城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

面白い本はないか・2021年振り返り 21.12.30

2021-12-30 19:40:44 | 面白い本はないか
 本来であれば最も印象に残る本について書くべきだとは思うのだが、記憶力、理解力もともと乏しく、さらに年齢のせいでさらに悪化している。従ってどうしてもつい最近読んだ本が印象に残りやすく、古くなればなるほど印象が薄くなる。そんな言い訳を言うくらいなら、書かなくてよいという批判を受けるかもしれないが、これは日記であり、その時に何をしたかあるいは何を考えたかについて書いているのだからという弁解をしたい。もちろん、内心では人に読んでもらいたいと熱望していることは言うまでもない。

 ここのところ伝記、いわゆる偉人伝について読むことが多い。今日は親鸞聖人の伝記、ひろさちや著「親鸞を生きる」を読み終わったところだ。親鸞の思想は絶対他力であり、阿弥陀仏を信じることただそれだけで救われるというものだ。法然の浄土宗もお念仏を唱えるだけで成仏できるというものだが、そこには「お念仏」という自力が存在する。私たちは皆阿弥陀仏により生かされている存在であるから、仏を信じ、自分に与えらた人生を生きるほかはない。困っている人がいても、その人たち全員を私たちは救うことはできない。これができるのは仏以外にない。理解出来るところも多いのだが、あまりにも人間は非力だとする考えにはついていけない。ちなみに家は浄土真宗いわゆる「おひがし」である。

 大河ドラマの中でこれほど欠かさず毎回見たことはないのが「青天を衝け」(登場人物が多すぎて誰が誰だかしまいにはわからなくなったが)。図書館の伝記の棚を見ていたら澁澤秀雄著「澁澤栄一」という本があった。秀雄は栄一の四男(最初の妻千代がコレラで亡くなったのち、再婚したかねとの子。本の中にあるたくさんのエピソードがドラマの中でも取り上げられていた(脚本家はある程度史実に基づきながら、時に想像力を働かせて史実を膨らますのか。)。先に本(澁澤栄一について書かれた本はたくさんあるようだが、どれも読んでいない)を読む方が面白いのかもしれない。ちなみに栄一は婚外子を含めて子どもが20人以上あったが、この本でも巻末に家系図が載せてあり、そこでは10人ばかりとなっている。げすの読み方かもしれないが、当時はこうしたこともあまり問題となることはなかったのだ。

 岸信介と東条英機について書かれた本、太田尚樹著「満州と岸信介」、同「東条英機」を読んだ。岸は「昭和の妖怪」と言われるように満州の経済5カ年計画を見事に成功させ、その後東条内閣の商工大臣で彼の辞任が東条の退任につながった。言うまでもなく安倍晋三はかれの孫にあたる(父安倍晋太郎の妻洋子が岸信介の娘)。東条は日米関係が険悪になってきたとき、中国からの撤兵をあくまでも拒みつつけ、これが原因で太平洋戦争が始まった。短時間で片が付くと思った中国だが、日本軍は中国という広大な土地の点だけを抑えることができても面を押さえることはできなかった。そもそも何のために中国と戦争を始めたのかがよく分からない(満州侵略は資源確保、ロシアへの牽制など理由付けはできる)。この時宇垣一成とかが首相になっていれば歴史は変わったかもしれない。このとき「ポーツマスの旗」(主人公は小村寿太郎)に書かれたような政治家や軍人がいたならば・・・と考えて見るのも面白い。また、軍の資金(国家予算からの資金ではない)源としてケシから精製されるアヘンの販売の利益により様々な活動をしてきたことも明らかにされる。そして大杉栄等を虐殺したとされる甘粕正彦(本当の犯人でないという説もある、軍を辞めた後も軍との深い関係が続いたことからもその説を裏付ける)彼の満州での活躍振りも描かれる。

 石牟礼道子(3月30日付け「石牟礼道子と渡辺京二」に紹介した)については、その関連の本がいまだに出されている。それだけ多くの知識人と交友し、影響を与えたということだろう。石牟礼と渡辺との不思議な関係が米本浩二著「魂の邂逅」に丁寧に描かれている。公害問題の原点であり、企業の悪にある意味荷担する国、労働組合の実態が分かってくる。建築家の安藤忠雄も面白い。本は残さないが、特徴ある建築物を残す(建築家にとってそれは一種の芸術品であるのだが、使い勝手が悪いことが多い)。平松剛著「光の教会安藤忠夫の現場」は建築専門家の手によるものだけに一段と面白い。

