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マンガ【同録スチール】藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 (7) より

2007-08-14 22:33:17 | 本読み



【同録スチール】藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 (7)
1981(初出)
藤子・F・不二雄


藤子・F・不二雄著のSF短編で「同録スチール」というのがあります。
撮られた写真をそのお話に登場する未来のカメラで追撮(写真を撮影)すると、その写真が撮られた時の音声が「同録スチール」で撮影された写真に音声も追加して記録されるものです。
ちなみに「同録」というのは撮影用語で映像と音声を同時に収録することです。
皆さんがビデオカメラを回しているときはたいてい同録ということになります。

この作品で、主人公が自分の生い立ちの写真を同録スチールで追撮して、そのファインダーのこちら側の両親の愛情に満ちた言葉を聞いて、その期待に少しだけ応えてみようかな、という気になる。
ついでに、自分の好きな女の子の写真を友達に撮ってきてもらって、どう思われているかを知り、行けそうだと思うや、シャイな主人公は自分を写真に撮り意中の彼女に想いを告げる。
Fらしいちょっとツイストの効いた「イイ話」です。


このお話で思ったことは、自分で撮った写真を見れば、その瞬間を異常なまでに覚えているということ。
私は写真を撮ることが好きで、写真を見るのが好きで、写真に撮られるのが嫌いです。

狙って撮った写真だったり完全な仕事や作品撮りの場合はそのシチュエーションは覚えていても、気分は覚えていない。そもそも気分なんか無かったのかも。
なんてことない、撮ったのかも忘れているような平凡なカットの方が喚起させられます。


先日、とある方ととりとめない与太話をしていた時に同意したのが「男女の記憶って特別なイベント事や旅行なんかより、日常的な瞬間の方が後々残るよね」ということ。
その通りです。
広告と同じような反復による純粋想起に近いかもしれませんが、それってただの刷り込みじゃなくって、反復していたことって、結局シンクロしていたことで、その重なった部分が多くあることが幸せなのか、しかしそれは次第につまらなくなってしまうことなのか。どうなんでしょう。

ガキの頃の記憶の場合は、お誕生日会や運動会や遠足なんかより、過ごしていた校舎の落書きや通学路で見つけたエロ本なんかのどうでもいい一瞬が時系列ぐちゃぐちゃで残っています。「起床→学校→遊ぶ→就寝」という異常なまでに純粋なルーティンの中の異物が残っている。
どっちが強く残るのでしょうか。というか、私だけなんでしょうか。
小学生の頃ですが、雨上がりの朝の通学路、歩道橋の上に女性の洋服(下着含む)一式が散乱していたことがあるのですが、アレは何だったんでしょう。今思うと、結構な事件だったのかもしれません。こわ。



話を戻しますと、写真というのは、その瞬間を記録するという機能と共に、その前後の記憶を喚起させますね。
その写真を持っているということは、その記憶をいつでも呼び戻せる。「同録スチール」なんて無くても。

記憶というものはやっかいなモノで、貯めていけば貯めていくほど、時が過ぎれば過ぎるほどその貯まった貯金に高度経済成長期を維持し続けているような公定歩合に沿った金利がつきまくり、素晴らしく綺麗で愛おしいモノにしてくれやがります。
まるで、そのときに掘り当ててしまった素性の分からない原石を時間がゆっくりと磨き上げていくかのような。
時間の経過が記憶をどんどん美しく儚いものにしていく。
その瞬間のわずかな輝きを何百倍にも増幅してしまう。

あの時の光は、あの時にしか無かったある光。
バックミラーに映る後続車のハイビームに気を取られていると、前方への注意がおろそかに。事故の元。
前の光が見えなくなってしまう。
呪縛とも言える何かを解き放つのは、やっぱり意外とネガティブでもない。
それに、もの凄く遅れて気付く瞬間は、仕事帰り渋滞12km湾岸線で訪れたりするものです。