城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

池田山&二冊の本 22.7.24

2022-07-24 16:46:52 | 面白い本はないか
 久しぶりの夏空の天気となった。6時少し前頃から野菜の収穫を行い、朝食後池田山の大津谷登山口に向かった。31日と8月1日薬師岳に山ともと登る予定なので、その前に今の体力(足の不調で満足な登山ができていない)を知るためだった。登山口に着くと右手の草地ではキャンプをしている家族連れがいた。近くの大津谷公園では多くのキャンパーを見かけることはあったが、ここでは初めてだった。7時半に出発、とにかくゆっくり登っていた。涼しいと思ったのも始めだけで、汗が噴き出す。最初の急登、二番目のやや短い急登を登り切り、さあどこで休もうかとばかり考えて足を進めた。このコースの中間点(1.4km地点)の少し先で休憩。この後も急な登りは続くが、最初ほどでないので、少しペースができてくる。林道が出てくればあとは600mでこのコースは終了となる。パラボラアンテナが3基立っているが、その道にはさわやかな涼しい風が吹き通っている。

 帰りにパラグライダーの基地を覗いてみた。離陸のための準備をしている人がいた。その離陸を待ったがなかなか飛び出さないので、引き返したら、旧知のKさんにばったり会った。霞間ヶ谷を6時45分に出発し、山頂からの帰りということだった。登ってくる若い男女4人のメンバーと遭遇後、登りの休憩地点の少し下で2回目の休憩。10時46分登山口に着くと、キャンパーは子どもも含めて撤収の作業を行っていた。こうした作業を手伝わせるのは子どもにとって良い経験となることだろう。おじさんは山に登り、テントも使ったが、こうしたキャンプはついぞ行ったことがなかった。うちの子どもたちは虫が嫌いになってしまったのはこのせいかもしれない。

 登山口でのキャンプ

 今日の池田山 1人のときはここまでは行かない

 おなじみの能郷白山 前回(3月4日)は真っ白だった

 パラグライダー

 ここから話が変わり、二冊の本を紹介する。一冊目は、本郷和人「北条氏の時代」。読み始めたのは、もちろん大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ていて、北条氏について興味を持ったからだ。このドラマ、味方であったはずの者が何らかの陰謀を図ったとか(実際はないことが多いようだが)の理由により次々と殺される。北条時政、義時、泰時等々、敵対する、あるいは敵対しそうな相手を排除し、北条氏の権力、後に執権体制を確立していく。まさに血塗られた政権であったことがわかる。13人の中の梶原景時が最初の犠牲者、二番目が比企能員(ひきよしかず)、三番目が和田義盛(ドラマではひげのおじさん)、四番目が畠山重忠(時政の娘を妻としているのだが。ドラマでは美男子!)その後も延々と続く。この本では時政を、文章が書ける(この時代武士は字すら書けなかった、ドラマで上総広常が江戸時代の寺子屋のように習字をしている場面があった)交渉事や調整が得意だったが、頼朝には重用されなかった。しかし、頼朝が死ぬと陰謀家としての能力が解き放たれた。その息子である義時も面白い。ドラマではということであるが、頼朝が上総広常(当時最大の武士集団の頭)を殺すときもその策謀にまんまと知らずに荷担してしまう。頼朝に仕える過程で策謀家としての能力が父同様花開いたのかもしれない。著者は義時(ドラマでは少し頼りない、自己主張しない存在で三浦義村といつも相談している)について、御家人の声という世論を重視し、①敵対行動をためらう、②周りに促されて、逡巡の末に立ち上がる、③敵を討ったあとは厳しい処理を行うと記している。三浦義村も面白い。生き残った者が正義、周りに何と思われようとも勝つ側につく、むき出しのマキャベリストとしている。

 ドラマの先を一部書いてしまったが、この本を読んでおくと、一層ドラマが面白くなるかしれないかもしれない。著者は鎌倉時代を、日本史の大きな転換点であると同時にドラマチックな面白い時代であると書いている。関東のローカルな存在に過ぎなかった鎌倉幕府が承久の変、元寇などを経て全国的な政権へと成長、その過程で血なまぐさい、そして人間くさい戦いと陰謀の時代だと。北条氏はなぜ将軍にならなかったのか、執権というかたちで権力を行使したのかについて考えてみるのも面白い。著者は幕府が始まったのは、私たちが習ったイイクニ、1192年ではなく頼朝が鎌倉を本拠地とした1180年とするのが適当でないかと述べている。