 今年1月3日付けのブログ記事「初読みマルクス」。現在の資本主義が行き詰まり、富める者と貧しい者の格差が広がり続ける。その格差は生まれてくる家庭の経済的資源や文化的資源により再生産される。「中流」だと思っていても、実は「下流」に多くの国民がなっていく。アフリカの最貧国の生活と比べれば恵まれている(絶対的貧困ではない)けれど相対的貧困状態にある国民は多い。マルクスの出番はまだまだ続く。熱き人々で取り上げた井手英策氏などに頑張ってもらうしかない。

 明日は大晦日、暗い日本でありますが、とにかく健康に注意し、良い年をお迎えください。 

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雪の城ヶ峰 21.12.29

2021-12-29 19:16:49 | 山登り
 日曜日から月曜日にかけて揖斐川町市街地でも降雪があり、自宅付近でも30cmくらい積もった。この冬初めての雪どけを行い、火曜日には城台山まで登ってきた。雪が降ったら試してみたいことがあった。今使っているアイゼンは12本爪のワンタッチであるが、着けはじめ頃何度も外れてしまう。着け方が悪いのかそれとも靴にあっていないのか、このことを確かめたかった。もう一つは、前に使っていたアイゼンが使えるかどうか(これも外れることが多かったので、登山用品店で直してもらったが、その後使っていないので使えるかどうか確かめていなかった。)。

 まずは従来のアイゼンを昨日家から履き、城台山まで往復した。一度も外れることもなく、無事帰ってきた。顔見知りの人が足下を見て、少しびっくりしたようであったので、試しですと応えた。城台山までは既に足跡があった。その先行者は城ヶ峰まで行ったのであろうか。この日10時にケアマネさんが来ることになっていたので、家に帰った。

 グリベル12本 以前履いていた冬専用でないスカルパの靴に合わせて買ったもの

 観音さんのあるところから春日方面

 一心寺

 火曜日城台山から揖斐の市街地を望む

 そして今日はワンタッチアイゼンをザックに入れて、一心寺の上の東屋でアイゼンを履いた。歩き出した直後、右足のアイゼンが外れた。前日の足跡は城台山で終わっていた。いよいよ城ヶ峰一番乗りかなと思ったのだが、反射板付近でトレランの若者にあっけなく抜かれた。これで一番乗りは消えた。家から一時間半で城ヶ峰に到着。何度も登っているのに、山頂から小津権現山と飯盛山が見えることを知らなかった。落葉樹の葉が落ち、見通しが良くなり、さらに雪をかぶった山は比較的簡単にどの山か判別できる。

 鹿の足跡だけが先行者であったのだが

 反射板 ここでトレランに抜かれた 池田山でもいたが、これくらいの雪だったら走ってくるのだと認識

 城ヶ峰山頂 この下りでやはり右足のアイゼンが外れた

 小津権現山

 今日は平日なのだが、既に年末年始の休みのところがあるようで、城台山の登りで男性2名、反射板のところで男性1名、城ヶ峰下りで男性1名、そして城台山からの下りでは元植木屋さんで今年何回か一緒に登ったことがあるKさんに遭遇。彼についてはブログで何回か登場させている。彼曰く「また誘ってください」と。

 おじさんが登るのは主に奥揖斐の山々だから、ほとんどアイゼン、ピッケルの出番はない。ただし、朝の早い時間は凍結していることもあるので、場合によりあるいはその人の力量により必要となる。キックステップが出来る人ならば必要がないかもしれない(すなわち熟達者であれば不必要で未熟だとあった方が良い)。貝月山など緩斜面しかないところでもアイゼンを使っている登山者を結構見る(ワカンかスノーシューがあればアイゼンは不要だと思う)。雪山に初挑戦する人に聞かれれば、奥揖斐の山ではほとんど必要ないが、あることにこしたことはないと応えている。ただし、伊吹山、御在所、能郷白山に厳冬期あるいは早春に登りたいのならアイゼンとピッケルは必要となる。

