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斜陽
1947(初出)
太宰治


この歳になって初めて太宰を読みました。
恥ずかしい限りです。


本作が太宰治作品の中でどういう位置付けなのかはよく分かりませんが、揺さぶられまくりました。
誰かの書いた文章を読んで、ここまで深く「同意」したのは初めてかもしれません。
何故今までほったらかしていたのか、悔やまれます。

巻末の奥野健男氏による解説の一説で「海外の日本文学研究家たちが太宰治の作品を読むと、作者が日本人であることを忘れ、まるで自分のことが書かれているような切実な文学的感動にとらわれてしまう」とありますが、正にそれ。
もの凄く的を射ている言葉だと思います。
感動と言う言葉の持つ意味が、カタルシスではなく、心揺り動かされるモノ、という意で。

書かれている言葉が全く他人事ではない。(とか言うと、面倒なヤツだとか思われそうですが、やむを得ず)
太宰の生きた時代と私たちの時代は、既に違う国のように変わっています。だけれども時代とか文化とか一切無視して結局人間なんだもの。
まるで自分のことのように響く。自分の気付いていない、明文化されていない感覚を呼び覚ます。
これは、私たちが海外の文化であったとしても、例えば音楽だったらビル・エヴァンスとかジョン・レノンとかマイルス・デイビスとか、映画だったら「エターナル・サンシャイン」とか「ボーイ・ミーツ・ガール」とかに同化してしまう感覚とほぼ同じなのでしょうか。
やはりこれは太宰の文章が、人種・風俗の違いを超えて「ある種」の人間に対しての普遍的な事実を記しているからなのかもしれません。
こんなこと今更言ってる自分が恥ずかしい。


奥野氏の解説で「太宰の文学に対しては、全否定か全肯定しか許されない」ということにも同意。
多分、受け入れられない人には全くダメなんだと思います。
「ダメ」の理由は分からんでもない。
むしろ、分かるけれども、その「ダメだと思う気持ちが分かってしまう理由」を認めたくはない。
その「ダメ」が自分の覆すことが能わない内なるものとしてある以上、肯定せざるを得ない。
こういう感覚なのです。私は、ですが。




本作で、思わずマーキングしてしまった一文。

『恋、と書いたら、あと、書けなくなった』

この一節がのしかかります。
分別のギリギリにある大人子供が言う「恋」という言葉の持つ(対外的な)軽薄さと(個人的な)切実さ。
もの凄く重大である出来事についての想いを「恋」という言葉で逃げようとしたのか「恋」から逃れられない自分の浅はかさを認めた一文なのか。
人が「恋」を語るとき、誰もが哲学者であろうとします。絶対に解明できない宇宙の真理に挑むかのように。
そして、回答がどこからも得られない、けれども、あらゆる人たちからの言葉からの帰納法で導き出した解っぽいものを元に演繹法で可能性を無限に広げる。
帰納法は客観、演繹法は主観。
個人誰もが持つ「クールでありたい、情熱的でありたい」の二面の拮抗・葛藤している状態を、この一文でゴリっと表しています。
誤解していただきたくないのは、本文では恋煩いの一節ではないと言うこと。

ここまで複雑な感情を、たった一行で表した太宰治のコピーライト、恐るべしです。
その前後に幾百あろうかという言葉を含んだ「恋」という言葉の持つポジティブとネガティブ。
他人事とは思えません。



こういうのは「等身大」ではなく、「肉迫」と言うのだと思います。

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