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城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

イザヤ・ベンダサンを知っていますか? 20.9.30

2020-09-30 17:34:03 | 面白い本はないか
 明日から10月、登山にも読書にも良い季節となった。そして、庭木の剪定を少しずつ行う予定である。新聞によると、今年ドングリは不作と書いてあったが、城台山では大きなドングリを見ることができる。不作だと熊が食料を求めて里まで下りてくる危険性が高まる?

 
話は変わるが、時々スマホでヤフーニュースを見ていて今という時代が大きく変わりつつあるような気がする。韓国、中国に比較的好意的な論調のレポートが出ると、コメント欄は嫌韓、嫌中で一杯となる。また、政府側を批判するレポート等にはやけに政府特に安部さんや菅さんの肩を持つコメントがつく。東京新聞の望月記者の菅さんに対する質問をめぐる政府側の対応については記者に対する厳しいコメント満載となる。こうなると政府を批判しようとする論者は、これらのコメントにさらされることを覚悟する必要があるので、発言を控えるようになってしまう。そうなると、政府は批判できない存在となってしまうのではないかと危惧の念を抱く。

 ところでイザヤ・ベンダサンという名前を聞いたことがあるだろうか。1970年代始め頃、「日本人とユダヤ人」という本が出され、ベストセラーとなった。その著者が通称日本育ちのユダヤ人ということだった。当時こうした日本人論は結構盛んだったので余計に注目を集めた。その本には、「日本人は空気でものごとを決めてしまう」「日本人の宗教は日本教」そして特に有名になったのが「日本人は水と安全は無料だと思っている」という名言だった。このユダヤ人探しが行われ、この本の訳者でしかも発行元の山本書店店主である山本七平であることが明らかとなった。今回別の本を読んでいたら、その本でこの著者の書いた「日本人と中国人」(この本の著者はイザヤ・ベンダサン)が引用されていたことから、このあとその本、「日本人とユダヤ人」(以前によんでいるはずだが、記憶にない)、「下級将校の見た帝国陸軍」(再読)、東谷暁「山本七平の思想ー日本教と天皇制の70年」を読んだ。そして今「現人神の創作者たち」(上下)のうち、上を読み終えた。この最後の本は、江戸時代の儒者及び中国の儒者等の引用が半分程度あり、その引用にいちいち解説が付されているわけではないので、おじさんにとってかなり難しい。わからないところは飛ばし読みをして、やっと半分を読んだ次第だ。

 七平は、1921年に生まれた戦前派で1991年に亡くなっているが、東谷の本によると、七平の著作や言動は古びること無く、日本人の性格や日本の社会の本質をあぶり出す鋭利な評論を親しみやすい表現(おじさんには親しみやすくないが・・・)で展開した。彼は、生まれた時にはすでに教会のなかにいたという環境の中で育ち、その親戚に大逆事件に連座し、処刑された人物が親戚にあった。こうした境遇が彼をアウトサイダーとして、あるいは日本文化と外国文化との境に立つマージナルマンとして生きてきた。そして、学徒出陣により、フィリピンに送られ、絶望的な戦況の中で生き残り、捕虜となったこの経験はさらに日本とは日本人とはという疑問を深める経験となった。日本人が絶えず口にする「人間」「人間的」「人間味あふれる」といった人間という言葉を基準にした一つの律法があるはずで、日本人とはこの宗教を奉ずる一宗団。この宗団の名は「日本教」で、人間学はあるが、神学はない一つの宗教である(以上「日本人とユダヤ人」から)。


 コムラサキ ムラサキシキブ属 名前が素晴らしい

 おじさんは日本が中国を相手に戦争をしたわけだが、この理由がいまだによくわからない。満州国の承認、排日停止等々、既得権益を守るため、まず華北に侵攻し、しまいには中国全土に戦域を広め、さらに仏領インドシナに侵攻し、さらにはアメリカ、イギリス等相手に戦争を始めてしまったのだが、その初めの日支事変の意味がわからない。満州なら資源はあったが、中国には人は多いが資源は少ない。そして、中国と和平する機会は何度もあったが、これができなかった。このことを「日本人と中国人」は次のように説明する。すなわち、日本人には「交渉」という概念がなく。中国に対しては常に条件をつけて、イエスかノーかを迫る、ひとたび押し切ると次々と条件を加重してくる。条約よりも国民感情が優先される(今の韓国みたいといったら言い過ぎか。おじさんは嫌韓でないが、さすがに最近はこれを維持するのが難しくなった。)。