 ユーチューブなども参考にしながら問題点があるかどうか調べた 靴にもフィットしており、やはり着け方に問題があるようだ 

 あと今年も二日を残すのみとなり、31日には城台山登り累計3489回となる。

  
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2021年振り返り・山登り 21.12.26

2021-12-26 17:21:28 | 山登り
 今日は池田山で昨年と同様、雪山への足慣らしをするつもりだった。たっぷり雪があるはずであったが、山頂ですら10cm程度、ほとんど今朝降ったばかりの雪だった。このため持って行ったスノーシューの出番は全くなかった。

 東屋から林道を見る 昨年はここからスノーシューを使った 道路が見えている 9時32分 霞間ヶ渓登山口から1時間半(ゆっくり登った)

 峠の小屋を過ぎても積雪は一向に増えない 10時39分

 同上 むなしくスノーシューを背負って歩く Mさん提供

 山頂への最後の登り 山頂着10時50分頃 Mさん提供

山頂の東屋では寒さで手が痛くなるほどで、ゆっくりとお昼を食べることはできなかった。じっとしているとさすがに冬は低山でも寒い。

◯2021年に登った山

 1月 高屋山(小津権現山に至る最初のピーク) 雪たっぷりのなか小津部落から登る 高屋山まで4時間弱
    
     高屋山 
    貝月山 雪山挑戦のMさんにとって感激の山
    
     貝月山山頂

 2月 土蔵岳 この山に最初登った時はほとんど雪がなかったがこの時はたっぷり Oさんのリーダー振りが光る
    
     山頂は近い
    天狗岳 Mさんとの2回目の雪山 別に登ったダブルOさんチームは速かった!
    
     山頂で記念写真
    (このあと事件?が起きた 山とものEさん(奥揖斐山荘オーナー)が骨折、おじさんが自信を持って行ける雪山はあまりないので大きな事件だった)

 3月 伊吹山 あまりに雪が少ないことにびっくり(2月までには行かないとダメだと思った)、ここでしばらく一緒に登っていなかった名古屋のOさんにばったり会った この後何回か一緒に登った
    能郷白山 自分の鈍足を思い知らされた。一つ年下のKさんは速かった(おじさんが遅すぎ) 若いときこの時期に2回ほど登ったが、比べても仕方ないと言い聞かす
    
     前山から能郷白山

 4月 己高山 久しぶりに月一山行に参加
    小津権現山 名古屋のOさんとの山行 花がもっとあると思ったが少なかった
    貝月山・飯盛山 花を求めてはしごする 貝月山なし、飯盛山ヤマシャクなど
    
     飯盛山のヤマシャク

 5月 クマイガイソウ・鍋倉山 クマガイソウが年々減ってゆくのを実感した
    花房山 名古屋のOさんとの4回目の山行

 6月 金糞岳 名古屋のOさんとの5回目の山行 おじさんは膝に炎症が出て手こずる
    貝月谷 沢登り 久しぶりにEさんと登る

 7月 人形山 岐阜・富山県境の山 火打山に行くはずが、天候のため日帰りの山になった
    
     宮屋敷跡

 8月 薬師岳を計画するも、台風とコロナで中止

 9月 冠山 久しぶりの冠 意外と花が多かった
    三方岩岳・野谷荘司山 最短コースで2座(岐阜百山)ゲット
    
     野谷荘司山
    倉見山 女性3人と登る ヒルが出迎えてくれる
    焼岳 Eさん、Kさんに焼岳小屋跡付近から置いて行かれる 
    
     溶岩ドーム

 10月 鎗ヶ先 特記事項なし
     飯盛山・西津汲 月一山行
     金草岳 強風に女性二人がびびり白倉岳から引き返す
     
      金草岳
     権現山 関市には二つの権現山があるが、これは東の方の山 下りで道を間違える 低い山は道らしきものがたくさんあり注意が必要
     門入・不動の滝 門入から底なし沼のようなぬかるみを超えて到達し、感激!
     
