間を涼しい部屋で過ごすことになる。このため読書の時間はたっぷりあるのだが、いかんせん本を読み出すとすぐに眠たくなる。特に難しい本はいけない。

 昨年2月10日のブログ「かつて「リベラル」にあこがれたが」で、アメリカのリベラルが急速に人々の支持を失っていることを書いた。アメリカの大統領選はバイデンとトランプの戦いとなったが、バイデンさんはラストベルトのブルーワーカーの支持を取り戻すことができるのであろうか。アメリカばかりでなく、世界各国で「個人の自由を尊重する立場」「弱者救済」「公平・公正さ」に立つリベラリズムはかつての魅力を失っている。一体なぜなんだろうか?

 今日は萱野稔人著「リベラリズムの終わりーその限界と未来」(幻冬舎新書)を紹介する。最初に著者は個人の自由を尊重するという立場は社会により浸透しているとしている。パワハラ、セクハラの問題化、同性婚(日本では認められていないが)、LGBT等々。本の前半部分では、アメリカで同性婚が法的な結婚であることを認められた一方で、一夫多妻(この逆もある)はなぜ法的に認められないのか(良く言われる理由、例えば経済的社会的弱者である女性保護のため。しかし、本人が合意のうえというケースもある。しかも誰にも迷惑もかけない。)。さらに近親婚。従来の規範意識では結婚は異性の組み合わせでというのが主流だったのだが、時代が変わり同性の組み合わせも認められるようになった。さらに一夫多妻等を認めるようになるかとというとこれは難しい。すなわち、リベラリズムを適用できる範囲には限界があると著者は言う。

 後半こそ注目したいところである。ここで著者は日本社会が右傾化しているとの言説に異議を唱える(おじさんは右傾化していると思っているが)。その例として、生活保護を取り上げる。すなわち、生活保護者に対するバッシングが止まない。その理由の一つは約20%という捕捉率の低さ(保護対象となるのだけれども様々な理由で受給していない人が多い、欧米では80%程度)にあるのだが。例えば在住外国人に対する支給やパチンコに興ずる受給者に対する批判。こうした批判が多くなっているのは、弱者救済とか連帯とかの意識が失せ、社会が右傾化しているからだと多くの識者は言っている。しかし、問題は普通の日本人ですら生活困難に陥っている中でなぜこうした人々が受給できるのかという至極真っ当な感覚から声を上げていると著者は言う。経済的低迷が続く中でGDP、政府予算そして生活保護費は限界に来ている。要するにパイが増えないならばもっと困っている人に支給すべきということだ。これはヨーロッパで起きている移民の問題の構造と同じである。すなわちもっと自国民の世話を見るべきでないかと。そしてその主張に答えるかのように、右派の政党が支持を集めている。これに対し、リベラルは、パイの弱者に対する分配を増やすべきだとは論じても、パイを拠出する人々の負担を重くすべきとは言えない。すなわち、耳あたりの良いことだけ言っているのがリベラリズムだと。

 確かに一理あると思う。嫌韓、嫌中も日本の国力が下がり、日本人が寛容でなくなっているからだと言われる。著者もリベラリズムを否定してわけではない。限られたパイの中でリベラリズムの主張(弱者救済、公平・公正さ)も取り入れながら、分配という問題を真剣に考えていく必要があると思う。
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真夏の苦行・藪漕ぎの苅安 20.8.17

2020-08-18 17:14:07 | 山登り
 山の日に涼しい風に助けられて伊吹山に登り、17日には根尾温見峠から北北東に伸びる尾根をたどり、苅安に登ることを計画した。まずは、岐阜県側から温見峠へはおそろしく遠い道のりで酷道157号線はここ数年まともに通行できたことはあまりないため、大幅な遠回りを強いられる。根尾東谷川を遡り、上大須付近から切越峠を越え、越波(おっぱ)から黒津、ここから157号線(越波から猫峠を経て大河原に出るのが近道だが、通行可能かどうか確認していないのでご容赦を)で大河原を越え、温見峠に至る道で織部の里から2時間以上かかる。

