城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

青春プレイバック・黒部赤木沢 20.7.30

2020-07-30 19:35:41 | 過去の山登り記録
 さて、このシリーズも最終回の黒部赤木沢となった。実はこの山行の記録は時間のみ残っていて、ほかはどこかに失われたかそもそも書いていないのかわからない。このため、想像で書いている部分が多くある。まずは、赤木沢に行くことになった理由は、「山と渓谷」に特集されており、特集の前かどうか不明だがU氏(北鎌、早月で一緒だった)が前年に行っていて、薦められたからである。沢登りの経験は鈴鹿の簡単な沢があるのみでないに等しいが、幸いこの赤木沢は沢登りとしては初心者でも問題がないらしい。沢登りの道具だが、現在のように沢シューズなどなく、地下足袋にわらじを着けるというのが当時の標準であった。


概略図

 詳細図(黒部川から赤木沢)

日時 昭和56年(1981年)7月31日~8月2日
同行者 U氏、K氏、G氏、S氏、I氏

◯一日目 岐阜0:20→高山4:36~4:45→有峰口5:25~5:45→折立平6:45~7:35→太郎平小屋11:30~12:15(昼食)→薬師沢小屋14:15~14:45→赤木沢出合16:40(テント泊)

 7年前(その時は薬師岳~雲ノ平~双六)に登った折立から太郎平への道。太郎平からは薬師沢に沿って、黒部川まで下っていく。そして薬師沢小屋からは黒部川本流を赤木沢出合まで遡行する。小屋から下流は黒部上廊下でベテランだけが遡行できる。小屋からは黒部川に沿って付けられた(人が通るので自然にできた道だと思うが)道、時には川の中を遡っていく。(確かテレビで山好きな俳優が赤木沢を遡行する予定であったが、この時は水量が多く中止となった。)水量は多くなく、小屋から2時間で出合に到着。出合付近の平らなところがサイト地となった。テント設営後、釣り好きなG氏が釣り竿を出したが、釣果はなく、夕食のおかずとはならなかったのは残念。

 赤木沢出合

◯二日目 出合7:20→乗越10:55~11:55→黒部五郎岳12:50→黒部五郎小屋15:05(テント泊)

今日は、いよいよ今回の山行のハイライト。この沢の石は赤みを帯びているのが特徴でとにかく空に大きく開けていて底抜けに明るい。

 休憩中 G氏再び竿を出すがあたりなし



 上の方まで上がってきた 右の写真には上部に雪渓が見えている 

 沢の水は徐々に少なくなり、岩場から草付き斜面を流れる小川のようになってくる。そして大きな雪渓の上を歩いて行く。最高のフィナーレだ!!

 上 赤木沢源頭の雪渓  下 稜線に出る 後方は黒部五郎岳

 黒部五郎山頂への登り、カールの端に立つ。ここで山頂に向かう者とそのまま黒部五郎小屋のサイト地に直接行く者とに分かれる。黒部五郎は6年前、神岡新道から笠ヶ岳を縦走したときに登ったので、2回目。山頂からの絶景を楽しんだ後、小屋へと急ぐ。

◯三日目 小屋5:15→三俣蓮華岳6:45→双六小屋8:25→鏡平小屋10:10→新穂高13:40~15:00→高山18:22→岐阜20:53
 特段の記録無し

※山の情報は何で得ていたか
 当時今のようにネットはないので、人に聞くか、アルパインガイドあるいは「山と渓谷」や「岳人」などの雑誌(若い頃定期購読していた)が頼りとなる。しかし、アルプスなど有名な山は載っているが、奥美濃などマイナーな山の情報はほとんどない。唯一、岐阜新聞(当時は岐阜日々新聞)が発行した「ぎふ百山」あるいは「続ぎふ百山」があるが、この本は歴史や伝説などは詳しく書いてあるが、登山情報は少なく、あまりあてにならない。そうすると、やはり定評のある山岳会に入会するのが一番の早道だが、厳冬期とか岩登りとかやっている会は敷居が高すぎる。今はネットで検索すればほとんどのコースが紹介されているので便利だが、経験のない者ばかりで行くようなことは低山でも時には危険である。

