城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

温見峠から能郷白山・紅葉真っ最中 21.10.30

2021-10-30 19:48:14 | 山登り
 かつての職場の仲間であり山仲間であるI氏と登るのは久しぶりだ。I氏は同僚等に頼まれてあちこち登っているようだ。これに加えて名古屋のOさん、この3人で最後に登ったのは瑞浪にある屏風山(2017年1月29日、ここにはH氏も加わっていた)だから、本当に久しぶりだった。実は能郷白山も計画には入っていたのだが、天気が悪くて中止した経緯があり、今回はこれの再実行ということになる。揖斐を7時に出発、本巣市役所が薦める能郷白山への安全な道?「大須~越波~猫峠~温見峠)で向かう。途中の折越峠、さらには温見峠付近は紅葉の真っ最中であった。何より驚いたのは峠に着いて駐車してある車の多さ!何とか登山口近くに空きを見つけて潜り込む。皆さんおなじみのコースなので、ここからは写真を見ながら説明する。


 峠 9:02 道の両脇にはずらりと車

 登山口 9:06 

 緩やかな道 9:08

 同上 9:19

 急な道になる 9:24

 急な道 9:35

 梯子 9:43

 下を見る 9:46 真ん中付近に道路が見える

 ナナカマド 10:06 ここら辺では葉は赤く色づかない、実だけが赤くなっている

 中央付近に冠雪した白山が見える 10:16

 笹の中の道 10:32

 笹の中の道が続く 10:46

 ここで下ってくるOSKのメンバーと遭遇(H氏、T氏、M氏、比較的若い?H氏)した。


 笹の中の道2 10:50

 臥龍の道 10:52

 山頂に到着 11:10

 奥社 11:19 かつては立派なお社だったのだが 実は長い間ここが山頂だと思っていた

 磯倉

 奥社付近は風強く寒い。写真を数枚撮って、山頂に戻った。ここでお昼(11:30~12:00)


 下り笹の中の道 

 下り 12:44

 下り 12:57

 下り 13:06 1000mに近づくと紅葉はより奇麗に

 下り 13:14

 登り約2時間、下り1時間半、ゆっくりと紅葉を楽しみながら登山した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

門入滞在・コビクラと不動の滝 21.10.27

2021-10-27 20:17:19 | 山登り
 門入訪問は今回が5回目で、今回のテーマはコビクラと不動の滝、いずれも門入地区の代表的な瀑布である。二つの滝への訪問はなかなか実現する機会がなかったのだが、紅葉に染まる瀑布を求めてEさんの協力により今回実現した。ホハレ峠のすぐ手前に駐車すると、目の前には烏帽子山(1242m)が姿を見せていた。ホハレ峠付近の紅葉は始まったばかり。門入までの行程の前半(約1時間)はいつものごとく緊張の連続となる。緩斜面となるとようやく緊張が解ける。続いて徒渉となるが、水かさは前回の訪問時(8月26日日帰り)と比べると随分少ない。今回はホハレ峠から長靴で下った(帰りは登りとなるがやはり長靴で)。Eさん始め、長靴で来る人は多いのだが、ホハレ峠からの悪路に長靴で対処することは自信がなかった。このルートは徒渉とその後のぬかるみがあるので登山靴だと濡れるか泥にまみれるかを覚悟しなければならなかった。今回初めて試してみて、思った以上に長靴の効用は高かった。

 ホハレ峠付近から烏帽子山(1242.2m)

 ホハレ峠 10:37

 徒渉

 黒谷とコビクラの出合で昼食。蕎麦粒山からの水を集めるコビクラ、ここは長靴で勝負する。水量は多くない、ときどき廃林道(堰堤の工事のため作られたのか?)が顔を見せている。やがて大きな堰堤が見えてきた。この堰堤を越えるのが今日の難題で、右から高巻きする。高巻き道と堰堤との間が少しばかり隙間があることもあり、Eさんがロープをフィックスする。堰堤から下(上流側)まで4mばかりある。少し頼りにならなさそうな鎖はかかっているが、ここも下降のためのロープを出してもらった。少し進むとコビクラの滝の上部が見えてきた。全体を見るためにはやはり右側の草付きの斜面を高巻きする必要があり、ここでも,緊張を強いられる。写真を撮り、合流点まで戻る。
 今日お世話になる泉さん宅に付くとすぐにビールで乾杯。泉さん提供の落花生のゆでたのは絶品だった。おじさんも作ったことがあるが、とにかくでかくて、しっかり白っぽい実が付いている。次はHさん提供のローストビーフ、そしてEさん提供のサンマ次々出てくるごちそうにアルコールの摂取は増えるばかり。


