城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

登り納め・霊仙山柏原ルート 19.12.28

2019-12-29 19:26:21 | 山登り
 今年もあとわずかとなった。今日城台山に登ると途中で関市からのカップルに会った。どこまで行かれるのですかとの問いに、西ノ山と男性が応えた。おじさんは、つい余計なこととは思いつつ、スマホを取りだしてルートの概要を説明した。幸い、このカップルは余計なお世話を好意的に受け取ってくれたようだ。ついでに昨日霊仙山に登ってきましたとまた余計なおしゃべりに、男性も霊仙山に登ってみたいと思っていますという思いがけない反応に喜び、その山の情報を教えてしまった。余計なお世話と好意的な反応、これが何よりも嬉しいのである。

 さて、昨日の話をしよう。霊仙山には醒ヶ井あるいは南西尾根からは何回も登っているが、柏原ルートはその長さからいまだ登っていなかった。E氏の賛同を得て、彼の軽トラで柏原に向かった。途中、暖冬の影響で雪がほとんど消えていた伊吹山が前日の雪で再び雪化粧していた。現地が近くなるにつれて、ナビ担当の私はiPhone上のフィールドアクセスを見ながら、国道21号線から、登山口に至るルートをどんぴしゃりで左折した(入口に霊仙山登山口とあった)。高速道路の下をくぐるとさらに「霊仙山登山口」とあった。しかし、道はまだ先まで延びている。かつての鶏舎か豚舎を過ぎ、さらに軽トラは奥まで進む。林道終点の少し手前で車を停め、歩き出す。


 林道はやがて沢の道となり、そして明確な登山道となる。ここを登り切ると二本松と書かれた一合目となる。

「霊仙山登山道」と書かれた木の板が要所要所にある。随分、これらの板も年季が入っている。しばらく進むと、コンテナの残骸のような避難小屋が現れる。

相変わらず緩やかな登山道を登っていくとついに霊仙山の本体が見えてくる。

やがて、上丹生ルートとの合流点に出てくる。このルートも40年以上に登っているが、記憶がほとんどない。唯一、結構大きな滝(漆ヶ滝)があったことのみ記憶している。しかし、このルートには木の枝が横たわっており、行くなという指導のようだ。

 合流点

避難小屋が見えてきた。
この辺では大きく右に山腹を巻いている。そこが終わると木が消え、草付きの斜面となる。霜柱と前夜の雪で登山道は随分すべり易くなっている。急登の後、避難小屋に到着。

 避難小屋には先着の大阪からの登山者が鍋を囲み盛り上がっていた。
少し羨ましかったが、山頂へ急いだ。経塚山まで来るとちらほら登山客が見えてくる。雪は少ないが、霜柱で緩くなった道は大きな足跡を残す。途中、山バッジをザックに一杯付けたカップルを追い越し、山頂に立つ。

 この山はガスがかかることが多い。しかし、びわ湖はすぐ眼下に見える。
避難小屋に戻り、お昼を食べる。小屋は4組の登山客で混雑する。中には冬靴でピッケル持参の単独者もいた。しかし、ザックが22リットルと異常に小さい(ちなみに私は30リットル、E氏は40リットル)。

 小屋から山頂を望む

 柏原ルートを望む
 帰りに柏原駅から歩いてきた来た奈良県からの二人組と単独で登ってきた登山者に会った。前者は醒ヶ井に下りると言っていた。朝登山口付近で歩いていた登山者、私たちも含めて計4組、想像していたよりも登る人が多いと認識を新たにした。

コースタイム 駐車地8:00→二本松8.24→コンテナ避難小屋9:03→避難小屋10:32→山頂11:00→小屋11:15~11:45→駐車地13:45



☆Eさんと一緒に登った山は、同氏が「奥揖斐山荘」で違ったタッチでブログを書いている。こちらもあわせて見ていただくとより面白い。なお、画像に出てくる人物は私の後ろ姿である。
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ドイツの戦い、日本の戦い 19.12.26

2019-12-26 20:42:56 | 面白い本はないか
 今日の一日は、城台山への散歩(8kgの荷物をお供に)そして八朔の整理、読みかけの大木毅著「独ソ戦ー絶滅戦争の惨禍」(岩波新書)を読んだ。昼から八朔を親戚に配りに、愛車のワゴンRで出かける。八朔の代わりに大量のキャベツ(秋から冬にかけてキャベツを栽培し農協に卸している、いただくのは規格外のもの)、別の親戚では干し柿とリンゴをいただく。その後、木下ちがや著「「社会を変えよう」といわれたら」を読む。そして夕食後、このブログを書いている。

 先日、「佐藤優の本を読む」で紹介した吉田裕著「日本軍兵士」と大木毅著「独ソ戦」を読んで少し書いてみたくなった。日本は明確な目的もなく中国との全面戦争を行い、短期決戦のつもりが長期の持久戦ともなった。そして、いわば打開策として南方に展開し、インドシナに侵略し、その結果アメリカの石油の禁輸等を招き、英米との全面戦争に至った。一方、ドイツは英仏を相手に戦争を始め、フランスは簡単に占領したものの、イギリスには大抵抗を受けた。イギリスとの和平を図るため、不可侵条約を結んでいたソ連に宣戦布告した。もちろん、ヒトラーは、当時連合国により食料等封鎖にあっており、ソ連が唯一の食料供給先であった。この生殺与奪の権力を取り返すことも宣戦の理由であった。(ドイツは、独ソ戦を人種的に優れたゲルマン民族が劣等人種スラブ人を奴隷化するための戦争、ソ連はファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための大祖国戦争とした。)

 日本の緒戦、そしてドイツのソ連との緒戦いづれも成功した。日本の場合はアメリカの油断と戦争体制が整っていなかったこと、ソ連はスターリンがヒトラーの意向を無視したこと、軍上層部の粛正を行い、人的な資源に欠けていたことなど共通点がある。また、日本とドイツとも兵站戦が伸びきってしまって、補給ができなかったこともあげられる。食料の補給ができなくなると、現地調達要するに掠奪に頼ることになる。結果、現地の住民はゲリラ、パルチザンになって、軍に襲いかかる。

 ドイツは日本に比べるとスマートに(良い意味でないことは強調したい)戦争責任を果たしたと言われる。しかし、実態はすべての責任をヒトラーとナチズムに押しつけ、国防軍や一般国民には罪はないかのようにした。研究が進むに連れて、こうした考えは否定されている。日本でも日中戦争の行き詰まりを感じていた国民は、日米開戦に快哉を叫んだ。また、ドイツ、日本とも前者はアーリア人の優越、後者は万世一系の皇民思想など似たところはあるが、これはユダヤ民族などどこの民族も持っているのかもしれない。しかし、ナチズムはその徹底度において群を抜く。当時のナチ体制には、東部総合計画というのがあった。戦争終結後の四半世紀にポーランド、バルト三国、ソ連西部地域の住民3100万人をシベリアに追放し、死に至らしめる。そこへドイツ及び同盟国の国民を移住させるというのである。また、国内及び占領地域のユダヤ人をマダガスカル等に大量移住させる。この計画が遂行できなくなったので、絶滅政策に移った。

 占領地域での掠奪、捕虜の虐待で日独共通している。日本の中国人への蔑視、ドイツのスラブ民族への蔑視。一方のソ連も酷い。彼らにしてみるとやり返したということなのであろうか。このあと日本は満州で経験することになる。一方で戦車戦、自動車戦など近代的兵器の使用には雲泥の差がある。日本はノモンハンでソ連の近代的兵器により痛打された。だが、国力が弱く何も変わらなかった。持たざる国日本の兵器は極めて貧弱で太平洋戦争では一方的に損害を積み重ねることとなった。日本の戦死者230万人、ソ連の死者1200万人(行方不明など捕虜中に殺された者が多いため確定していない)、ドイツ444万人~531万人。

 久しぶりに面白い歴史の本を読んだ気がする。自国に都合良く修正された歴史が幅を利かせるようになってきた。本当の歴史を自虐思想に基づくものと呼ぶ人たちも多い。しかし、私たちは本当に起こったこを知らなければならないと思う。そうしない限りは、未来に向かって自信を持って力強く進むこともできないし、国に対する愛も生まれないと思っている。




  




 
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収穫は楽しいけれど・・・ 19.12.23

2019-12-23 20:46:09 | 野菜作り
 今年の野菜の収穫もいよいよ終わりであるので、山と同様に今年の成績を振り返ってみよう。4月下旬からスナップエンドウが始まる。前年の11月に苗を植え付け、マルチと不織布で寒さ対策をすると収穫量が格段に上がる。食べきれないので、お裾分け、冷凍、熟しすぎたものは豆を取りだしご飯と炊き込む。6月はジャガイモ、タマネギ。7月になると夏野菜のオンパレード、今年はナスが多く採れた。しかし、何と言ってもスイカだが、大玉は最初の1個のみ。後はミニ、けれどこのスイカ「飛行船ラルク」のおいしさは半端でない。そして何故か知らないが10月まで食べれた。そして10月、イモ談義で紹介した安納イモ、11月は里芋、そして大根と続いた。

 畑大好き人間にとって、収穫するのは何より楽しい。だが、少量ならばという家人からの強い訴えがいつもある。ジャガイモの芽かきに悪戦苦闘、見た目では分からないタマネギの傷み具合はいつもであるが、イモ類は別の面から不当な?訴えをいただいている。いわく、イモばっかり食べなければならないので、体重が増えてしまうと。けれども、量を減らしたところで、その手間が減るわけでないとの理屈から半ば無視している。しかし、家人の作らないでという要望に応えて、定番の白菜は作ったことがない。漬け物にしない限り、沢山の白菜は処理できない。作りすぎは、畑大好き人間の宿命だと思う。お友達を増やして、お裾分けの人数を増やすしかない。

 さて、我が畑には苗木を植えてから20年以上経っているハッサクがある。高さは3m以上にもなるが、山友のEさんに助っ人をお願いし収穫した。前日には植えてから数年のハッサク(大きいのが枯れたらということで植えた)と大きいのの背が届く範囲で収穫を行った。

 大きい方のハッサク 昨年(この木だけで700個収穫)に比べるとなっていない
 この反対側に沢山なっている

 こちらが小さい方 昨年100個、今年140-個 ミカンなどでは木が若いと酸っぱいと言われるが、ハッサクはもともと酸っぱいのでわからない
 (若者は酸っぱく、熟年はまろやか? しかし、熟年を通り越した我が身は?)

 Eさんは軽トラに3.2mの脚立を載せて、参加していただいた。この高さがないと上の方は採れない。しかし、この後は、木登りである。袋を体に着けて登る。もちろん木登り用に枝はなっていないから、枝をくぐったり、アクロバティックな姿勢が時に必要となる。また、ハッサクの木は柔らかいので、ある程度の太さがないと乗れない。今年は裏年に当たるようで個数は少なかったが、2時間ばかり要した。


 収穫したハッサク 二つの木を合わせると500~600個くらい?
 このあたりでは家にハッサクの木があるところが多い。我が家ではクリスマス前後に収穫し、お正月過ぎから食べ出す。
 
 このハッサクでは幸い家人の不満は聞かれない。これから親戚、友人関係に配って歩く。このため、この時期段ボールが沢山必要となる。
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佐藤優の本を読む 19.12.21

2019-12-21 19:24:41 | 面白い本はないか
 佐藤優の前に読んだばかりの吉田裕著「日本軍兵士」についての感想等。何度も書いているが、アジア・太平洋戦争についての本を読むのは気が滅入る。負け戦だからということではなく、あるいは米軍の圧倒的な力ということでもなく、日本が歩んできた歴史、国民性にかかる負の面が一挙にこの負け戦に出ているからである。佐藤優は「日本国家の神髄ー禁書「国体の本義」を読み解く」で日本の国は天皇を中心とする祭政一致の国柄=国体であると言っている。「国体の本義」は天皇機関説が出たときに、1937年に文部省から出されたが、占領軍によりこの書は神がかり的なテキストで日本は戦争への道を歩み、破滅したということで禁書とされた。佐藤氏の理解は、国体明徴運動の結果、生まれかねない非合理的、神がかり的な観念論を阻止するために作られたというものである。しかし、政府の意思とは逆に日本の天孫降臨、万世一系の皇統を強調すればするほどむしろ神がかり的になったとも思われる。

 吉田氏の著書に戻る。先の戦争によって、日本は兵士・軍属230万人、民間人80万人の死者を出した。そして、兵士等の死者のうち、戦病死の割合が半分を遙かに超える(正確な統計はない。支那駐屯第一連隊の場合(1944年以降)73.5%にもなる。さらに、藤原彰氏(吉田氏の先生?)によると広義の餓死者は全体の61%に達するとしている(秦郁彦氏によると37%)。近代初期の戦争では伝染病などによる戦病死者が戦死者をはるかに上回ったが、軍事医療の発展、補給体制の整備などにより、激減した。ちなみに日露戦争は戦病死者の割合は26.3%である。興味深いのは、虫歯に悩む兵士(歯医者の配置が遅れた)、水虫に苦しむ兵士(この時代の国民は靴に馴れていない、さらに底が簡単に抜けるような粗悪な軍靴)そして結核である。また、体力が弱った兵士に襲いかかるマラリア、私の父親も復員してから何回か再発したと本人から聞いた。そして、内務班でのリンチ、苛酷な行軍(私は冬期の泊まりを伴う山行では15kg以上のザックを背負う。しかし、この時期の兵士は30kg、40kg以上の武器を含めたザックを背負う)により体力の弱い初年兵、予備兵等から自殺者が多く出た。日露戦争時とほぼ同じ戦力で戦った、あるいはエンジンに対し人力で戦った戦争であったと比喩される。

 佐藤優氏と片山杜秀氏の対談が「現代に生きるファシズム」。片山氏の著書に「未完のファシズム」という本がある。この本には、日本が「持たざる」国であることから、欧米のような合理的な軍事態勢ができなかったこと、また日本の政治体制は天皇を中心にその下は権力が分立しているために強力な戦時体制ができなかったことが書かれてある。持たざる国というのが、精一杯背伸びして戦ってしまったのが先の戦争なのである。ファシズムの定義は難しい。私たちは全体主義と同じものだと考えているが、実は違うようである。ファシズムはイタリアのムッソリーニに発し、言葉の意味は人を束ねることである。日本ファシズムの場合は、天皇という現人神を束ねに用いたので、国民を結集し、命を捧げさせる方向では絶大な力を発揮した。しかし、それ以外では、危機を乗り越えるための意思形成ができず、ずるずると負け戦を長引かせ、終戦前一年間で多大な被害をもたらしたのである。

 佐藤優氏の「私のマルクス」、「プラハの憂鬱」は面白かった。もちろん彼が興味を持った宇野弘蔵のマルクス経済学や神学を面白いと思ったわけではない。高校生だった時、同志社の大学生・院生だった時に登場する先生達、学生達との交流、さらには外交官研修でイギリス軍の語学研修所でロシア語を学んだ時、彼が研究したチェコの神学者が取り持つかのような亡命チェコ人との交流の数々がすごい。大学時代にチェコの神学者に興味を持ち、当時まだ共産圏であったチェコに留学したいと考えた。外交官になれば語学研修制度があるのでそれを利用するかモスクワから訪れることができるかもしれないということで外務省の試験を受けた。ここから彼の数奇?な運命は始まるのだが、その核心のモスクワ時代は読んでいないので、読んでみようと思う。
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師走に登るマイナーな山・三尾山 19.12.13

2019-12-15 14:19:16 | 山登り
 何度も書いていると思うが、大垣山協の定める美濃100山にある山を少しでも多く登りたい。既に山協の先輩たちの中は完登した人も多い。今年も終わりだから、今年の成績表を見てみよう。4月五蛇池山C級、5月滝波山C級、雨乞棚山A級、6月釈迦嶺C級、7月高丸C級、10月鷲ヶ岳B級、12月高屋山B級、三尾山B級の8山。これでA級30山は終了、B級30山は残すは苅安山(157号経由で温見峠に今年は通行止めでトライできなかった)、C級40山のうち25山に登ったことになる。

 これらの山を現在から見ると、定めた当時とは状況が随分変わってきている。C級の花房山は登山道もしっかりしているので容易に登れる。一方、昨年の台風により登山道がズタズタとなったA級の北山は、格段に登るのが難しくなった。恵那のB級の三界山も簡単なルートができたようであるが、かつてのルートは至る所で寸断されている。かつて登られたところでも、その後登山者が減ったところでは登山道はすぐに藪と化す。私の力ではE氏の協力を得ても90くらいが限界であると思っている。しかし、こうした目標を持つことは登山を趣味として持続させてきたと思う。日本百名山から美濃100山そしてぎふ百山へと続いている。

 前置きが随分長くなってしまった。三尾山(1107m)は二等三角点がある山であるが、呼び方がはっきりしていない。点の記によれば「みつおやま」となっているが、山頂にあった黄色のプラスチック支柱には「サンノーの頭」とあった。三尾は三尾谷からきている。E氏の運転する軽トラックで旧美山町神崎円原から林道終点まで来た。

林道は左手の方へまだ延びている(点の記にはこの林道を使い、私たちよりも北側のルートを取ったことがわかる)。私たちは、右の林道(この先で倒木のため通行不可となっていた)を進み、尾根に取り付いた。左側は植林地が多く、右は藪となっている。時々、残置の赤テープを見る。急な登りが続いた後、鞍部のようなところがあり、ここに鉄塔(720m付近)が立っていた。



 鉄塔から見る山頂付近
 鉄塔から右に山裾を巻くように管理道があったが、そのまま尾根を登るとだんだんと道らしくなってきた。やがて920mの稜線に出た。ここには板取側には◯王という標識が木に登山道に沿い付けてあったので、王子製紙の社有林と判断した。ここからの道も山頂近くを除けばよく整備されている。

山頂が近づくと、笹の背丈が高くなり、道に覆い被さっている。幸い短い区間だったので良かった。山頂には二等三角点「三尾山」の標柱とプラスチックの支柱があり、支柱には三尾山その裏にはサンノーの頭と書かれてあった。





30分ほどの昼食後、武芸川温泉に直行。ここは岩盤浴もあり、平日にもかかわらず随分混んでいた。

コースタイム 登山口8:30→鉄塔9:28→稜線9:54→山頂10:48~11:20→登山口12:50


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