神が宿るところ

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道鏡法王祠と孝謙天皇宮(茨城県小美玉市)

2023-10-21 23:36:50 | 神社
道鏡法王祠(どうきょうほうおうし)。通称:道鏡様。
場所:茨城県小美玉市竹原1125(「椿山稲荷神社」境内)。国道6号線「竹原」交差点から南東へ約220m。竹原小学校の西側。駐車場なし。

孝謙天皇宮(こうけんてんのうぐう)。通称:天皇様。
場所:茨城県小美玉市竹原1443。国道6号線「竹原」交差点から西へ約700m進んで左折(南へ)、約200m。こちらは社殿の裏側になるが、広めの駐車スペースがある。正面側(鳥居側)へは茨城空港アクセス道路の側道から狭い道路を進むが、駐車スペースもないので、上記のアプローチを推奨。

伝承によれば、第46代・孝謙天皇(重祚して第48代・称徳天皇)に重用された僧・道鏡が太政大臣禅師の頃、当地・竹原郷の村人が訴訟のため京に上ったときに便宜を受けた。神護景雲4年(770年)に道鏡が失脚して「下野薬師寺」(現・栃木県下野市。跡地は国史跡となっている。)の別当に左遷されると、竹原郷民が訴訟の恩義に報いるため当地に迎え、仮庵を結び、その場所を(道鏡の俗姓の)「弓削」と称した。道鏡は孝謙(称徳)天皇のために、庵に観世音菩薩を安置し、御陵を築いて天皇から賜った鏡・玉・剣を納め、「孝謙天皇宮」を建てた、という。御陵というのは、「孝謙天皇宮」の北側(小美玉市竹原1495)にあった「岩窟(岩屋)権現」と通称された古墳で、現在は湮滅しているが、出土した鏡等は「竹原神社」(小美玉市竹原2297)に納められ、石棺は「小美玉市 農村環境改善センター」敷地内に保存されている。道鏡は、一般的には「日本三悪人」の1人(他の2人は平将門と足利尊氏)ともいわれるように、皇国史観からは評判が良くない人物であるが、当地では上記の伝承の通り、左遷されたのは時の権力者に妬まれたからだとしている。この「道鏡法王祠」も、戦前までは婦人病・性病の平癒、安産や商売繁盛に御利益があるとして参拝者が多かったという。
さて、上記伝承では「弓削」という地名が道鏡に因んで名づけられたとするが、実際には逆で、地名が先にあって道鏡伝説に結び付けられたのではないかと思われる。弓削氏というのは古代物部氏の一族で、元は弓を製作する弓削部を統率した氏族とされ、古くから当地にはそうした人々が住んでいたのではないかという説がある。一方、「椿山稲荷神社」の由緒を見ると、永禄2年(1559年)に竹原城主・竹原四郎義国が城の鬼門に当たる当地に城地守護のため建立したとされる。義国は敬神の心情が厚かったので、椿山稲荷の神霊が白狐に姿を変えて主君を守ったといわれ、また椿の木を奉納して境内に植えると病気が治ると言い伝えられている。竹原氏は常陸大掾氏の一族で、常陸国平定を狙う佐竹氏が国府(現・茨城県石岡市府中)に向けて進攻する途上にあり、「弓削砦」という出城が「椿山稲荷神社」南側にあったらしい。城郭研究家・余湖浩一氏によれば、「弓削」は現地では「ゆうげ」というところから、城郭関連地名である「要害(ようがい)」が訛ったものではないか、と推測している。
蛇足:現在の国道6号線(水戸街道)は「竹原」交差点から南西へ真っ直ぐ貫通しているが、かつては丁字路で、交差点から西へ向かうと現・石岡市、北東へ向かうと現・水戸市、園部川沿いに南東に向かうと現・行方市に通じる、交通の要衝であった。だからこそ、常陸大掾氏側も「弓削砦」を築いたのだろうし、江戸時代の竹原は水戸街道の宿場として栄え、元禄年間(1688~1704年)以後には遊女屋も許可されたため、その遊女らが「道鏡法王祠」に多く参拝したという。ということで、「椿山稲荷神社」境内にも道祖神石碑があるが、「ドウキョウ」というのは道祖神の別名である「道饗神(どうきょうじん、みちあえのかみ)」から来ている可能性はないだろうか(個人的な妄想?)。道祖神は本来、疫病や悪霊が村に入ってこないように守る神であるが、後に旅行安全や五穀豊穣・子孫繁栄の神ともされ、石像には男女の神像や男根を象ったものも多い。民間信仰なので、よくわからないことも多いが、民俗学的には面白い例だと思うのだが。


写真1:「椿山稲荷神社」鳥居。標柱は「(旧・美野里)町文化財 竹原椿山稲荷神社」


写真2:同上、本殿。祭神:倉稲魂命(ウカノミタマ)。社殿は東向き。


写真3:「道鏡法王祠」。「椿山稲荷神社」本殿の背後に西向き(「孝謙天皇宮」のある方向)に立つ。元は現在地の北西約10mの小美玉市竹原66にあったが、竹原小学校の移転により、児童の通学時に目立たぬよう移転したという。


写真4:同上、正面


写真5:同上、石造男根像(通称:道鏡様)


写真6:「椿山稲荷神社」境内の道祖神石碑


写真7:「孝謙天皇宮」境内入口


写真8:同上、鳥居


写真9:同上、社号標


写真10:同上、社殿


写真11:「岩窟権現古墳」の箱式石棺(場所:茨城県小美玉市中台559。「小美玉市 農村環境改善センター」敷地内の南側遊歩道にある。駐車場有り。)

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2 コメント

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Unknown (古代史愛好家)
2023-11-14 22:47:22
えええ?私は確か学校(小学校や中学校や高校等)で
道鏡や平将門や足利尊氏って、すごい"ヒーロー”だと教えられた記憶があるのですが……。道鏡は仏教の偉人だと教えられたし、平将門は東国のヒーローだと教えられたし、足利尊氏も室町幕府を作ったすごいヒーローだと教わりました。学校(小学校か中学校くらい)の歴史の授業で。ブログ主様はいつの時代の教育を受けたのですか?平成時代じゃないですか?
私は昭和の教育を受けたのですが、学校で習ったのは道鏡は仏教界のヒーロー、平将門は武家のヒーロー、足利尊氏も室町幕府を作ったすごい優秀なヒーローだと習ったけど。ブログ主様は学校で嘘を教えられてますよ!私の時代には、ヤマト政権なんて言葉で日本史は語られていませんでした!信じられません!
ブログ主様が受けた歴史教育は嘘の洗脳ですよ!
日本の歴史は、ヤマト政権なんて言葉はありません!
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Unknown (ブログ管理人)
2023-11-15 09:02:49
古代史愛好家様、ありがとうございます。
昭和、といっても随分長いので、いつ頃のことか、というのもあるかもしれませんが、昭和でも、戦前は皇国に対する反逆者(とされた)者に対する評価は単純に「悪」であったと思います。戦後は、その反動があったと思います。そして、戦後の昭和は、ヒーローの時代だったのだろうと思います。
ただ、その人物を一方的に「悪」だ、「ヒーロー」だ、というのではなく、どういうことをした人物なのか、ということを学校教育以外の資料にもあたって自分で考えることが大事だと思っています。
学校で習ったことをそのまま信じることこそ、洗脳教育を受けたことにならないでしょうか?
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