 中国が日本を処理する場合、最後に使う手は、アメリカであり、これは蒋介石でも周恩来でも同じである。日本人はゴボウ剣(昔タンスの奥にこの剣があった。銃に着ける剣。)をぶら下げて勝手に中国に居座り、押せども突けども、梃子でも動かない。その理由がわからない、そろばん勘定?論理?。業を煮やした蒋介石がアメリカに手を伸ばして背後から日本人の襟髪をちょっとひっぱってもらった。東条、浪速節宰相たちまち血相を変え、「中国からの撤兵だけは絶対に応じられない」とのたもうた。これが真珠湾につながり、日本人を狂喜させた。戦後の日本は戦前の裏返しで、中国に対して顔を向けようとしない。業を煮やした蒋介石のかつての同僚周恩来がニクソンを北京に呼び、結果として日本の背中を押してもらった(本当だろうか。もし、そうだとしたら、中国恐るべしとなり、日本人などとても対抗できないと思ってしまう。)。

 確かに戦前の軍は一体何を考えているのかわからないところがある。このあたりのところは、次回に回したい。中国の明が滅び、自分たちが北狄と呼んでいた遊牧民族が清を作った。この時、李氏朝鮮はわれこそ「小中華」だと名乗り出た。このあたりまでは知っていたが、この時に日本も「本当の中国」だと主張した儒者がいたことを知らなかった。この辺のことも次回で書くことができたら(できるかな?)と思っている。


 
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恵那山 20.9.27

2020-09-28 06:28:26 | 山登り
 恵那山(2191m)は岐阜県の東端にあるが、西濃地方からでも比較的容易に見ることができる。そして、登山路はかつては岐阜県側の中津川市川上(かわうえ)地区黒井沢、神坂峠からがメインであったが、岐阜県人としては残念なことに今やほとんどの登山者は園原IC経由の広河原から恵那山を目指す。この恵那山の歴史は古く、天照大神の胞衣から胞衣山(えなさん)と古くは呼んでいたとの伝説があるほか、別名も多くある。また、古くから修験道の霊山として登られていた。記録を見るとこの山には昭和56年5月に黒井沢から仲間4人で登っている。この時の印象はあまり強くなく(むしろ悪い方、展望がない、小屋もボロボロ等々)、岐阜の山なのにこれ一回きりとなっていた。

 さて、当初この日は岐阜と富山の県境にある人形山に登るつもりであったが、日本海側の天気が悪いとの予報があったので、天気が良さそうな恵那山に金曜日に変更した。最近山の天気は「てんきとくらす」の行楽地の天気予報を参考にすることが多い。自宅を5時少し前に出発し、まずEさんをピックアップし、羽島インター付近でYさんを拾う。(おじさんの今の車は荷物があると3人しか乗ることができない(どうでも良いことだが))。中津川付近では工事中で対面で走った。昔、恵那山トンネルが一本だったとき、はやり対面で40km制限、通過に20分以上要した。園原インターで降り、本谷川をさかのぼり、広河原登山口の手前の駐車場に車を駐車、すでに沢山の車で満杯状態だった。

 林道歩き出発点 トイレがあった

 まずは峰越林道を30分ほど歩く。古いガイド本(岐阜の山旅100コース)には小さなトンネルのすぐ先の登山口付近に車を停めてなっているが、おそらく百名山ブームにより増加した登山者に対応して、ずっと手前に駐車場が設けられたものと考えられる。登山口と書かれたところから一旦河原に降りるとそこに木橋がかかっている。そこを渡ると本格的な登りとなるが、よく整備されていて歩きやすい。登山口から300mごとに1/10から9/10の行程をしめす指導標がある。4/10を過ぎると笹原の多い斜面の緩やかな登りとなる。ここからが結構長かった。早朝に出発したのかそれともトレランなのか下ってくる登山者が大勢いる。さらに加えて、何組かのパーティには先を行ってもらう。