 これでこのシリーズは終わるが、今と比べると随分違うと思っただろうか。今回、このシリーズを書きつつ思ったことがあるので書いてみたい。若い頃色々な山に登ってきた。アルプスに登ればその雄大な景色に感動し、苦しかったことも忘れ、すぐに次の計画を考えていた。しかし、今思うのは、一緒に登ってくれた山友がいたからこそ、その感動を分かち合い、テントでは様々なことを話してきたのだと。山の歌を歌い、あるいは流行歌も歌った(U氏などは必ず「別れても好きな人」を歌っていた)。途中の中断はあったものの、今に至るまで続けてこれたのはこの楽しさがあったからこそなのだと。もちろん、たまに一人で登ることもあったが、大勢(といっても5,6人)で登る方が断然楽しい。仕事上の友もいるけれども、やはり趣味が同じ友の方が忘れがたい。年をとるにつれ、新しい友を作ることは難しくなるので、余計にそう思うのである。
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青春プレイバック・早月尾根 20.7.28

2020-07-28 12:32:36 | 過去の山登り記録
 剱に最初に登ったのは、就職した年の9月に立山、剱から欅平と昭和51年8月に剱に登り長次郎谷に下ったのが2回目、そして3回目が早月尾根から登った。私の知っている人でも結構な人が剱に通ったと聞いている。こちらは剱の岩場に通ったという話であり、おじさんの一般登山者のレベルとは全く違う。いずれにせよ登山愛好家なら一度は登ってみたい秀峰であるが、今は登山者が多すぎて時間待ちを強いられるし、ヘルメットもいつからか必要となった。

 あらかじめお断りしておくと早月尾根の写真がほとんど残っていない。数年前に整理した時に良い写真以外は破って捨ててしまったことから、良い写真がなかったことになる。天気が悪く撮れなかったのか、無精だったのか今となってはわからない(記録を見ると天気は良かった!)。それでも黒戸尾根を一回目に書いたこともあり、このシリーズにいれることにした。どうかご理解をいただきたい。なお、初日の伝蔵小屋とあるのは、現在の早月小屋で当時の名前。

 概略図

日時 昭和55年(1980年)9月13日~15日
同行者 U氏、K氏、S氏、M氏

◯一日目 上市6:10→馬場島7:40→避難小屋11:30~12:30→伝蔵小屋13:20
 馬場島で腹ごしらえし、長い尾根の登りに一歩を踏み出す。見上げると首が痛くなるような登りが続いているが、登山道は良く整備されている。立山川がはるか下に見える。20分ほどで松尾平となり、前、奥と続く。この尾根の中では最も緩やかな登り。この後本格的な登りとなる。天気は曇りで暑くないが、汗がしたたり落ちる。30~40分毎の休憩を楽しみにひたすら登る。標高200m毎に道標が立っている。2000M付近に石造りの避難小屋があったが、使用は難しそうだ。ここでお昼の休憩。
 ここから伝蔵小屋までは1時間弱、小屋の手前で剱の本峰が初めて見えた。大日岳の稜線が右の方に見えている。小屋はこぎれいでテント場も良く整備されていた。水は天水で小屋から買わないといけない。設営後、にわか雨が何度かテントを襲った。

 テントを設営するおじさんとS氏、それを見守るU氏
 当時はまだ三角屋根のテントが主流であった。これは会のテントで5~6人用。
 個人的には既にドーム型の3人用のテント(ポールはグラスファイバー)だった。

◯二日目 小屋5:55→剱岳8:55~10:30→剱沢
 4時前に起床し、すぐに朝飯ーうどんと餅ーの用意。今日は快晴だった。こかから山頂まではまだ800mの登りがあるが、目的地は剱沢なのでゆっくりと登れば良い。既に低木帯に入っているので、展望は最高。左手に大窓、小窓、池ノ谷、右手に東大谷、大日岳を望みながらの登り。右手はるかに室堂が見えてくると2600mの道標に達する。既に森林限界を越え、岩稜の登りとなってくる。夏にはお花畑であったところを過ぎると鎖場が随所に現れる。本峰に立つ人が見えるようになると一ピッチで頂上に到着。 
 頂上は既に登山者で一杯で、特に女性が多いのには驚いた。山頂からは北アルプスをは始め多くの山々が眺望できるのに加えて、あまりの上天気ということもあり、ここで大休憩となった。下りにかかるとあまりに多い登山者のためカニの横ばい付近は大渋滞となる(現在は確か登りと下りに分けられていると聞いたが)。時間待ちを数回繰り返して、前剱、一服剱と下っていく。