      不動の滝
     能郷白山(温見峠から)紅葉真っ盛り メンバーが良い(かつて飛騨山岳会のI氏と名古屋のOさん)
      

 11月 燕岳 メンバー最高、日頃会わない若いグループ(もちろん女性)に癒やされる 槍の朝夕の写真をゲット 22年の年賀状に使ったが、プリンター不調で線が入る
     

 12月 霊仙山(柏原道) 新雪+無風快晴 
     
     池田山 今年3回目(2月、7月)

 鈍足だが来年も頑張るぞー!  

     
 
 



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八朔→ミカン→果物 21.12.23

2021-12-23 19:21:27 | 野菜作り
 今日は朝から畑の八朔を収穫した。その作業には、ここのところ奥揖斐山荘のオーナーに脚立持参でお手伝いをお願いしている。昨日午後に背が届くところはとったので、今日ははじめ脚立を使用しての収穫をし、それが届かない内部等については木に登りながら収穫した。今年は表年であるためか、数は少ないものの、良く色づいた大きめの八朔だった。

 比較的新しく植えた木で今年は葉が落ち、実も小さい。 これで55個

 古い方の木 何個あるだろうか 例年だと最低でも600個以上

 8時頃から10時半まで作業した成果

 このあとオーナーからいただいたミニスイカほどもある晩白柚(ばんぺいゆ)。

  
 さて、ここからは同じ柑橘類で日本人に最も馴染みのあるミカン(温州ミカン)についてお話ししたい。今やミカンを作る家庭は増えてきている。今の時期庭先や畑などでよく見かける。昔は個人で作るミカンはあまり美味しいものではなかった。ところが品種改良もあってその味は販売されているものと遜色ないレベルまで良くなってきている。昨日は海津市南濃町にある「月見の里南濃」でミカンを買ってきた。かつて、南濃ミカンは酸っぱいことで有名であった。その評価は今や大きく変わった。実際に食べてみると少し酸味はあるものの甘みもあり美味しかった。この南濃ミカンについて中日新聞の11月22日付けのネットニュースに次のような記事が載っていた。南濃ミカンは約150年前に和歌山から苗木を導入したが、10,20年前は皮が青くて厚く酸っぱかった。当時はミカン栽培の北限と言われていた。現在、早生はそのまま出荷し(今頃食べるには早生ということになる)、晩生は貯蔵庫で寝かせ、他の産地の出荷が終わった頃、「蔵出しミカン」として出荷するそうだ。この地の栽培農家の宇佐見さんの話では、温暖化の影響で年々美味しくなっているという。一方、これまでの産地とされた所では、逆に暖かくなりすぎて、収穫時期を早めたり、他の柑橘系に代えたりしているところもあるそうだ。

 江戸時代は紀州ミカンが主流であったが、今や関東以西の沿岸地域で栽培されている。子どもの頃は三ヶ日みかんというのが結構高かった覚えがある。

 岐阜はわずかに1480トン 和歌山、愛媛、静岡がベストスリー 神奈川が意外と多い

現在の生産量は90万トン(オレンジは10万トン、グレープフルーツは7万トン)、今やその消費量は最盛期の三分の一まで減ってきている。思い出すのがオレンジやグレープフルーツの自由化をアメリカから強く要求された。オレンジの自由化でミカン農家は致命的な打撃を受けるというのが当時の評判だった。確かにその輸入によってミカンの消費は落ち込んだ。ただ、今はミカンだけでなくオレンジなどの柑橘類、そして柑橘類以外の果物もその消費は大きく減ってきている。物珍しさでかつてグレープフルーツをよく食べたが、今は滅多に食べなくなった。実はポストハーベストといって収穫後に輸出の際にカビを発生させないため消毒をしているという事実を知って食べるのを控えるようになった(今鈴木宣弘著「農業消滅」という本を読んでいるのだが、アメリカの圧力で日本は随分危険な食物を輸入し、食べさせられていると書いてある。日本政府はアメリカ政府のある意味いいなりで国民の命を軽視しているそうだ。)