 林道終点 広河原登山口 標高1253m

 本谷川を渡る 帰りに撮影





 4/10 標高1710m 9:25

 笹の中を登る 9:39

 同上 9:49

 山頂方面を望む 10:10

 岩の多いところ  10:16

 山頂の近くのドウダンは紅葉が始まっていた。

山頂には既に多くの登山者が昼食をとっていた。





 恵那山神社本社とある 祭神はいざなぎ、いざなみ 付近には多くのこのような小社があるようだ

今回恵那山初めてのYさんは空身で避難小屋のある最高地点まで出かけた。残りの二人はゆっくりと昼食、運転手のおじさんはノンアルコール。最近これで十分満足できるようになった。展望台に登っても展望は利かないようだ。そのうち駐車場で一緒だった小学生3人連れの二家族が登ってきた、子どもは疲れた顔さえしていない。登りは景色を十分楽しむこともできなかったが、まわりを見ると唐松が少し色づいている、さらに白樺が結構あったこと、伊那谷は良く見えているが、その対岸の南アルプスは厚い雲に覆われていた。ゆっくりと下ったせいか、意外と時間がかかり、駐車場の車は随分少なくなっていた。向かいのワゴン車の隣にはテントが二つ張られ、食事の準備中のようであった。ナンバーは多摩、明日恵那山に登るという(この人たちも百名山を目指しているようだ)。

 伊那谷を望む 南アルプスは雲の中

 「小さい秋みつけた!」

コースタイム 駐車地7:50→登山口8:10→山頂11:13~12:15→駐車地15:05



 

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彼岸の中日 20.9.22

2020-09-22 19:34:50 | 地域のこと他
 今日は彼岸の中日だが、前日にお墓参りは済ませた。今日は、いつもの城台山散歩の帰りに父親の骨を分骨して納めた一心寺の一角にある納骨堂の重い扉を開いて合掌した。我が家の墓は家の近くの寺にあるが、ここも一心寺同様宗派は浄土宗で、我が家は浄土真宗大谷派(いわゆるお東)だからお墓だけの檀家(墓檀家と言っている)となる。普通お中日には一心寺が所蔵する地獄絵図が公開されるが、今年はコロナのこともあり公開は中止となり、そのせいか参る人も少ない。自宅にいても一心寺の鐘は聞こえるが、訪れる人が少ないため、普段の間断なく聞こえる鐘も聞こえてこない。

 住職はお彼岸には岐阜から通ってくるはずだが、来ていなかった

 実はこの地獄絵図、子どもの時に見た印象は強烈だった。母親に地獄に行かなくてもいいように懇願したことを覚えている。しかし、大人になって見る絵は当たり前の話だが、少し古ぼけて全く怖くなかった。仏教には「草木国土悉皆成仏」という言葉があり、人間、動物はもちろん草木や石に至るまで成仏できると説く。そして我が浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば悪人も成仏できると説く。そんなある意味「日本仏教」だから地獄といってもキリスト教のような厳しい来世(最後の審判により天国か地獄行きかが決まる)ではなく、あくまでも戒めのためのものだと「修験道という生き方」(自然信仰・修験道20.9.10で紹介)に書いてあった。

 これも祖先信仰の話を書いたが、人がなくなるとその魂は近くの山にとどまる。そして個別の霊から共同体集団の霊になっていく。このように考えると、お墓とは一体何なのだろうか。「千の風」の歌詞にもあるとおり、お墓にはなくなった人はいない。江戸時代を描いたドラマを見ていると、庶民が死んでもただ自然石など墓標が残るのみである。上流社会では古くから墓所が作られ、それが社会が全般的に豊になってくると庶民まで墓を作るようになったということなのか。山にとどまる霊に対してお祈りするのは相手があまりに漠然としていてかえって難しいので、墓石があればお参りするのも簡単なような気がする。そして今一つ気にかかるのは、墓は一般的に「◯◯家先祖代々」などと刻まれている(もちろん個人毎に建てられることもあるかもしれないが)。これだと嫁に来た女性などは死んでからも仕えなければならないかと思うかもしれない。アメリカやヨーロッパなどは墓は個人毎に作られるのか家毎に作られるのだろうか。

 我が家の墓はこの寺にある 後方の石垣は古い時代の遺構らしい

 前方の墓は比較的新しく分譲されたもの お寺の本堂の裏手には古い時代の墓石がある

 家を継ぐ者がいなくなるとお墓を管理する者がいなくなる。今役員をやっている財産管理委員会が所有する墓地にも参る人がいなくなった墓が散在する。本来なら墓じまいをし、設定されていた永代使用権を放棄してもらうのがルールであるが、費用も手間もかかるのでここまで行う人は多くないと思われる。人口が減少する社会では空き家とともに無縁墓がどんどん増えてくる。我が家の墓は少し急な階段を登ったところにあり、数年後にはここにお参りすらできなくなるかもしれない。そして、我が家は二つの寺の檀家となっている。男と女で法事や葬式の時に呼ぶお寺が違っている。どちらかのお寺の檀家を止めたいと思っているのだが、なかなか実行できない。