 二冊目は、木村幹「韓国愛憎ー激変する隣国と私の30年」。この著者については、2019年8月22日付け「日韓共通の歴史認識は可能なのか?」で取り上げたし、それ以後もブログ上で韓国について話題としている。この本で学者、研究者としての最近の苦しい立場について吐露している。学者として、資料や証言に基づいて発言しようとすると、発言を求める側が求めるようなある意味断定的な、都合の良い結論とならないことが多い。資料等からは分らないことは発言できないし、ましてや事実と違うことを発言しては学者として失格となる。著者が韓国政府の行動や韓国人の考えをそれなりの理由があると説明すると、もう韓国の立場を代弁するのかという罵詈雑言が掲示板、SNSに溢れる。これでは視聴者が求めるもの、自らの感情を満足させる発言を求めることになる(SNSで起こりやすい現象として、フィルターバブルとかエコーチェンバーというのがある)。これでは両極に分かれた立場の者の満足な対話すら難しくなる。エンターテインメント化している情報番組は企画されたストーリーに沿って、話しを進めようとする結果、ステレオタイプ化してしまう。

 日韓関係は、アメリカやヨーロッパでは少し前には注目する人も少ない研究分野であった。それが、中国の台頭、米国の衰え等もあり、米国としては安全保障上ほおっておけない問題となった。また、ヨーロッパにすれば、中国との関係を強化し、韓国も同様に中国との関係を強化していた。一方、日本は中国を警戒していることがヨーロッパには理解できなかった。こうした理由から日韓関係は取り上げられることが多くなったという。韓国では、保守派と進歩派が明確に分かれているという。どちらに属しているか分らないと対話の相手は非常に不安になるそうで、それを外国人である著者にも適用するという。

 今や生活水準では横並び、民主化では先んじている部分も多い韓国、自信をつけた韓国、自信をなくしている日本、日本への関心を急速に失っている韓国、韓国のずっこけることを大いに期待している日本、これではまともな対話など実現は難しいという結論になりそうである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八甲田雪中行軍120年目の真実から 22.7.19

2022-07-19 13:59:38 | 面白い本はないか
 八甲田山は、青森県を岩木山と並んで代表する山で日本百名山の一つである。ただし、八甲田山という名前の山はなく、主峰の大岳(1584.5m)を中心とする山群の総称である。ちなみに「八」はたくさん(八ヶ岳も同様)、「甲」は盾、「田」は田代と呼ばれる湿原を表わしている。八甲田の冬は特に厳しく、巨大な雪のモンスターができることで有名である。日本海からは津軽平野を縦断し雪を含んだ南西風、そして陸奥湾からのシベリアおろしが強くふき、峰峰を互いに回り込んでぶつかり合うため乱気流が発生する。この八甲田において、明治時代の1902年1月、二つの連隊、青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊によって雪中行軍が実施された。前者は強風と多量の降雪によってほとんどの将兵が死亡し、一方後者は全員が無事(凍傷にかかった者は多かった)帰還した。この事件、当時新聞紙等で大きく取り上げられた。私たちにこの事件を認識させたのは、新田次郎の書いた「八甲田死の彷徨」(1971年)であり、それを映画化した「八甲田山」(1977年)であろう。

 映画「八甲田山」から

 少し新田次郎について触れておく。もともと中央気象台ほかに勤務した気象学者であり、作家でもある。彼が得意としたものはいわゆる「山岳小説」で加藤文太郎を描いた「孤高の人」、駒ヶ岳での尋常高等小学校の生徒らの遭難を描いた「聖職の碑」、剱岳に三角点を設置する苦難を描いた「剱岳点の記」などなど山岳ものがたくさんある。おじさんが最初に読んだのは、孤高の人、そのあと八甲田死の彷徨、残りは実は読んでいない。その息子が数学者の藤原正彦でむしろこちらの方がよく読んでいる。彼は「国家の品格」でブレイクしたが、「遙かなるケンブリッジ」や「若き数学者のアメリカ」あたりが若々しさが表れていておじさんは好きだ。次郎の奥さんが作家の藤原ていで、「流れる星は生きている」は当時満州に務めていた次郎に伴って行った満州での生活が敗戦によって、激変し、ていが家族を連れて本土に無事帰還するさまを描いていて、涙なくして読み通すことはできない。