 剱沢の雪渓も今はわずかに真砂沢付近に残るのみとなっている。三田平ではテント、フライを乾かし、人間様もトカゲのように日光浴。夕食のカレーを済ませると、U氏、M氏、K氏は酒盛りを始める。S氏はすでに高いびき。私は寒いので、シュラフに潜り込む。外は満天の星、明日もまた快晴のようである。

◯三日目 剱沢→雄山→室堂10:40→富山16:23→岐阜21:03
 三田平から別山乗越へ、4年前に重荷を背負って登った道である。剱御前小屋から別山を経て立山に向かうが、S氏が膝を痛めたらしく早く歩けなくなった。日本海側から風が強く吹いている。大汝の登りはつらかったが他はハードなところはない。雄山まで来ると、登山者の足回りは、ほとんど運動靴となり、ザックもうんと小さくなる。老人や団体様も多くて、皆雄山神社の札と鈴を付けている。ここが3000mの高所だとはにわかに信じがたい。さらに一ノ越からは街の歩道と区別がつかないくらいだ。

 雄山神社にて S氏とおじさん

※黒戸尾根と早月尾根登り比べ
 裏銀座のブナ立て尾根(烏帽子小屋から高瀬ダム)と合わせて確か三大急登と言った。ブナ立て尾根は2回とも下りなので比較はできないが、やはり黒戸尾根の登りがこの中では一番の登りだと思う。

※※S氏のこと
 彼とは一時期よく遊んだし、下宿にもよく泊まった。東濃地方の出身で技術者。少し人を食ったところもあるが、ユニークな性格だった。文章を書かせると意味のわからないことを書くこともあった。アルコールには弱く、飲むとすぐに寝てしまった。かれが結婚してからは、年賀状くらいのやりとりですっかり疎遠となってしまった。 
 
※※※登山用衣服の変遷について
 登山用パンツ ニッカーポッカー(私が買ったのはウール。夏は暑いがほとんどこれ一枚で四季を通じてOKだった)
        →ジャージー(夏山ではこれが主になった、軽い、すぐ乾く)
        →今はファイントラックやモンベル製のパンツ、さらにヤブや沢ではワークマンのパンツ(1900円)
 登山用シャツ シャツもウール製のいわゆる山シャツ→夏はTシャツ まだ速乾性のシャツは少なかった、今でも夏用の薄い生地のウール製もある。
        おじさんが参加した登山ツアーでガイドが着ていたウールのシャツをしめして、「これ3日間着ていてもくさくならないのですよ」と。
        でも遠征隊でもないからやっぱり着替えしたいですよね。
        今はアルプスに行くときはまずファイントラックかな。汗を大量にかいてもすぐ乾く。しかし、ヤブ山では生地が薄いので不可。
 アンダーウェア かつては夏は木綿製、雪のあるときはウール、今は速乾性の下着。やはりファイントラックはお薦めかな。 

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青春プレイバック・北鎌尾根 20.7.26

2020-07-25 17:28:04 | 過去の山登り記録
 皆さんは新田次郎の書いた「孤高の人」という本を読んだことがあるだろうか。この小説の主人公は実在した加藤文太郎という登山家、最後は厳冬期の槍ヶ岳北鎌尾根で遭難死してしまう。この小説を読んだ者ならば、北鎌尾根という名前は登山愛好家にとって特別な存在である。槍ヶ岳には、東鎌尾根、西鎌尾根そして北鎌尾根(南側は穂高に続く3000mの稜線)がある。昔は表銀座コース(比較的やさしい)燕岳から大天井岳を経由して東鎌尾根から槍ヶ岳に至るコース、そして裏銀座コース・槍ヶ岳から西鎌尾根を経て双六岳、三俣蓮華岳、鷲羽岳、水晶岳、烏帽子岳がポピュラーなコースだった。しかし、北鎌尾根から槍ヶ岳への道は一般ルートではなく、しかも起点となる千天出合(千丈沢と天上沢の合流点)までの道のりが遠く、ベテラン向きとされている。このコースに昭和54年(1979年)8月11日~13日ベテランT氏の先導により登った記録である。


 概略図 私たちは、飛騨側から鎗平、千丈乗越(西鎌尾根)を経由して、長い長い千丈沢を下り、千天出合に到着
 北鎌尾根へは、今は水俣乗越(東鎌尾根の末端)から入ると聞いた

 東鎌尾根から北鎌尾根(昭和50年11月) 季節が全然違うが形の良さは変わらない

◯一日目 白出6:30→滝谷出合7:40→鎗平8:45→水場9:45~11:00→西鎌分岐11:45→千丈乗越12:30→千天出合16:20
 前日、新穂高に入り、白出で仮眠。滝谷出合で朝飯、槍平の先の最後の水場で昼飯、ホエーブス(ガソリンコンロ)のピンが紛失し、時間を取られる。西鎌分岐で槍の肩(山荘)にあがる道と分かれ、左側の西鎌尾根にトラバース気味に登る。千丈乗越でT氏の知人に会った。彼は、穴毛谷から笠ヶ岳に登り、双六から西鎌尾根で登ってきたとのこと。乗越から一路千天出合まで下るのだが、硫黄岳の尾根が切れているところが千天出合だから大変な距離である。雪渓のなくなった地点から北鎌側を巻くように「宮田新道」が続いているが、利用者が少ないため相当荒れている。途中から沢の石の上を下っていく。3時間半の下りでいい加減疲れたころ、出合の吊橋に到着。その吊橋はいまにも壊れそうでここを何とか渡りきる。出合は予想に反して狭くて陰気くさく、まともなテント場すらない。整地してなんとか場所を確保する。夕食のあとすぐに寝たが、沢が近くてその音がすごいのには悩まされた。

 へっぴり腰で出合の吊橋を渡る

◯二日目 出合4:20→北鎌沢出合6:30→北鎌沢コル8:40→槍ヶ岳15:00→南岳サイト地17:40
 2時半起床。出発して30分ほどで道が分からなくなる。左岸の方に道がついており、その手前に朽ちた吊橋がある。飛び石伝いに対岸に渡る。北鎌末端の取付きはここらしい(私たちはもう少し上の北鎌沢から取り付く)。左岸をどんどんさかのぼっていくと、やがて水が伏流し、沢が開けてくる。ケルン、レリーフもあり、ここが北鎌沢出合で、槍の穂先が東鎌と北鎌の合流したところに見えている。
 北鎌沢出合からしばらく登ると左俣と右俣に分かれる。左俣は上部に雪渓があるらしく水量が多い。私たちの登るのは右俣(一般ルート)、水量は少なく、合流点のすぐ上が最後の水場となっている。急な道を喘ぎながら登るが、コルは見えているのになかなか着きそうにもない。大岩を乗越すあたりから草付きの斜面に変わった。燕岳の稜線から出てきた太陽に照らされて、大汗をかく。傾斜が緩くなり、やっとのことでコルに到着。T氏、U氏は既に到着し、お待ちかねの様子。ここまでで遭遇したパーティは4組、なかなかの盛況のようだ。
 コル付近は、まだ森林限界に達していなかったが、少し登っていくと岩尾根となってきた。ここからが北鎌尾根のハイライトとなる。独標は千丈側を巻いていく。このコース全体に浮き石が非常に多いので注意が必要だ。巻き道は独標の少し先に出てくる。独標から大して登りはなく、小ピークをいくつも越えて行く。途中聴覚障害者のグループに会う、重そうな荷物を持っており、P2から登って来たらしい。安全のためか全員がヘルメットをかぶっている。登り方が少し強引で盛んに小落石を繰り返している。
 北鎌平がどこだったかわからないままに、槍の穂先の最後の登りとなった。

 北鎌平?付近から
槍の山頂に二週間を経て再び立った。山頂は人で一杯で、まさにこぼれんばかりの盛況だ。

 左からU氏、T氏、おじさん
山荘に少し寄った後、南岳に急ぐ。大喰岳にさしかかる頃、夕立がやってきた。中岳の山頂にテントを張ることも考えたが、小屋のビールということで南岳まで行くことになった。

◯三日目 南岳5:00→北穂高岳7:25→穂高山荘9:30→白出11:50
 シュラフ持参でないおじさん以外の二人は朝方相当寒かったようだ。常念岳方面からのご来光を見ながら、キレットを下っていく。キレット、北穂高、涸沢の登降は北鎌以上に緊張を要する箇所があるが、整備が行き届いていて不安はない。

 北穂高から槍を展望
穂高山荘前はかなりの賑わいで、山頂に登るためにはかなりの順番待ちがありそうなので、山頂はパスし、白出沢を下ることにする。このルートは急で登りには使いたくないと思った。新穂高では、この夏開設されたばかりの浴場に入り、やっと一息ついた。 

※T氏のこと
 この時、T氏は我が会の会長だった。若いときには冬の槍穂縦走、県岳連ヒマラヤ遠征にも加わったベテラン。養蚕の専門家であったT氏は、国内では衰退産業となっていたが、発展途上国では必要とされた技術を退職後移転する仕事に従事した。この山行時50代だったと思うが、スタミナ、食欲もすごかった。ただ下りのバランスはかなり悪くなっているようであった。

※※新田次郎のこと
 新田次郎といえば、一番有名なのが「八甲田山死の彷徨」の原作者で、映画化されたこともありよく知られている。その奥さんが藤原ていで「流れる星は生きている」は満州からの壮絶な引き上げを描き出す名著。そして、次男の数学者藤原正彦、一時期「国家の品格」が大ブレークした。私は初期の頃の「若き数学者のアメリカ」、「遙かなるケンブリッジ」が面白いと思った。

※※※千丈乗越で会ったS氏(T氏の知人)のこと
 S氏はこの年の年末年始を使って単独で槍穂縦走に挑んだ。南岳からキレットに下るところで滑落し、滝谷方面に落ちた。落ちる時の声を聞いた登山者がいた。彼の捜索のため、岐阜の登山クラブが参加し、確か2回目か3回目の捜索で雪の中に埋まるSが発見された。たまたまその捜索に参加したのが、おじさんを藤内壁につれて行ってくれたA氏。今も鮮明にその話を思い出す。  

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青春プレイバック・甲斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳 20.7.24  

2020-07-24 20:05:38 | 過去の山登り記録
 いつもの夏であれば、昔の山ともM氏と薬師岳へ出かけるはずだった。ところが、新型コロナはこのささやかな計画を打ちくだいてしまった。そこで、おじさんが20代、30代のころの印象に残る山登りをシリーズで紹介したい。今日は、昭和49年(1974年)9月14日~16日の黒戸尾根から甲斐駒ヶ岳・仙丈ヶ岳を昔の記録と写真により紹介したい。2回目は昭和54年(1979年)8月11日~13日の北鎌尾根、3回目は昭和55年(1980年)9月12日~15日早月尾根、そして最終回が昭和56年(1981年)7月31日~8月2日黒部赤木沢をそれぞれ紹介したい。今から46年~39年前の記録、昔主流?だった衣類、靴、テントなどに注目して欲しい。山登りは大学生時代に少しづつ登り始め、職場のさほど活発でない(もちろん入ってみてわかったことだが)クラブに加入し、30代半ば頃まで登った。夏を中心にアルプスに年に2回程度出かけていた記録のうちの一部である。

第1回目は、黑戸尾根から甲斐駒ヶ岳(2967m)に登り、北沢峠から仙丈ヶ岳(3032m)そして峠まで戻り、丹渓山荘からは戸台まで長い河原歩きのコース。今なら戸台から北沢峠まではバスが乗り入れている(今年は新型コロナのため運休中)。特徴は黒戸尾根の長い登りで始点となる駒ヶ岳神社の標高が780mほどだから山頂まで標高差約2200mの登りとなる。第3回に書く予定の早月尾根は、始点の馬場島から剱岳山頂まで2234mの標高差だからほぼ同じくらいの長時間コースである。以下は、当時残した記録を忠実に再現したい。


 概念図

日時  昭和49年9月14日~16日
同行者 H氏、M氏
記事 
 岐阜駅発0時26分→塩尻(乗り換え)→韮崎
◯一日目 駒ヶ岳神社8:45→7合目サイト地16:20 天気曇り
 駅近くの山交タクシー乗り場から同乗者1名を加えて、竹字駒ヶ岳神社へ向かう。神社の手前で降り、登山者名簿に記入後、荷物を整え、8時45分出発。神社に参拝後、すぐに吊橋を渡り、通称十二曲り、15分ほどで尾白渓谷道との分岐、ひたすら尾根道を登る。花崗岩の白ザレが露出したところを過ぎるとすぐに水場があるかゆ餅石に到着。さらに15分で笹平に11時30分到着し、ういろを食べる。広い道を1時間ほど登ると難所の刃渡りに着くが、短いので問題はない。この後ハシゴとなり、ペースが作れなくなり疲れる。かなりバテてきている。

 刀利天狗を過ぎると、緩やかに右手の山腹を巻くようになれば少し下ると5合目小屋に14時50分到着。途中で聞いた話によるとここの名物小屋番が倒れたとのこと。今日のサイト地をここにするか、7合目にするか迷うが、明日のことを考え7合目まで行くことにする。少し下った後、屏風岩をハシゴで登る、四つ足での登りがこの後も続く。5合目から1時間で7合目着。サイト代(150円×3人)を払い、小屋のかなり上の方でテントを張る。寝不足もあり非常に疲れた。M氏に水を小屋までとりに行ってもらい、H氏と夕食の準備。釜飯、コンソメ、漬け物、酒、つまみ。夕食後すぐに寝た。

◯二日目 7合目サイト地6:10→甲斐駒ヶ岳8:15→北沢峠11:15→仙丈ヶ岳サイト地16:00 天気朝のうち曇りのち時々雨
 4時起床、昨日炊いておいた飯でかに玉雑炊を作る。サイト地からご来光を見るが、一面雲ノ中。

 6時10分出発、きつい登りだがぐんぐん高度を稼いでいく。30分でご来光場到着、そこから一旦下り、再び急な登りが始まる。次第に登りが緩やかになると稜線に達する。摩利支天、駒津峰への分岐にザックを置き、山頂へ。山頂はガスのため何も見えない。


 中央がおじさん 左がH氏、右がM氏 当時の標準的なスタイル ニッカーポッカーを3人ともはいている

 8時45分山頂出発、花崗岩のザラ場をぐんぐん下る。右手に切り落ちた痩せ尾根で遭難碑のある場所で休憩、その時ガスの中から最初で最後の駒ヶ岳の全容が見えた。少し登り平坦な尾根の道となり、双児山10時10分着、1時間ばかりで北沢峠着。お昼は餅入ラーメン。12時45分峠出発、ガイドブックに寄れば藪沢新道を登るのが一番楽なようなので、このコースに決める。峠から少し下り、大平小屋の側を通り、緩やかな登り、20分ほどでこのコース唯一の急な登りとなるが、再び緩やかとなる。沢を右に渡り、ここから馬の背ヒュッテ近くまで沢を左に見ながら登っていく。ヒュッテ14時55分着、30分休憩して、馬の背を経て、仙丈カールの中のサイト地に着く。水場はすぐそばだが、にわか雨が時々やってくる。M氏のポンチョを借りて、仮のフライとする。テントの中で夕食の用意、カレー、キュウリ、シーチキン、漬け物、酒。その後、恋や仕事、山の話を語り合った。

◯三日目 サイト地6:35→仙丈ヶ岳7:20→サイト地7:45→大平小屋9:00→丹渓山荘10:05→戸台12:00 雨が降ったりやんだり
 4時起床、昨日と同じように餅入雑炊を作る。テントを撤収していたら雨が降り出す。6時35分空身でサイト地を出発し、仙丈小屋の前を通り、しばらく急な道を登っていく。7時20分山頂に着いたが、何も見えない。サイト地に戻り、大平小屋までかなりのスピードで下っていく。丹渓山荘から河原の道をH氏がコースレコードを作るとか言って、猛烈に飛ばすが、途中でそれもあきらめたようだ。戸台からのバスは乗客ぎゅーぎゅー詰め状態で伊那まで立ったままだった。

 丹渓山荘前で休憩 今はこの山荘はない

※H氏の思い出
 彼とはこの後2,3回一緒に登った。信州出身で高校時代サッカーをやっていて、体力抜群だった。退職後ほどなくして亡くなったことは残念だった。

 翌年6月初めH氏登った槍ヶ岳 山頂から穂高方面

※※M氏との思い出
 彼とは何回も二人で出かけた。そして、退職後何年かたって、白馬岳を皮切りに夏、秋に登り始めた(今年はコロナで中止)

 翌年11月初旬 大天井岳から見る朝の槍ヶ岳 当時のカメラはペンタックス

※※※夜行列車
 当時、長野方面に登山、スキーで行く場合、夜行列車を利用することが多かった。大糸線にも栂池という急行列車が乗り入れていた。5時間くらいで目的の駅に着くので、特に登山の場合は列車中で少しでも眠ることが一大関心事だった。合い向き合いの直立の座席のためここでぐっすりと眠ることは難しいので、座席の下に新聞をしいて寝たことも何回かあった。そのうちに長野方面への夜行列車はなくなり、こうした登山をすることはできなくなった。

 以上が46年前の記録だが、今から見ると高山植物のことが全く出てこない。季節が9月中旬なので、仕方がない面もあるが、他の夏山の記録を見ても同じである。当時、花などには全く興味がなかったことがうかがわれる。そして、北沢峠を通る南アルプススーパー林道はこの頃環境問題で大いに揺れていた。1976年11月に鳳凰三山と早川尾根に登り、再び戸台まで河原を歩いた。1980年に北沢峠の山梨県側が開通し、その後バスで峠まで来れるようになった。昨年、7月に仙丈ヶ岳と甲斐駒にこのバスを利用し登った(もしバスがないのなら計画しなかったであろう。昨年のブログをご覧いただけると嬉しい)。文才が当時からなかったせいか、あとの3回も同じような調子の文章となっているが、良ければ読んで欲しい。
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夏のバラ 20.7.22

2020-07-22 19:41:03 | バラ、クレマチス等
 ついに揖斐川町でも新型コロナウィルス感染者第一号が出たらしい。お隣の大野町でも感染者がでているのだから、不思議ではない。今日は8時から財産管理委員会(財産区)が管理する城台山公園広場の草刈りがあるので、朝の収穫も早めに切り上げた。今年6個目のミニスイカ2.4kgと初の大玉とは言いがたい3.2kgを収穫、さて大玉のお味は?1時間半ほど草刈りをし、いつもの喫茶店に再集合。談笑とモーニング目当てのお年寄りグループで混んでいるが、ほとんどマスクなどしていない。大丈夫かなとは思いつつ、こちらでも談笑。(財産区についてはいずれ記事にするつもり)

 天気が悪いとなかなか庭の手入れも出来ない。この時期、株のまわりの雑草と落ちたバラの葉が地面を埋め尽くす。春のバラはほぼ5月中には終わるが、その後も少しづつ咲き続けるものもある。特につるバラは咲き続けるが、新葉が出ると古い葉はほとんど落ちてしまう。

 2階から見るつるバラ 秋は基本的には咲かない

 夏のバラ イングリッシュローズが多い まだ葉がたくさんついている

 6月上旬に追肥をしていて、今年の夏のバラは例年よりも多く咲いている。そして、定期的に消毒(特に黒点病予防のため行っているが、それでもかかっている葉も見られる)しているせいかもしれない。しかし、花は小さいし、花もちもきわめて悪い。

 イングリッシュローズ

 イングリッシュローズ

 デルバール この品種は夏にも強そう

 デルバール 

 梅雨が明けると今度は厳しい暑さとの戦いとなる。なにせ、このあたりは全国でも有数の暑いところなので、バラには過酷だと思う(人間様はエアコンの効いた部屋に避難できる)。四季咲きだと8月にも咲くが、こちらの花はさらに貧弱なので、花ごと剪定するか下旬から上旬にかけて夏・秋の剪定を行って、追肥を行い、秋の花に備える。しかし、春のように一斉に咲きそろうことはないが、色は鮮明で花もちもぐんと良くなる。うまくいくかどうかは、株にできるだけ多くの健全な葉を残すかどうかである。
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