 次に苅安の説明。地形図上には山名がないが、三等三角点(1301.72m)があり、点名が刈安だが、山名は苅安。温見峠の標高が約1000m、標高差300m足らず、距離も2kmくらい。少しのヤブはあるかもしれないが、2時間程度あれば余裕で登れるであろうとおじさんもEさんも予測した。藪漕ぎとなると長ズボン、長シャツはもちろんのこと、手袋等できるだけ皮膚をさらさないようにするため、夏には苦行となる。さらにすね当ての代わりに冬用のスパッツがあるが、これも暑いので省略。暑さに加えて、繁茂する草や木の葉っぱは見通しを悪くするから、余計に苦労することになる。

 越波から黒津までは道路上の小石に注意。Eさんが運転する車に5人が乗っているので、小さな石でも接触してしまう。9時過ぎに温見峠に到着、能郷白山に登っているらしい福井ナンバーの車2台があった。峠からはこれから登る尾根及び苅安のピークが見える。

 これから登る尾根と苅安

峠のお社に登山の無事を祈る。


しばらくは踏み跡を順調に進んでいくが、その踏み跡もだんだん不鮮明になってくる。まわりはクマザサ、踏み跡の真ん中にはえているところもあり、余計にたどるのが難しい。1時間過ぎからかなりの藪漕ぎ、このままだとピークへの到着も難しいのではないかという懸念が去来する。藪漕ぎで体力もどんどん奪われるが、ひとまず12時を目標に上り詰めることにする。

 1時間半過ぎからは比較的順調に踏み跡をたどることができ、大きく東に曲がる地点までやってきた。

 東にここで大きく曲がる

ここから少し下り気味に行ったところが三角点のある場所。何回も踏み跡をはずし、そのたびに時間がどんどん過ぎていく。GPSがなければさらに大幅な時間ロスが出てくることがわかる。山頂直下まで来たが、踏み跡らしきものはない。山頂の方向に藪を漕ぎながら進むと待望の山頂に達した。

 苅安山頂

山頂は5,6人が収容できる広さ、訪れる人が非常に少ないことを物語る。昼食後、下山開始。1mも離れるともう先行者は見えない。できるだけ団子状態で下っていくが、おじさんが遅いため、すぐに先行者を見失う。そのたびに大きな声で先行者に待ってもらう。

 能郷白山を望む

 分岐を過ぎて約1時間、踏み跡を外して、少しトラバース気味に尾根上の踏み跡を探す。藪漕ぎでおじさんの右足のすねは悲鳴を上げている。痛いばかりでなく、痺れてくる。そこでちょっとしたハプニングが起こった。最年少のK君の買ったばかりのスマホがないと言う。ズボンのポケットに入れていて、直前まであったと言う。チャック付きではなかったので、直前の藪漕ぎの途中でなくしたらしい。探しに戻り、幸い同行したOさんがそのスマホを発見してくれた。お社まで戻り、無事登れたこと、スマホが戻ったことに感謝の祈りを捧げた。

 峠で着替えをすると、両足とも膝下の一部が赤く腫れ上がっていた。これが今回の苦行を最も物語るものとなった。そこに岐阜ナンバーの一台の車がさしかかる。九頭竜から岐阜に帰るつもりが、こちらに来てしまったとのこと。朝来た順路を教えてあげた。彼らからすれば岐阜ナンバーのわれわれの乗る車に出会ったことは地獄で如来様に出会ったようなものではないかと勝手に想像した。今回の山行には反省しかり。E氏の8年前の道には何もなく1時間で登ったとの記憶に頼りすぎた。8年も経ち、登る人もいなくなればかつての明瞭な道はヤブと化す。奥美濃のヤブ山で起きていることだ。そのことを頭に置き、時間の余裕を十分に見ておくべきだと今更ながら痛感した。

 コースタイム 温見峠9:20→苅安12:55~13:30→峠16:05


 峠から左下に能郷白山の登山路が伸びている
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山の日・伊吹山に登る 20.8.11

2020-08-11 19:05:53 | 山登り
 6月21日の貝月山以来、1000m以上の高い山に登って登っていなかったが、山の日(8月10日)に伊吹山に山とも3名と出かけた。伊吹山に最初に登ったのは、中学校一年生の時。この時は、3合目までがとても長く感じた、とても山頂まで登れないだろうと思った。かつては、各合目(5合目まで)ごとに営業の小屋があったし、スキー場のリフトがあった。今や、一合目の小屋と山頂の小屋を除くと全てなくなった。

 登山口では、車を呼び込む住民の姿を見た。登山口から少し離れた駐車場は300円と中心地の400円と比べると100円お得。ここでもほぼ満車の状況だった。心配はこの暑さ、果たして山頂に立つことができるだろうかだった。一人だと休まない一合目、二合目で休み、十分水分をとった。何とか三合目まで達したが、中学の時に登った記憶が蘇る。三合目の東屋は、気持ち良い風が通り抜ける。いつまでもここに居たいが、涼しい風に助けられて、歩き出す。

 三合目東屋から

他の3人に少し遅れて五合目小屋に到着。ここからはさらに歩みは遅くなった。左の稜線の先には登山客が一杯見えるのが見えてくる。

 イブキジャコウソウ 草ではなく常緑低木だそうだ

やがて、急登が終わり、山頂の賑わいが見えてくる。登山口からここまで4時間弱かかった。今までの最長記録だと思う。昨年11月30日に登った時は、2時間45分だった。

 山頂の賑わい
 すでに山ともは食事中、Eさんから餃子をいただき、アルコールフリーのビールを飲む。まわりにはドライブウェイを利用した家族連れが目立つ。山頂は涼しい風が吹き渡っている夏の楽園だった。山頂の小屋が林立する風景は昔と変わらない。下りも休憩を多く取りながら、駐車場に到着した。13時を過ぎても、依然として登ってくる。中にはご来光を見ることや夜間登山を目的に登ってきているのかもしれない。

 三合目柵越しに撮影 黄色の花 ヤブカンソウ  紫の花 ハタザオギキョウ

コースタイム 登山口8:00→山頂11:55~12:35→登山口15:22

 今日の中日新聞朝刊を見ると、山の日にちなんだ伊吹山の記事が掲載されていた。山頂ではシモツケソウが今見頃だそうだ。生憎登山道ではなかったので、見ることはなかったが、途中で見た。

 
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戦後75年の夏 20.8.8

2020-08-09 15:07:16 | 面白い本はないか
 戦争中の経験がある人たちは、今や言わば絶滅危惧種となりつつある。うちの親父は大正5年生まれで当然のことながら、アジア太平洋戦争中のどこかで兵士(確か最終の階級は曹長?)だった。親父から聞く戦争中の話の定番として、ビルマ(今はミャンマー)で前線に取り残された友軍を助けに行った話がある。親父は当時の国民には珍しく車が運転でき、確か通信兵だったと聞いた。彼は、車を運転して、友軍(その中にY氏がいた)を苦労の末助け出した。そして、戦後そのY氏は引き上げ後我が家にしばらく居候していた。Y氏からもその話を何回か聞いた。Y氏はその後滋賀県に移り、おじさんの幼き頃その家を訪ねて行ったことがある。
 
 親父は確か終戦の1年か2年経って、揖斐の家に帰ってきた。そして、結婚し、おじさんが生まれた。定番を除くと戦争の話を聞いた覚えはない。おそらく、中国での戦いの後、インドシナ方面に転戦したのだろう(仮にフィリピンとか南洋諸島に送られていたなら、おじさんはこの世に存在すらしていない。ただし、それはビルマでインパール作戦に参加していたなら同じことになっていたかもしれない)。そして戦争に負けて、しばらく捕虜生活を送ったことだろう。お袋が言っていた話に、親父は家に戻ってからもマラリアでしばらく苦しんだという。うちの親父のようにほとんどの兵士が戦争について語らないまま鬼籍に入っていった。中国での三光作戦など日本軍について書かれた本を読んでいたおじさんには、親父からそのような話を聞きたいとも思わなかった。勇気ある一部の元兵士によってその実態が明らかになるほかは、国民全体の経験として共有されることはなかった。ただ、加害者としてではなく、空襲や原爆などの被害者としての経験がより強く蓄積されることとなった。

 庭のギボウシ この花も種類が多い

 話は8月8日に見たBSテレビ番組「戦争花嫁のアメリカ」。日本を占領統治するためにアメリカは40万の兵士を日本に送り込んだ。その兵士の一部が日本の女性を妻とした。その妻たちの今を追ったドキュメントである。親兄弟、親類に反対され、デートしているとふしだらな娘だという視線を感じながら、それでも当時排日法(日本人の移民が禁止されていたが、兵士の配偶者という身分で入国が許された)はあったうえ、日本人と見れば「ジャップ」とつぼをかけられた。夫以外に頼る人もなく、強く戦後を生きてきた女性達。中でもスーパーを創業した女性、彼女の言葉「アメリカは男であるとかどこの階級の出であるとか全く問題にならない。日本だったら創業できなかった。」というアメリカ社会(今はそうでもない)は魅力的に見える。それに比べて、占領軍の進駐に合わせて、政府は「RAAアメリカ軍用慰安所」をすぐに作った(その目的は良家の子女を守るためだったが、アメリカ側から正式な要請があったわけではない。今の従軍慰安婦につながる発想があるような気がする)。しかし、アメリカ本国の女性達の反対により半年で閉鎖された(情けないと思うのはおじさんだけだろうか)。

 庭のヤブラン 今超地味な花が咲いている

 やっと本題(といっても全く大したことがない)の本の話に入る。前にも書いたかもしれないが、赤坂真理「東京プリズン」という小説を読んだことがあるだろうか。話のメインは主人公、16歳の女子高生がアメリカに留学。そこで、昭和天皇の戦争責任をめぐってディベートを行うことになる。基本の筋はそうなのだが、時間や場所が入り組んでいて小説読みでないおじさんにはよく分からなかったのが実態。最近になって、この著者の二つの本「箱の中の天皇(2018年発表)」と「愛と暴力の戦後とその後(2014年)」。前者は平成天皇のお言葉(2016年)が主たるテーマだが、例によってマッカーサーそして水俣などが入り乱れており、やはりすんなりと理解は難しい。毎日新聞の評では「小説にしかできない切実な天皇論ーおそるべき力業」と本の帯に書いてある。後者は小説ではないため、主張がストレートなためか理解が比較的易しい。

 後者の本の中に「東京プリズン」を書くに至った経緯が以下のように書いてある。気がつくと30を過ぎていた私は、あるとき、全くの個人的体験だと思ってきたことが、どこか、日本の歴史そのものと重なるように思われた。私の中に表現の種は受胎したのだが、それを育てることはできなかった。(中略)それがひとつできたのは、2012年に書いた「東京プリズン」という小説だった。(中略)評論や研究では、感情と論理をいっしょくたにすることはタブーである。しかし、日本人による日本の近現代史研究がどこかかゆいところに手が届かないのは、それを語るとき多くの人が反射的に感情的になってしまうことこそが、評論や研究を難しくしているからだ。だとしたら、感情を、論理と一緒に動くものとして扱わなければ、この件の真実に近づくことはできなかった。そしてそうできるメディアは、小説だった。

 後者の本にはおじさんの考えに近いものがたくさんある。それをここでいちいち紹介することはできないので、昭和天皇の責任ということだけを書いておく。おじさんは昭和天皇は責任をとって退位すべきだったと思っている。統治者が退位しないことによって、国民の誰も責任を取ることのばからしさを感じてしまったのでないか。そして戦後はいつまで経っても終わらないと。この本の中にこれとは違う考え方が書いてあるので紹介する。人々は被害者でもあり加害者でもある自らの姿を、一つの象徴として、昭和天皇に見たのでないだろうか。ならば、だからこそ、心の中でも、天皇を裁けなかったのではなかろうか。自分も免罪されるほどに罪のない存在だとは思えないから。だから黙った。誰にも内面を覗かれないようにした。そのとき、かの人の生身の肉体は、生き残った者たちの免罪符そのものとなり、同時に、無数とも言える生き恥を、代わってさらしてくれるものだったのではないだろうか?

 庭のヤブラン これは鉢植え

 最初、赤坂真理の2冊の本をネタにして書こうとした。その導入部分を親父の話から書くことを思いつき、さらにマッサージ椅子で休憩しながらたまたま見たBSの番組を間に挟み込んだ。赤坂真理の本はこれからも読み直していきたいとも思っている。



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