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檜山安東氏城館跡 ・大館跡

2015-10-17 23:56:55 | 史跡・文化財
檜山安東氏城館跡・大館跡(ひやまあんどうしじょうかんあと・おおだてあと)。
場所:秋田県能代市田床内字大館。国道7号線「檜山入口」交差点から秋田県道4号線(能代五城目線)に入り南下、約300mのところで(「檜山安東氏城館跡・大館跡」の小さな案内板あり)左折(東へ)、未舗装農道の突き当たりが登り口。駐車場なし。
安東氏は、元は平安時代の武将・安倍貞任の後裔を名乗る陸奥国津軽地方の豪族で、鎌倉時代に津軽から出羽国北秋田地方を広く支配し、南北朝時代には2家に分かれ、それぞれ現・秋田県能代市檜山地区(檜山安東氏)と現・秋田市土崎地区(湊安東氏)を本拠地とした。天正17年(1589年)、「檜山城」の当主・安東実季が両家を統一、土崎の「湊城」に移って「秋田城介」を自称し、以来「秋田氏」を名乗った。慶長7年(1602年)に常陸国宍戸(現・茨城県笠間市)に転封されるが、近世も大名家として存続し、明治に入ると華族に列せられるなど、秋田の中世の歴史上、重要な一族である。そして、その檜山を本拠地としていた頃の居城跡が「檜山安東氏城館跡」として、その本城である「檜山城跡」、支城である「大館跡」と「茶臼城跡」が一括して国指定史跡となっている。このうち、「檜山城跡」は典型的な中世の山城(築城時期は15世紀中頃?)で、本丸跡など遺構も良く残っており、山上までの道路は舗装され、トイレやペンチが置かれるなど整備されている。
一方、「大館跡」は標高約40m、約27万平方メートルという広大な台地上にあり、「日本三代実録」の元慶2年(878年)記事にみえる「野代営(のしろのたむろ)」があった場所ではないか、といわれてきた。まず、斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫が水軍を率いて来航し「鰐田・淳代」2郡の蝦夷を服従させたという「日本書紀」の記事があり、現在の秋田県能代市とは範囲が同じではないとしても、「淳代(ぬしろ?)」が「能代」の語源となっている。また、「続日本紀」には「宝亀2年(771年)に渤海使青綬大夫・壱万福ら325入が船17隻に乗って出羽国賊地・野代湊に着いた」という記事あり、ここでは「野代」と表記され、港があったことが知られる(因みに、「能代」に変わったのは、「野代」が「野に代わる」と読めて縁起が悪いとして、宝永元年(1704年)に「能(よ)く代わる」と読める「能代」に改称したものとされる。)。このように歴史ある地名であるが、「賊地」と表現されたように、古代にはヤマト政権の支配外の地域であった。とはいえ、徴税権などが及ばないだけで、必ずしも敵対していたというわけではなく、「野代」にはヤマト政権側の常設的な兵営(駐屯地)があったらしい。上記の「日本三代実録」元慶2年の記事は、いわゆる「元慶の乱」を伝えるもので、秋田城司の苛政に対して蝦夷が反乱を起こし、秋田城や秋田郡家などが焼打ちにあった事件である。これに対して、出羽国府側はまず「野代営」に600入の兵士を派遣したが、「焼山」(現・秋田県五城目町の森山付近?)で蝦夷の襲撃に遭い、500入以上が戦死または捕虜となったとされる。ということで、「大館跡」の発掘調査が何度か行われたが、平安時代の遺構としては、竪穴住居跡35戸、掘立柱建物跡4棟などが発見されたものの、積極的に「野代営」とする証拠にはならない、と判断されているという。


秋田県教育庁のHPから:秋田県遺跡地図(大館(田床内))

能代市のHPから(檜山城跡)


写真1:「檜山安東氏城館跡」(檜山城跡)登り口(場所:秋田県能代市檜山字古城。国道7号線「檜山入口」交差点から秋田県道4号線を南へ約4km、「桧山城跡」という大きな交通案内板のところを左折(東へ)突き当たりカーヴのところ。「潜竜山 多宝院」の手前に駐車場有り)。


写真2:同上、本丸跡。このほか、二の丸・三の丸跡などがある。山上まで舗装路があるが、駐車スペースは狭い。途中はかなりの急坂。城館の様式として「蝦夷館式馬蹄形山城」と言われることがあり、「日本書紀」斉明天皇4年(658年)記事に、阿倍比羅夫の蝦夷征伐において、「沙尼具那」という人物が「渟代郡(ぬしろのこおり:現・秋田市能代か?)」の大領(郡司の長官)に任じられたとの記事があるが、その「沙尼具那」の居館があったところともいわれているようだ。


写真3:「檜山安東氏城館跡・大館跡」。登り口に向かう農道から見る。


写真4:同上、登り口付近。標柱が立てられているが、夏草に埋もれている。写真では、どこが入口かわからないくらいだが、ここを過ぎれば普通の山道。


写真5:同上、登り口から数分で台地上に出る。ただ広くて平らな土地が広がっている。それなりに整備された「桧山城跡」に比べると、単なる草地になっている。


写真6:「檜山神社」鳥居(場所:秋田県能代市桧山字越王下21。国道7号線「檜山入口」交差点から秋田県道4号線を南へ約3.3km、交差点を「仙ノ台・羽立・桧山」方面とは逆の方向(西へ)に入る。道なりに約350m。駐車場あり(鳥居を潜って坂道を少し上ったところ))


写真7:同上、参道の石段


写真8:同上、社殿。坂上田村麻呂東征の折に創建されたという「越王神社」に、大正6年、「愛宕神社」を合祀して「檜山神社」と改称、能代市桧山字茶臼館に鎮座したが、火災に遭い、大正14年に現在地に遷座したという。祭神は大彦命ほか。佐藤久治氏は、安東氏が土崎湊に進出した際に、秋田市寺内の「古四王神社」を勧請したものだろうとしている。


写真9:境内の「古四王時神社の杉」(能代市指定天然記念物)。樹高約34m、目通り幹囲約5.8m、推定樹齢1300年という。根元から眼病に効く「亀井の水」という清水が湧いているという。
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