 今日はおじさんの母親の97歳の誕生日(このことが本人に理解できたかはわからない)だった。そして、一宮に住む叔母(95歳)が亡くなったとの知らせを先ほど受けた。

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揖斐川にあゆ太郎さんを訪ねる 20.9.20

2020-09-20 19:12:56 | 地域のこと他
 11月に予定されていた高校の同窓会がみたび延期された。当初は今年の4月下旬に開催するはずであったが、まず11月に延期され、そして来年に再延期となった。高校の同窓会ばかりでなく、年を重ねると若い頃は興味がなかった同窓会がやたらと恋しくなる。このせいか従来の5年毎が3年毎はては毎年(幹事の苦労が大変なので実現することは少ないが)になってくる。今回の高校の同窓会は全員が70歳になった時期に開催することになっていた。

 わたしたちは、高校の同窓生を「あかね19(ナインティーン)」と呼んでいる。あかねは校歌に由来し、19は新制高校となった19期生を表す。このあかね19は、その同窓生のための掲示板をネット上に立ち上げている。この掲示板のことを知ったのは、創設されてから数年後のことだったように思う。そして、その掲示板に暇に任せて投稿するようになった。今のブログの前奏となっている。ここで、メンバーの数名がハイキングで夜叉ヶ池を計画していることを知った。しかし、その日は都合が悪く、帰りに自宅に寄ってもらうよう掲示板に書いた。驚いたことにその日の午後メンバーの訪問を受けた。このメンバーの中で高校時代から知っていた人は女性の一人だけだった。

 このあと、年に一、二回行われるハイキングに参加するようになった。そしてハイキングのあとは飲み会へと続き、ここにはさらに新たなメンバーが加わることが多かった。2012年3月に城ヶ峰、11月池田山、13年2月に百々ヶ峰、12月に大野アルプス、14年4月南宮山、11月貝月山、15年4月菩提山、11月妙法岳・橫蔵、16年4月養老山、11月冠山と登ってきた。ここに当初はランチに参加してきたのが通称「あゆ太郎」さんだった。このあと大垣山協での山登りが忙しくなったことと、ハイキングとして適当な山が近くにはなくなってきたことなどからこのハイキングから手を引いた。折角、登山用の靴を新調されたあゆ太郎さんには申し訳ないことをしてしまった。その後もこの会は歩く会として続いているようであるので、機会があれば再び参加しようと思っている。

 2016年11月冠峠にて

 ここからあゆ太郎さんの話となる。ランチでの会話だったと思うが、彼によると鮎のシーズンの休日には揖斐川岡島橋の下流で竿を出しているらしい。そこで揖斐川の釣りの現場を時々訪れるようになった。その際には畑で収穫した野菜を持参することにした。そのお返しとして釣果の鮎をいただくのである。あゆ太郎さん、自身は魚が嫌いだそうで鮎は食べない。そのため、友人や同級生等に前からお裾分けしていることがわかった。あゆ太郎さんも高校時代は全く知らなくて、ハイキングという機会に知るようになった。

 岡島橋下流の釣り場 

 しばらくあゆ太郎さんとは会っていなかったが、ラインで連絡すると今日は出かけるとのことで、早速昼過ぎに訪問した。場所はかつての岡島簗(今は廃業)付近でかつての釣り場から少し上流だった。すぐにあゆ太郎さんの愛車ジムニーを発見、丁度昼食中だった。久しぶりなので話がはずんだ。仕事は今も現役、掲示板によく登場していた愛犬「ふくちゃん」は16歳という天命を全うして昇天。今は新しく家族の一員となった犬、若く元気が良すぎて世話が大変だそうだ。今は新型コロナのため同級生の様々な活動が休止され、もっぱら掲示板で様々な交流がなされているとのこと。最後に釣れたばかりの鮎をいただき、そのお返しに野菜を渡した。そして、あゆ太郎さんは午後の部へと河原を降りていった。

 今日のあゆ太郎さん 釣り竿を構えてと注文したが、竿は河原においてきたそうだ

 今日いただいた鮎 
 揖斐川の近くに住みながら、ここの鮎をいただくことはなかった。あゆ太郎さんと出会い、やっと地元産?の鮎を食べることができるようになった
 いただいた鮎は塩焼きと煮付けにした。塩焼き、おいしくいただきました

 やはり友達と会うのは本当に嬉しい。趣味の仲間そして同級生、できが悪く高校への通学に時間を要し、友達を作ってこなかった。掲示板はそんなおじさんを新たな交流へ導いてくれた。あゆ太郎さん、そして掲示板に感謝申し上げたい。
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バジル、サツマイモつる、栗等々 20.9.17

2020-09-17 19:30:01 | 地域のこと他
 今朝起きると薄暗く、こぬか雨が降っていた。それでも、バジル収穫のため出かけた。家内が通うパン教室の先生がバジルをもらってくださるということ。バジルの一般家庭での需要がわからないので、差し上げる方が限定されてしまう。同様にサツマイモのつるからでる茎の始末も難しい、家内は貧乏くさいとかいって歓迎しない。毎年、サツマイモを沢山作るが、そのつるは捨ててしまう。しかし、今年はイモはまずいが、その茎は美味であるという苗を10本いただき植えたので、捨てるわけにはいかない。一回目の収穫は家で食べてみて、それからお裾分けを考えようとなった。まずは油炒め、特別おいしくはないが、まずくはない。二回目はEさん及び月一の仲間(思いがけずすぐにもらってもらえた)にお裾分けするとともに、茎を細かく刻んで佃煮、なかなか旨い。これがあればご飯のお代わりができる(筋をとるのが面倒、アクで手も汚れるが)。

 バジルを収穫

 朝食後、少し雨が降っていたが、城台山に出かけた。男坂・女坂の分かれるあたりに栗が落ちていたので(何日か前から気づいてはいたが)、小さめの栗ではあるが拾うことにした。両足で踏みながら、イガを割ろうとするが、イガが小さく、意外と難しい。門入の泊まりでWO氏から聞いたところによると、猿はお尻を使ってイガを割るという。お尻が痛くないかとの問いに、猿のお尻は硬くて、大丈夫とのこと。「知らなかったなー」。山の幸といえば、城台山もかつて松茸が出て、登山路に沿って立ち入り禁止のロープが張ってあった。当時は登山路周辺は赤松が多く、松茸が出たのであろう。こうした山がかつてはあちこちにあった。有の山林であれば、入札していくばくかの収入を得ていた。ときたま秋には登山禁止の山があると聞いたことがある。

 かつては赤松が一杯あった

 本日の取得物? ここは財産区の所有だから届けるべきか、自分が役員だからもらっておこう

 Nさん所有の栗畑
 この近くにおじさんの山畑があり、栗の幼苗を植えたがすぐに枯れてしまった 日当たりが悪く、タケノコしか採れない

 さて、おじさんは昨年12月70歳となった。良いこととして、診療の際の自己負担が3割から2割になり、少し楽になった。ところが、自動車保険がかなり高くなった。事故率が高くなるとの理由らしい。そして、免許証を今年12月に更新する前に高齢者講習を受けることが必要となった。その講習が実は今日あった。聞くところによると実車があるという。しかも、講師と次に受ける講習者を乗せて走る。受講者4人で2時間の講習だったが、視力検査と実車のみだったのには驚いた。おじさんは眼鏡なし(免許証)で検査を受けたが、見えない。メガネをかけてやっと1.0だった。また静体視力のみでなく動体視力も測るとかで、ランドルト環が次第に大きくなってくるのをどこで見えるかで測定する。これは静体の半分あれば良いとのこと。この視力検査では、2名の受講者は0.7の基準に達しないので、更新までにメガネを作るか医者に行った方が良いとなった。

 そして実車、幸い講師以外の同乗はない。乗る車はかつてタクシーの主流を占めていた車。走り出し、右折するとクランク、次に車庫入れ、その後10cmの段差にぶつかるところで停車、段差を乗り上げたところで再び停車、交差点で一旦停車したのち、コースを走り終了。約10分程度だったが、とても緊張した。そして、一旦停車が十分でなかったことを指摘された。この講習の結果が更新を判断する材料とはならないようだが、75歳を超えるとさらに認知テストも加わる。この自動車学校で最近大正生まれの方が講習を受けに来られたそうだが、そんな人はごく稀でほとんどの人(認知能力等に問題なければ)は80代半ばまでくらいらしい。
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