 JBpress(食の研究所)によると日本人は果物をあまり食べなくなってきている。特に40代~50代で果物離れが顕著となっている。1975年一人当り年間約50kg→2013年27kg。日本は欧米の三分の一から半分程度の消費となっている。そして興味深いことだが、日本は果物をデザートとして食べているのに対し、彼らは野菜と同じように食材として使われている。日本の果物は外国のと比べると甘くて実も大きいので、余計にそうなるのかもしれない。食べない理由としては「他に食べる食品があるから」「日持ちがしないから」「皮をむくのに手間がかかる」「価格が高い」、若者では「べたべたする」「酸っぱいのが苦手」となっている・若い世代では苦みや酸味の苦手な人が増え、ビール離れ、コーヒー離れが進んでいるという。これに危機感を抱いた政府は果物の位置づけを従来の「嗜好食品」から「必需品」に変えた。果物はビタミン、ポリフェノールに富み、生活習慣病の予防に効果のある成分が多く含まれているからだそうだ。聞いたことがないのだが、「毎日くだもの200g」(年間にすると72kg)運動なるものも進められているという。コンビニではカットフルーツに人気があるという。

 ながながと果物の話をしてきた。実はおじさん、大の果物好きで食卓に何かないと寂しいのである。特にスイカ、梨、ももは好物、富有柿も最近好きになった。リンゴも好きだが、これは毎朝ニンジンとともにジュースにして飲んでいる。一方柑橘類はそれほど手が出ない。中でも八朔は生産者であるので食べているが、苦みと酸っぱさが少々苦手。この苦みと酸味は時間をおけばだんだんマイルドになり、甘みも増してくる。面倒くさいがジュースにすると意外とうまい。これから親戚、知人に配るので、是非味わっていただたい。もちろん消毒などはしていないのでご安心を((^0^)。


  
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我が家の介護問題 21.12.20

2021-12-20 21:32:12 | 地域のこと他
 最近5080問題ということが言われるようになった。要するに80代の親を介護する独身の息子なり娘の直面する問題である。2000年に介護保険法が施行され、従来の措置制度(行政が提供する福祉サービスを決める)から住民が福祉サービスを必要とするときに、そのサービスを受けることができるようになり、選択の自由が確保されたわけだ。法律の施行によって、そうした介護サービスを提供する官民の事業所が雨後のタケノコのようにたくさんできた。従来なら特別養護老人ホームに行政の指示により入居する(そもそも施設の数も少なく、待機者も今より多くなかなか入居できなかった)あるいは病院(これを「社会的入院」という。その意味は医療上の必要性ではなく、自宅に戻れないという老人を預かるための入院)に入れるか、在宅で家族が介護をするかしかなかった。在宅で介護する場合、一般的に栄養状態が悪く、十分なケアもできないことから比較的短期間でなくなるというのが普通だった。介護保険という介護の問題を個人の問題としてではなく社会の問題として捉えるようになったのだが、その介護保険の適用となる高齢者が劇的に増加し、サービス受けるために必要な要介護度の認定を厳しくするとともに介護保険料(40歳以上が支払っている)を上げ、介護にかかる経費のうち食費、住居費などを全額自己負担としたり、所得の多い人は自己負担の割合を2割にしたりしてきた。5080が問題なのは、50代の子どもが十分な所得を持っていない、酷い場合には80代の親の年金をあてにしなければならないケースであろう。親亡き後に子どもはどのように生計を立てて行けば良いのか。

 今日の城台山

 我が家は、70100問題ということになる。ただし、幸いに息子とその嫁が介護者となっているし、介護される母親もそこそこの遺族年金をいただいている。少し、その介護の歴史を振り返ってみる。米寿になった翌年、自宅で転倒し、大腿骨骨折で入院、退院後リハビリ専門のデイサービスに週2回程度通っていた。施設の人の話では結構頑張ってリハビリに励んでいたらしい。しかし、次第にこのリハビリについていくことができなくなり、普通のデイサービスに通うようになった。この頃の介護は今から考えればたいしたことはなかった。それでも夫婦揃って外出できるのはデイサービスに行っている間だけという状況であった。また入浴介助は意外と難しいこともあり、ヘルパーさんを頼んだ。3年前の夏、昼食時裸でベッドに寝ていたので、異常を感じ、救急車で揖斐病院に行ったが、血圧高めの他は異常なしということで帰宅(車いすタクシーで)。この夏は食事をとらないことが多かった(この頃の介護記録は毎日のように書いてある)。その年の9月22日に95歳の誕生日を迎え、揖斐川町長が我が家を訪問された。この後も食事を食べたり、食べなかったりする状態は続いた。また、この年ショートステイを短期間利用し始めた。そしてその年11月末にトイレの前で転倒し、足にひびが入り、再び入院(約2週間)。次第に認知症の症状が出てきた(正式な診断はもらっていない)。