 さて、本題に戻ろう。映画「八甲田山」を見ると、青森の方は中隊長の神田大尉(実際は神成)を北大路欣也が演じており、弘前の方は中隊長の徳島大尉(実際は福島大尉)を高倉健が演じており、この2人の名演技ばかりが記憶に強く残ってしまっている。特に神田大尉は悲劇のヒーロー(本来は隊の責任者なのであるが、大隊長が加わり、指揮系統が乱れてしまっている。この大隊長は救助されるが、後に病院で死亡した。小説ではピストルでの自死としている。)と化してしまう。事件を簡単に説明しておく。もともとは日露の戦いを想定した冬の厳しい寒さの中での戦いの教訓を学ぶために考えられた。その中で青森と弘前の連隊が競うような形になってしまった。青森は山中一泊(三日とする記述もある)、これに対し青森隊に遭遇するために、弘前から十和田湖を反時計回りに回り、東から八甲田に達するもので全行程12日、参加する将兵は37名。この弘前隊の長い日程を知った青森隊がわでは、人数を210名とした。この人数の違いこそ、一方は無事に帰還し、他方は遭難という分かれ道だったと思われる。しかも、青森隊は輜重隊という弾薬や宿営に必要な食料、器具を運ぶそり隊を伴っていて、この隊が軟雪に埋まり動きが遅く、先発する隊はこれを待っている時間が長くなってしまった。弘前隊は基本は民家に泊り、食料も現地で調達をしていた。さらに弘前隊は岩木山での雪中行軍を経験していたし、夏ではあるが下見もしていた。さらに必要なところでは案内人を雇うなどしていた。

  雪中行軍概略図 困難さから言うと弘前隊の方が数倍難しいルートである

 タイトルの本を書いたのは、間山元喜と川嶋康男、間山は弘前隊でこの行軍に参加した間山仁助伍長の孫にあたる。この本では、その仁助の書いた日記及び隊長の福島大尉の書いた報告書(2012年に公開)をもとにして書かれている。しかし、青森隊の生存者は少ないために、実態は遭難してから書かれた報告書となるため、詳しくない。さらに、青森隊は時間が経つにつれ、組織としての動きをしていないこともわかりにくい原因となっている。著者の間山は、もと自衛隊を定年退職していることから、特定の個人や組織を捉えて、批判することは極力避けられているように思われる。だから小説や映画のようには面白く感じられないかもしれない。この両隊は青森隊の遭難現場で遭遇(すでに大部分は死亡)するのだが、福島大尉の報告書ではそれに触れてもいない(間山仁助の日記では控えめであるが触れられている)。

 八甲田雪中行軍120年目の真実

 厳冬期での戦い方について、現在でも通用する記述がある。体を動かすことで暖をとる。その温かさは、汗を伴うので、止まると体はすぐに冷える。体をおだやかに動かし続けることが大事。小刻みな休憩とすぐに取り出せる間食を用意し、エネルギーの補給に努める。おにぎりは凍らないように、各人腹巻き着用し、そこに入れておく。両隊とも凍ったおにぎり、餅などによって、十分な食事をとることができなかった。

 青森隊の遭難を見ると、おじさんは日本軍の南方作戦を思い起こす。すなわち、武器も不備、食料もなく、南方の島々に置き去られた将兵たちに襲いかかったのは米軍というよりも飢えと病気であった。現場のことを知らない参謀本部、経験もないジャングルでの戦いなどなど、そっくりではないか。もっとも同じ死ぬなら、雪の中で死ぬことがずっと楽であることは間違いない。


 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大玉スイカ収穫 22.7.14

2022-07-14 14:27:41 | 野菜作り
 10日ぶりのブログである。日記としている以上、もう少しこまめに書かないといけないのだが、なにしろ書く材料が見つからない。山の話題を書きたいのだが、ここのところ足の調子が悪く、毎日の城台山散歩も満足に出来ていない(今月まだ6回しか登っていない)。7月5日頃から始まった右足足首の痛みだが、月曜日に良くなったと思って城台山に登ったら、翌日は痛さがひどくなってしまった。火曜日早朝、雨の中を痛い足で枝豆等を収穫し、午後山でお世話になっているダブルO(2人のOさん)さんに枝豆とミニスイカほかをお裾分けした。痛みも取れてきたので、今朝久しぶりに自転車(膝や足首への負担が少ない)で一心寺と小野坂トンネルまで出かけた(運動不足で急坂では喘いだが、帰りは風を切って下る。この爽快感が素晴らしい。)。

