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ヒューマン・ネイチュア(HUMAN NATURE)
2001
ミシェル・ゴンドリー(Michel Gondry)


コメディと言うよりもパロディ、パロディと言うよりもオマージュ、オマージュどころかコメディという作品。

脚本は病的とも言える伏線回収師であり、構造至上主義のチャーリー・カウフマンです。
監督は不治の中2病患者ミシェル・ゴンドリー
スパイク・ジョーンズ監督じゃなくて良かった。プロデューサーとして参加しています。

多毛症に悩む女性、野性で育った男、文明にスポイルされた男と女が、がっぷり四つに組んだお話。各々のパーソナリティの根幹でぶつかり合うドラマです。
コメディ全開なジャケ裏のテキストだったりしますが、そこはチャーリー・カウフマン。それだけで終わるわけがありません。
大筋としては「正直であると言うことはどういうことだ」というところに帰結していると思います。
結構ハードコア。
テーマは結構アレン監督がやっていることと共通。ニューヨークの図書館とか美術館とかカフェとかテレビスタジオなんかを行ったり来たりする痴話喧嘩映画と同じ構造。


本作を観て思い出したのが、多分、小学生くらいの時に先生に聞いたかテレビで聞いた件。
『あるテレビのドキュメンタリー取材班がアフリカに取材に訪れた。その時に取材の対象となった少年に先払いのギャラの代わりに靴をあげた。それまで彼は裸足で生活していた。クルーは「アフリカの少年」らしさを演出するために「撮影中は靴を脱いでくれ」とお願いしたのだが、少年は一度手にした靴を決して脱がなかった。』
結局こういうことで、一度快適なものを手に入れたらそうそう手放せません。
しかし、本作で語られている「言葉」と「文明」に於いて言うと、それをして快適と言うのか。
人に自分の考えを伝えることや何かを理解するということは結局ただの「ふるまい」でしかないのか。
本作のパフ(野性で育った後人間に文明を叩き込まれた男)を観ているとそんな気になります。

で、「言葉」を「情報」もしくは「便利なもの」とすると、現在は既に飽和してしてまっている。
飽和してしまったものであったとしても何らかの付加価値をつけて発信するのがメディアであるのですが、その付加価値は結局受ける側が感じることであって、発信側(メディア)が創り出すことが出来るものじゃないんですね。
そうすると、創る側の私たちは何を送り出せば良いのかというよりも、どう送り出すかということになってしまいます。これは広告の考え方ですね。
けれど感情というのは結局明文化できないもので、受け手によって千差万別(超文字通り)なのです。「ものを買う」と言うのも一つの感情からのアクションであって、AIDMA(Attention、Interest、Desire、Memory、Actionという古からの広告業界に於ける脳内購買システムの考え方)を持ち出すまでもありません。最近だとブログとか読んでてInterestが働き、SearchしてActionなんてこともよくあります。で、何で買ったのか後から考えてもよくわからない。理由が後からわからない買い物が増えた。
しかし、「芸」によるDesireは割とちゃんとした「~だからコレが欲しかったんだ」ということが残ることもある。
そこに到達できない「芸」は結局消費されるだけでテレビと同じように3秒経ったら忘れてしまう。

っつうか、何からのProblemを解決するためのSolutionとしての役割を映画に求めてんじゃねぇよ、という広告のロジックを映画にくっつけて売るやり方が嫌いだということを言いたかっただけです。詳しくはこないだの「ノーカントリー」の回をどうぞ。
※本作への批判では決してありません。

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