 今日の池田山 26日(日曜日)に登る予定 雪もありそう

 昨年3月食べ物を求めての徘徊(壁を伝いながら歩いていた)が多くなる。冷蔵庫にあるものや机等の上にあるものを部屋まで持って行く。冷凍ニンジン、たらこ、ベーコンなど食べようとするが食べれないので、部屋のごみ箱に捨てる。三食をきちんと食べ、おやつも食べているのだが。幼児用のロックを買ってきて、冷蔵庫等開けないようにした。しばらくすると歩けなくなったこともあり、この徘徊はなくなった。以後は車いすでキッチンまで連れてきて、排泄はパンツでする。最初のうちは自分で替えていたが、次第に妻がするようになる。しかし、今年夏前から立つことができなくなり、オムツに代える。今や足は拘縮し、褥瘡もできたことにより二人がかりで一日三回のおしめ替え、そして一日三回ベッドから車いすに移乗し、キッチンまで連れていくのが私の日課となった。

 現在利用している介護サービスは、ショートステイ(月一週間程度を2回)、訪問リハビリ週一回、訪問看護週一回(連絡すれば緊急時24時間対応可能、ここからかかりつけ医に連絡が行く)、訪問入浴(週一回)(ショートステイでいないので実際は月二回程度)。そして、介護用具のレンタル(スロープ、褥瘡用マット)当然だが、ショートステイの費用が一番かかる、ショートステイを月15日利用し、他の介護サービスを受けた場合の費用額は次のとおり。
ショートステイ介護保険一部負担(一割)14,423円、実費でかかるのが食費22,500円(一日1,500円)、居住費(一人部屋)30,450円(一日⒉,030円)、訪問看護・リハビリ3,075円、訪問入浴4,006円合計74,454円となる。いかに実費の占める割合が大きいことがわかるだろう。かりに特別養護老人ホームに入居した場合、月額13万円程度必要となるだろう。

 庭の千両

 現在特別養護老人ホームへの入所を希望しているが、順番はなかなか来ない。連れ合いにかかる介護の負担は肉体的なものばかりではない。我が家は結婚以来両親と同居してきた。連れ合いは育児休業はとったが、フルタイムで長い間働いてきた。嫁姑問題はずっと前からあったこともあり、認知症が出てきてから、余計にこの確執が全面に出るようになってきた。私もその嫁の味方をする者として捉えていると思う。連れ合いにしてみれば、不機嫌、不満な義母の世話をなぜしなければならないのかと思うはずだ。実の息子だって思うのだから当然だ。この状態がいつまで続くのかは誰にも分からない。

 介護問題は実は自分の問題でもある。ある日、身体が思うように動かなくなり、誰かから介護を受けなければならなくなる。きっと私たち世代の多くは子どもに頼ることはできないであろう。一方、日本の現状は公的な介護に頼ることができなくなりつつある。できれば「ぴんぴんころり」でできるだけ人様のお世話にならずに人生を閉じることができたら最高だろうと思っている。掛け合い漫才のように。連れ合いとは「俺が先だ、いや私が先だ」などと言い合ってはいるが、そんなことわかるはずはないのである。ただし、足腰の鍛錬だけは怠らないようにしようというのが今の心境だ。足が衰えると寝たきりになる、そうすると不本意に長生きしてしまうかもしれない。死ぬ一日前にも歩いていたと言われたい。

※介護制度については間違っているところもあるかもしれないし、母親の介護については十分整理されていないので読みにくいことを最後にお断りしておきたい。また、介護で苦労されている方に比べれば我が家の苦労など何でもないと思われるかもしれない。しかし、残念ながらその方の苦労を実際に体験するなどほとんど不可能で比較のしようがないのであえて書いてみた次第である。


 
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