 直前のブログでミニスイカの初収穫をお知らせした。おじさんが作っているミニは、名前を「飛行船ラルク」といって、ミニとしては比較的大きなスイカを収穫できる。標準2.5kgとあるが、初収穫こそ2.4kgだったが、その後3.4、3.9×2、4.0、3.8と合計6個収穫した。この後は19日頃から再び収穫が始まる予定であり(人工授粉しているのだが、その日の雌花の状態に大きく左右され、特定の日に片寄ってしまう)、現在約10個収穫見込みとなっている。

 今朝も畑に出かけた。ここのところ気にしているのは大玉をいつ収穫するかである。紅大という大玉の品種を二株、ミニと一緒に植付けた。6月4日と5日に授粉を確認したから、今日でおよそ40日経過した。さらに収穫の目安となる巻きひげも枯れてきている。おまけに蔓が一部枯れてきており、収穫どきだと判断した。

 写真白テープの左についているひげ 白テープに記された授粉の日(6月5日)はかならずしも正確でない。自然の授粉も多いので、後日着果してから気づくことが多い。スイカが生長してきて、おまけに網を被してあるので、かなり大きくなってから気づくケースも結構ある。そうなると収穫時期はこのひげによって判断するしかない。

 家に持ち帰ってまず計量。

 わかりにくいが、8.1kgとある。
久しぶりの大玉だった。去年は同じ品種だったが、最高で5.4kg。あとは切ってみないとわからない。

 真ん中付近を薄く切って食べた。まあまあの甘さである。半分を自家用に、残りは近所に住む家内の友人にお裾分けした。
 大玉はあと大きいのが2個、中くらいのが1個あり、日曜日までに収穫する予定である。

 お裾分けする時は、今が旬の枝豆も一緒に差し上げている。

 ここのところ枝豆づくりがとてもうまくなった 実がぎっしりついている

 ついでに庭の花

 アガパンサス

 木立ベゴニア

 サフランモドキ(グーグルで検索)

 フレンチローズ ギーサボア


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スイカ初収穫 22.7.4

2022-07-04 19:02:52 | 野菜作り
 7月の声を聞くと気になるのが、スイカと枝豆の出来具合と収穫時期だ。スイカについては一昨日に書いたとおりなのだが、もう少し述べたいと思う。退職後本格的に野菜を作るようになり、その中で大玉スイカを作り、面白いように甘くてでかいものができた時期があった。当時加入していた山岳会の例会に何回か持って行ったこともある。最初は郡上の大洞山の沢登りの時だった。出発時、沢水にスイカを冷やして出かけた。その時参加していた年輩のO女史からはそれ以後会うといつもその時のスイカの話しとなった。2回目は福井県側から尾根組と沢組に分かれて三周ヶ岳に登ったのだが、沢組が増水等で下山が遅れるなか、おじさんたち尾根組はその帰りを長時間待っていた。自分でいうのも何だが、その時食べたスイカは大きくて甘かった記憶が鮮明に残っている。最後は平家岳、8月の暑い盛りの登山であった。クーラーボックスに入れてあったものの、食べる頃には冷たくなくなってしまった。好きでやっていることなのだが、クーラーボックス、まな板、包丁、塩などを用意し、帰りはごみを持って帰らねばならない(そんな苦労もO女史の感謝の言葉があれば報われる。でもこの女史、名前で呼んでもらったことがない!!)

 あの頃は大きなスイカが良くできていたのだが、それ以後うまく出来なくなってしまった。肥料のやり方が間違っていたこと、雨があまりかからない方が良いと思ってビニールをかぶせた。結果はいずれも良くなかった。肥料は元肥は少なめ、追肥は実がピンポン球くらいになったら行うのが正しい施肥の方法なのだ。大玉がうまくいかないので、それ以降ミニ(小玉)を作るのが主となった。去年も大玉を二株作ったが、大玉とはとても言えない4kgにしかならなかった。今年の状況はおそらくかなりの大きさのものが3個、小さいのが3個(一株で2個と育て方には書いてあるので、摘果しなければいけなかったのだが、もったいないので、残してしまった。)の予想である。

 授粉が6月5日(白テープに記入)というのが特に多い。この時天気が良く、雌花と雄花が充実していたからであろう。この時授粉したミニスイカが、これから収穫を迎える。ミニは6株あるが、一株4個で計算すると全部で24個(親蔓を摘芯し、そこから小蔓を4本伸す。ミニはそこに一番果をつけさす。だから6×4)程度収穫できることになる。二番果まで入れたら大変な数になるであろう。もちろん、「取らぬ狸の皮算用」とあるように実際はこのようにはならない。去年一番果はあまり収穫できなかったが、二番果以降ができすぎて、その処理に困った。

