城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

日本社会の持続可能性は? 20.12.23

2020-12-23 21:33:04 | 面白い本はないか
 先日岐阜県図書館の「清流文庫」コーナーから3冊の本を借りてきた。1300haの森林経営者が語る田島信太郎著「断固、森を語る」、浜田久美子著「スイスの林業と日本の森林」そして今読んでいるのが中嶋尚志著「木の国の物語」。最後の本で出てくる昭和の大棟梁西岡常一氏への言及を見るにつけ、昔同氏の本をよく読んだことを思い出した。今同氏の本で本棚に残る唯一の本は、「法隆寺を支えた木」である。法隆寺の建造には1000年のヒノキが使われており、建造後1300年経った今でも健在である。もちろん、維持のため何もしていないわけでなく、過去何度も修理が行われている。その昭和の大修理を行ったのが西岡氏である。伊勢神宮の20年ごとの式年遷宮も、ある意味こうした匠の技術を継承する良い機会となっている。このほか、仕事の関係もあったが、まちづくりなどの本を沢山読んだ。日本は、京都や小京都と言われる高山など歴史のある町並みは多くある。しかし、その素晴らしい町並みも一歩出れば醜悪な町並みとなっている(看板は乱立、家並みはばらばら)。あくまでも経済優先のまちづくりを戦後行ってきたことの結果である。

 例えば岐阜市や大垣市どこをとってもへそともなるような歩行者が安心してウィンドウショッピングを楽しみながら、あるいはお茶や食事のできる場所が非常に少ない。中でもお年寄りが歩き、買い物し、食事もするといった場所は極めて少ない。お年寄りが集まる場所はモーニングの提供される喫茶店、あるいは病院の待合室くらいしかない。揖斐でもかつて商店街があり、今やシャッター街さらに進んで歯抜けの町並みとなってしまったところを歩くお年寄りなど滅多に見ない。唯一、足腰の衰えを感じたお年寄りがその行き先に三輪神社を選んだり、あるいは市街地?を少し離れた田んぼのまわりを歩く人を見かけるくらいとなっている。さらに商店街がなくなり、自動車に頼ることができなくなるお年寄りは買い物難民になる。このブログでも話題にしたが、市街地の中にあったスーパーが閉店し、市街地から少し離れたスーパーに行かなければならなくなった。要するにまちづくりと福祉は非常につながりのあったということを日本国民は理解していなかったし、その国民の選ぶ政治家たちも認識していなかったということになる(これは広井氏の主張するところだが、全く同意する。日本の施策はとにかく縦割りである。)木の話では、植林から50年経ってやっと切り出せるようになる。ここまで先のことを考えることはできないにしても、もう少し先のことを考えて対策する必要があったのだ。

 前置きが随分長くなってしまった。広井良典氏の「人口減少社会のデザイン」の述べることを書いてみる。著者は、日本社会は持続可能性という点において危機的だと言う。①政府の膨大な借金=将来世代にツケ回し、②格差拡大、人口減少(少子化)、③コミュニティないし「つながり」の喪失。この危機に対処することが失敗した場合、その破局のシナリオとして、財政破綻、人口減少加速、格差・貧困拡大、失業率拡大、地方都市空洞化、買い物難民拡大、農業空洞化をあげている。

 著者の言う日本の地方都市の空洞化は、国の政策の失敗の帰結ではなく、むしろ政策の成功、つまり改革が思い描いたような都市、地域像が実現したと書いているが、これには少々驚いた。つまり、地方都市の中心市街地を維持することの価値が考えられていなかったと。思い浮かぶのは、大店法(スーパーと地元商店街の利害を調整する。このためスーパーの中心市街への立地を制限した。)によって、大規模ショッピングセンターが郊外にたくさん作られ、空洞化したという理屈(おじさんはモータリゼーションの影響の方が多かったと思っているが)。
実は2000年前後にアメリカの圧力もあり、緩和され(今は廃止された)、中心市街地活性化のための施策が行われてきた。しかし、地方都市の中心市街地は例外なくシャッター街と化している。

 そして著者の心配するところは、日本人の孤立の度合いが海外と比べて異常に高いことである。かつて多くの日本人が「農村型コミュニティ」に属していた。所属する者は共同体的な一体意識を持ち、ウチとソトを明確に区別し、部外者は排除する。一方で「都市型コミュニティ」は個人をベースとする公共意識によりつながり、異質な個人間のネットワーク的つながりである。ところが、農村型コミュニティは失われつつある一方で都市型コミュニティは十分発達してきていない。さらに個人レベルでも「知っている者同士」の間では極端なほど気を遣い、「見知らむ者同士」ではほとんど関心を向けないか、潜在的な敵対関係が支配する。海外では見知らぬ同士がちょっとしたことで声をかけあうことが日本よりずっと多い(最近の「日本素晴らしい」といったテレビ番組を見ていると日本人は外国人にも親切だとほめたたえているがさて本当だろうか。外国人には親切でも日本人には冷淡?むしろ他人のことに無関心な人はどんどん増殖していると思うが。)仕事をしているうちは社縁でつながっているが、仕事をリタイアすると身の置き所がなくなってしまう。そして地域でもつながりを持つことができない。

 著者の主張するところは多々あるが、今後世界全体が「定常」社会に入っていく。すなわち量的な拡大(経済成長政策でモノ中心の経済拡大)を求めるのではなく、「個人の自由な創発」が生かされる質の充実を求めることに重点を置いていくべきだと。その中で福祉政策においては人生前半の福祉施策の充実(若者、子育て層)、そしてきちんとしたビジョン、「中福祉・中負担」(実質は中福祉を享受しながら、負担は低負担で、その差額を将来世代にツケ回ししている)に基づき消費税を少なくともヨーロッパ並みにあげるべきだと。さらに、鎮守の森やスプリチュアルなもののを中心としたつながりについて提案している。 

 
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