 コビクラ出合でお昼 11:42

 コビクラ谷

 同上

 同上

 堰堤 12:25

 コビクラの滝 12:47

 門入到着 14:14

 いよいよ今日は不動の滝を見に行く。不動の滝は門入の人たちにとって信仰の対象であったらしい。不動の滝の前にある3mばかりの滝を「きよめの滝」と呼んでいるそうだ。不動の滝の滝壺付近には簡単な仏像があったらしい(今回Eさんが泉翁から不動の滝にあるというお地蔵があるかどうか見てきて欲しいという依頼を受けていた。残念ながらなかった。)。千回沢山に登った時(20年6月9日)の廃林道を蔵ヶ谷と千回沢との合流点まで歩く。林道周辺には既に立派に成長した杉の植林があるが、落下した杉の枝が林道を覆い尽くしているため、その枝を踏む音が静寂な谷間に響き渡る。厄介なことにその枝に足を引っかけて転んでしまう。合流点付近の林道から下降し、河原に降りる。この河原に沼のように水がたまっており、これが我々3人の行く手を阻む。足を入れた途端、底なし沼のように足を取られる。深いところではおちんちん付近まで達し、足がなかなか抜けない。やっとのことでその沼を抜け出し、快適な沢歩きが始まる。深いところもなく、順調に進んでいく。右側からの沢の合流点を過ぎると二つあると聞いていた3m程度の滝が現れる。最初のは「魚止めの滝」だそうで左側の草付きを巻く。二番目は「きよめの滝」、Eさんは左を巻き、二人は右を巻く。ここから不動の滝までは400mと言われたが、山の400mは結構遠い。先行するEさんの足が止まった、どうも着いたらしい。行きたかった不動の滝、この先は空高く壁が立っているかのように行き止まり。猛者は左に大きく高巻くか、右に高巻くか。かつて不動山は日帰りで登ることができた山だそうだ。不動の滝に参る人々は何を祈願したのだろうか。まずは家内の安全、五穀豊穣などなど。

 蔵ヶ谷 7:04

 蔵ヶ谷 7:24

 出合付近 7:49

 蔵ヶ谷 8:01

 最初の滝「魚止めの滝」 8:12

 二番目の滝「きよめの滝」

 不動の滝 9:06 滝の上部の紅葉が始まっている

 同上

 帰りは二つの滝は安全のためロープを出してもらった。高齢者の登山ではまず安全が優先される、時間がその分かかるが、仕方がない。滝がなくなったところで昼食、作ってもらったおにぎりが美味しい。合流点まで戻ってきて、いよいよ底なし沼の通過にかかる。おじさんは今回斜面際を選んだが、ハズレで余計に深い。足が抜けなくて焦る。二人は既に安全な場所にいた。予定よりも早く泉さん宅に戻ってきた。ここで泥で汚れた沢シューズ、そして沢足袋、膝・すね当てプロテクターを脱ぎ、長靴を履く。足下は軽くなったが、ザックは水を含んだ沢シューズ等で重くなる。いつものように泉さんは手を振って見送り。門入訪問は最後に難関が待ち受ける。最近背負ったことがない重荷に足は極端に遅くなる。ホハレ峠の看板が見えてきた時、やっと今回の山旅の満足感に浸ることができた。

 蔵ヶ谷のナメ 11:18

 蔵ヶ谷の終わりのミニ滝 11:25

 ホハレ峠の手前

コースタイム 26日合流点からコビクラの滝 行45分、帰り30分
       27日門入5:50→不動の滝9:06→門入12:35~13:15→ホハレ峠15:15


 コビクラの滝 真ん中辺りから東に線が出ている

 不動の滝ルート 緑色
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月の庭の作業 21.10.21

2021-10-21 19:29:26 | バラ、クレマチス等
 最高気温が30度を超えるような日が10月半ばまで続いていたが、今週から急速に秋が深まってきた。晩秋から冬にかけて揖斐川町では多くなる時雨も経験した。岐阜市あたりでは晴れていても、揖斐方面は暗く、雨や雪が降っていることが多くなるのである。急に気温が下がったので、5月から屋外で育てていた胡蝶蘭等を屋内のミニ温室に移動させた。君子蘭は5度くらいの低温を経験しないと花茎の長い花は咲かないので、11月末まで屋外で育てる。

 5月から10月までは屋外で育てる 胡蝶蘭、デンドロビウム、オンシジウム、カトレア

 ミニ温室 ヒーターがついている
 胡蝶蘭の鉢は多いが咲く時期は正月以降となる

 オンシジウム

 9月末に花壇は完成し、今土を入れており(14リットル入の赤玉土、計算すると170袋必要である。)、堆肥も加えて完成は11月末を予定している。バラの成長が止まる12月以降に主に鉢植えのバラを移植する予定である。


 10月の庭で最大の作業は庭木の剪定で少し遅れ気味である。一日2時間から3時間程度時間のあるときに作業をする。そして、一番最後が松の剪定でこれだけで3,4日(10時間程度)かかってしまう。作業をしていると町内の知り合い等から声がかかることが多い。脚立から落ちる事故がよくあることから、注意が必要だ。

 剪定後

 剪定を待つ木たち ここには築山で背の高い木が多いのと、庭石が多く、作業は大変

 散髪前 心棒がNTTの電柱、顔は歩行者専用標示 数年前このような状態であったので、見回りの警官に注意をされたことがあった(私有地の中にあると思うが)

 散髪後 すっきりしたでしょう!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

司馬史観とは 21.10.16

2021-10-16 21:03:58 | 面白い本はないか
 歴史小説というジャンルがあるが、この分野で50歳代以上の日本人の中で圧倒的な人気を誇っているのは、司馬遼太郎である。幕末から維新にかけて彼の描く歴史人物はとにかく魅力的だ。このためか登場する人物や時代的背景が真実だと思い込んでしまう。これが「司馬史観」というものであり、年配の日本人の歴史観に大きな影響を与えていることは間違いない。私たちは学校で歴史を学ぶが当然ほとんどの生徒にとって面白くないので余り記憶に残らない。これに比べると司馬の書く小説はどれも面白く、ついこれが本当の歴史なのだと思い込んでしまう。また、そうした小説をベースにしたテレビ、映画はもっと面白いので、強烈な印象を与えるのである。(「青天を衝け」を見ていると、維新政府の役人よりも旧幕臣の方が優秀であったのかとつい思ってしまう。大久保利通は特に酷い。)

 司馬が描く歴史人物、坂本竜馬(「竜馬がゆく」)、吉田松陰(「世に棲む日々」)、西郷隆盛・大久保利通(「翔ぶが如く」)。坂本竜馬は果たして司馬が描くような活躍を見せた人物なのであろうか。あるいは吉田松陰、いまや倒幕派のアイコンとでもいうべき人となっており、靖国神社にも祀られている。彼は、間部詮房を暗殺しようとして死罪となった。今で言えばテロリストの一人ではなかったのか(小島毅「志士から英霊へ」)。ちなみに西郷は維新成功の勲功があったが、西南戦争で時の政府に反旗を翻したので、祀られていない。


 しかし、単なる人物像ではなく、明治という時代全体を描こうとするとそこに様々な個人の考えが入ってしまう。この小説こそ「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」で始まる「坂の上の雲」(1968年~72年産経新聞に連載)である。読んでいるうちに司馬遼太郎の世界に引き込まれてしまい、ついここで描かれる歴史は正しいのだと思ってしまう。秋山好古、真之兄弟を主人公に、同郷の正岡子規なども登場し、前半は特に面白い(日露戦争のあたりはすこしくどい。)司馬は日清、日露の両戦争は自衛の戦争だと考えている。この時代は維新に関わりのあった元老(この非公式の権力者たち。彼らが総理大臣を決めていた。)が多くいて、軍が独走することはなかった。しかし、昭和に入ると元老たちはいなくなり、軍は統帥権の独立をたてに無謀な戦争を始め、ついには1945年の敗戦に至ったのだと。昭和の時代を「異胎の時代」だとした。


 こうした「司馬史観」には批判が多い。歴史家の中塚明は「司馬遼太郎の歴史観」(2009年)まで書いて、その問題点を指摘している。この本の要旨は日清、日露の両戦争は自衛の戦争ではないということである。西郷が征韓論を唱えて、板垣退助、大隈重信等が賛成したが、大久保利通、木戸孝允などが反対し、西郷は下野した。両者で違っていたのは朝鮮への進出の時期だけであって、この後維新政府は江華島事件(1875年)を起し、不平等な通商条約を強要した。さらに日清戦争の直前には、朝鮮国内の東学党の乱(現在の正式名称は「甲午農民戦争」)に乗じて、出兵し、さらに李氏朝鮮王宮内に押し入り、日本より少し前に出兵していた清国軍に退去を要求し、それを拒絶した清国に宣戦布告した。こうして確保した朝鮮での権益をロシア(ロシアは朝鮮を日本から奪おうとは考えていなかった)に奪われないように戦ったのが日露戦争である。戦争に勝ち、韓国を併合し、植民地とした。さらに満州ついには支那へと勢力を伸ばしていった。支那での勢力拡大に欧米諸国は反発し、ついには太平洋戦争へと続き、日本は敗れた(たぶんこれ自体がショートカットした歴史像かもしれない)。

 司馬が言うように、昭和は異胎の時代であったのか。むしろ明治維新からの当然の成り行きでそうなったと考えるのが自然ではないのか。司馬にしてみれば、小説を面白くするために随分と無視した事実もあったはずである。読み手の我々が勝手にこれを史実だと思ってしまうのがいけないのである。日清戦争を始めるに当たって、当時の外務大臣陸奥宗光と在韓の公使館そして軍と連携した暗躍が次第に明らかとなってきた。そして東学農民軍(最初は李氏朝鮮に対する反乱だったのだが、その後日本軍を相手にした戦いとなった)の大量殺戮があったことがわかってきた。

 ある本に、日本は台湾と朝鮮を植民地として統治したが、台湾の反乱と比べて朝鮮のそれは少なく、独立の志向は小さいと書いてあったことを思い出す。しかし、朝鮮にあっても早い時期から反乱はたびたび起こり、多くの犠牲者を出していることを知ることができる。日本にようにもともと事実をきちんと文書にして残す文化のないところでは後から歴史家が事実を究明することさえむずかしい。モリカケ問題を見ているとその文化は今も健在であることを示してくれる。
今日読んだ矢部宏治「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること」(ちくま文庫)に出ていた司馬遼太郎の話を最後に紹介する。司馬は「街道を行く」の6巻「沖縄・先島への道」の中で米軍基地に関する記事が一つもないこと。三島事件にすぐに反応し、この事件は「政治的意味はかけらもない」と発言した。司馬が守ろうとしたのは、例えアメリカに従属しても、戦前のような体制にだけはしてはいけないという強い意志の現れであった。歴史修正主義が跋扈する現在、正しい歴史を学ぶことは難しくなるばかりである。だからこそ良質の歴史を学ぶ必要性がますます高くなってきている。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関市の権現山に登る 21.10.14

2021-10-14 21:15:43 | 山登り
 権現山という名の山はきっと日本の至るところにあるのではないか。というのは権現という言葉は山岳信仰と密接に結びつき、古くから比較的近くにある山を「権現山」と称し、地元民は信仰の対象としていたと考えられるからである。ちなみに「権現」というのは、日本の神の神号の一つで、仏・菩薩が衆生を救済するため、仮の姿をとって現れるということである。そこには神仏習合(混淆)と言われる神道と仏教の合体が見られる。仏教が大陸から伝わる以前の日本には、山や海や巨木や奇岩など特定の自然物をカミの依り代とする信仰が広がっていた。そこに仏教が伝わり、古くからあったカミ信仰と混淆したのである。この状態は明治維新を迎えるまで続き、維新政府の神仏分離令(これにより廃仏毀釈が起こった)によって、現在あるように神と仏は分離されたのである。しかし、現在においてもその時代を偲ぶものが多くある。おじさんが毎日登る城台山の中腹に一心寺があるが、その境内の左に小さな神社が存在している。

 前置きが長くなって恐縮だが、もう少し我慢いただきたい。最近畑中章宏著「廃仏毀釈ー寺院・仏像破壊の真実」(ちくま新書)を読んだのだが、「権現」というのが神仏習合の一つの大きな形であることがわかる。日本の独特の山岳信仰として「修験道」というのがある。最も有名なのが、蔵王権現で奈良吉野山の金峯山(きんぷせん)、そして出羽三山の羽黒権現、戸隠権現、立山権現、白山権現、金比羅権現などがある。これらは修験道の中心となってきたのだが、明治5年の「修験道廃止令」により甚大な被害をこうむることになった。すなわち神と仏が一体となっていたものを(ある意味無理矢理)分離せよという命令が下ったのである。金峯山は仏教に、羽黒、戸隠は神社になる道を選んだ。

 ここからやっと今日登った権現山(524.6m)の話となる。「こんなに楽しい岐阜の山旅美濃「下」」に掲載されている「権現」と名の付く山は3つある。我が揖斐川町の小津権現山(1157.8m)、各務原市の権現山(316.5m)、そして関市(旧武芸川町)の権現山(516m)である。Eさんから関市の権現山に誘われた時、この旧武芸川町の権現山だと思った。ところが、この山は既に登ったということで、同じ関市にある権現山(美濃加茂市と接する)がいまだ登っていないということだった。早速、スマホにこの権現山をキャッシュし、地形図を印刷した。EさんはOSKの登山データを用意していた。

 揖斐を7時前に出発、山県インターから東海環状道路を利用し、関・富加インターで高速を降り、コブシ街道に入り、中之保轡地区を目指した。すぐに道は細くなり、散歩で歩いていた人に権現山と聞くとすぐに少し進んで、分かれ道から左に行くように言われた。車ではこれ以上進めないところに3~4台駐車できるところがあったのでここに駐車。林道をしばらく進むと登山口の標示板があり、小さな沢を渡り急な道を登っていく。ところどころには少し古びた標示板があり、道も明瞭だった。登山口から40分で尾根上に達した。最後に一端下り、急な道を登ると9時30分山頂に達した。ここには社跡というのがあったようで、やはり権現信仰の対象であったことを伺わせる。

 駐車地

 登山口 8:18

 権現山山頂を望む 8:35

 尾根上に出る 8:57

 最後の急登 9:22

 社跡 9:29

 山頂 9:30

 山頂から御嶽山

 下りは時計回りで降りていった。途中までは木の標示板があったのだが、「沢近道」とあった道は進まず、右側の道を進んでいった。ところが最初の明瞭な道は消え、荒れた道となり、たくさんあった赤布もなくなっていた。3人で話し合った結果、このまま道のないところを少しトラバース気味に進み、登ってきた道にでることを選んだ。地図上では近いと思われた距離だったが、歩くとなると時間はかかるばかり。道のないところを歩くのは経験の差がもろに出る。不用意に足を置いたりすると崩れたり、あるいは倒木が多いのにも閉口する。また伐採が最近行われたのか、登山道を示す赤布ではない作業用の赤布もあって紛らわしい。道が消えて約1時間が過ぎたところでやっと登ってきた道に出ることができた。時間は11時、少し気が緩みお腹も空いたので、ここでお昼となった。良く言われることだが、里山に登るのは意外と難しい。その理由は道が一杯あって、容易に違う道に迷い込んでしまうことだ。標高が低いからといって、手を抜くととんだしっぺ返しを受けることは覚えておく必要がある。また、かつて市町村の財政に余裕がある時期に整備された登山道が多くあるが、その後の財政窮迫などにより管理が行き届かなくなっている。こうしたことにも注意が必要だ。

 やっと登った道まで戻ってきた 11:00

 帰りに「道の駅平成」により、3人ともソフトクリームを食べる。私の舌がどうかなっているのか、いつものソフトクリームの柔らかさはなくて、少しもっちりした食感だった。

コースタイム 登山口8:18→山頂9:30→元の道11:00(昼食)→登山口11:30


 時計回りに歩く どの辺で迷ったかはご想像にまかせる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする