神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

古四王神社(秋田県秋田市)(出羽国式外社・その1)

2015-08-15 23:10:48 | 神社
古四王神社(こしおうじんじゃ)。
場所:秋田県秋田市寺内児桜1-5-55。国道7号線(臨海バイパス)「港大橋前」交差点から北東に進み、突き当りを左折(北西へ)、約600m。駐車場有り。
社伝によれば、崇神天皇の御世、北陸に派遣された四道将軍の1人・大彦命が、北門の鎮護のために武甕槌神を「齶田浦神(あぎたのうらのかみ)」として祀った。崇神天皇は第10代天皇とされているが、実在の可能性がある最初の天皇と考えられており、実在したとすれば3~4世紀頃といわれている。ただし、大彦命が当地にまで来たか、といえば、流石に疑わしい。次いで、斉明天皇4年(658年)、征夷大将軍・阿倍比羅夫が当地に下向した際、自らの祖である大彦命を合祀し、「越王神社」として創建したという。「越王」というのは、北陸地方はかつて「越国」と呼ばれ、その支配者となった大彦命の別名とされる。当神社のほか、古四王・越王・胡四王・腰王などの名の神社が東北地方に多く存在する。「日本書紀」には、阿倍比羅夫が180隻の船団を率いて日本海を北上したところ、齶田の蝦夷の長・恩荷が「齶田浦神」にかけて服従を誓ったという記事がある。「齶田浦神」が蝦夷の神なのかヤマトの神なのか不明だが、これを大彦命が祀った武甕槌神とすることで、ヤマト政権の支配を正当化したものだろう。ただ、当神社が「齶田浦神」と同一であるかは確証がない。とはいえ、「齶田」というのが現在の「秋田(あきた)」という地名の初見とされ、「秋田城」の鎮護社と考えられた。というのも、「日本後紀」(逸文。「類聚国史」による)にある「天長の大地震」(天長7年(830年))の記事において、「秋田城」の鎮護寺院とみられる「四天王寺」と並んで「四王堂」という名が出てくる。四天王といえば持国天・増長天・広目天・多聞天という4人の仏法の守護神であり、「四王堂」は、本来はこの四天王を祀ったものとも思われるが、これが「越王」と習合したものとみられるからであり、中世以降は「古四王大権現」として当地の領主に崇敬されるようになったと考えられる。
更に、「日本三代実録」貞観7年(865年)条に「出羽国高泉神に従五位下を授与する」との記事があり、この「高泉神(たかしみずのかみ)」が当神社のことであるというのが通説。当神社は式内社ではないが、「齶田浦神」または「高泉神」であれば国史現在社ということになる。こうした由緒などから、明治15年には秋田県で唯一の国幣小社に指定され、県内で最も社格が高い神社となった。


秋田県神社庁のHPから(古四王神社)

玄松子さんのHPから(古四王神社)


写真1:「古四王神社」正面。鳥居と社号標


写真2:境内社の「田村神社」。延暦21年(802年)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐に来た際、当神社に戦勝祈願したという伝承がある。


写真3:「古四王神社」拝殿


写真4:同上、本殿
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 続・秋田城跡(鵜ノ木地区)... | トップ | 高清水霊泉 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

神社」カテゴリの最新記事