 今朝収穫に出かけ、スイカ畑を眺めていたら、今まで外からは見えていなかったミニスイカのうちの一つが見えるようになったのがあり、日付を確認したら6月4日とあったので、30日後の試しとりをした。その結果が写真のとおりである。

 重さは2.4kgであったからミニの標準的な大きさ おじさんの感覚では少し小さい できれば3kg以上

 二つに切ってみた 少し水っぽいがまあまあ甘い
 今日の午後、このスイカを持って母のいる特養を訪問する(機嫌がよければ食べてくれて、何と言うだろうか)

 もう一つの楽しみは枝豆。我が家の枝豆は4月と7月にポット蒔きする。今の時期食べるのは早生ということになる。ところが、枝目の本場、岐阜市島地区周辺に住む家内の知人で枝豆を自ら作っている方から、枝豆をいただいた。枝付きの枝豆、豆が美しく、充実している。我が家では株が倒れ、地面と接するので、どうしても泥で汚れてしまう。教えていただいた食べ方(ゆで方)もいつもと違っていた。要するにフライパンで蒸し焼きし、あとで塩をふる。水も塩もガスも少なくて済む方法だった。いつもだと枝豆の両端を切り、塩でもんでから、塩水でゆであげる。両端を切る(塩がしみるように)のが結構面倒だ。ただし、味はいつもの方が良いとは思うが、塩をたくさん使うので要注意だ。

 方法はいたって簡単

 あと数日で我が家の枝豆は収穫の時期を迎える(収穫期間が10日くらいしかない。遅くなると豆が充実しすぎて豆がやや固くなってしまうし、薄皮をかぶってくる。おじさんは比較的若い方が好きだ。)。スイカと枝豆が揃ったら、東京に住む子どもたちに贈りたいと思っている(輸送代の方が高いが)。そしてお世話になっている山ともや親戚にも届けたいと思っている。そうおじさんの「野菜外交」が全開するするのである。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏野菜7月 22.7.2

2022-07-02 19:52:58 | 野菜作り
 今日も朝と晩の水やりで一日が終わろうとしている。6月9日のブログ「梅雨入り前のジャガイモ収穫他」から約一ヶ月が過ぎ。この間に夏野菜も随分成長し、日々収穫する毎日となっている。思いがけなく梅雨が早く明けたので、水やりは例年よりも随分早く始まった。夏野菜の今を紹介する。

 サカタのタネで購入したカボチャ 万次郎? 天気がよいせいか順調に成育中

 キュウリ 既に枯れた部分もあり、今年は不作

 6月28日に植付けたキュウリ 高温のため生長できないでいる

 枝豆 あと7日~10日で食べられる

 スイカ畑の今 鳥、小動物から守るためネットがかけてある

 スイカ大玉 収穫は7月15日頃 随分大きくなってきた

 スイカ小玉 5日頃から食べられる見込み

 ナス、トウガラシ

 今年ナスの出来は良い 今日の晩ご飯 油で揚げてポン酢で食べる 美味!

 水をほしがるサトイモ 梅雨が早く明けたのがうらめしい

 トマト大玉を害虫から守るためのネット ミニトマトも沢山収穫 赤は酸っぱいので、皮をむき、砂糖をまぶし、冷たくしていただく。黄色は冷たくして、そのままいただく。大玉はサラダかスライスして塩をまぶして食べる 夏の味だ!!



 本日の収穫物

 このあと黒豆の植付け及び春日豆の植え付けを予定している。今年は黒豆について、ユーチューブで紹介されていた方法で苗を育てている。

 第一段階ー陽を当てないで発芽 第二段階ー陽に当てて緑化 第三段階ーそれに土をかける それが現段階

 上記の苗を引き抜く

 上記の苗 摘芯及び根の部分をカット

 上記の苗を挿し木する
 いずれもユーチューブに載っていた方法である。従来だとポット蒔きした苗をそのまま畑に植えていた。そして5節目くらいを摘芯していた。要するに上へ伸びようとする豆をできるだけ脇芽を出させ、実が多く付くようにする方法だと思うが、根まで切るのは想像の域を超えている。もちろんこの方法でたくさんの豆が収穫できれば文句はないのだが。

 野菜づくり、実に奥が深い!!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする