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長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡

2020-02-22 23:12:48 | 史跡・文化財
長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡(ちょうじゃやまかんがいせき および ひたちのくにかいどうあと)。
場所:茨城県日立市十王町伊師字愛宕脇3586外。目印となる「愛宕神社」(住所:茨城県日立市十王町伊師2951)へは、国道6号線「伊師」交差点から西へ約650m進んだところの交差点を右折(北へ)、約70m。駐車場なし(鳥居の後ろに1台程度駐車できるか?)。
「長者山官衙遺跡」は、日立市北部(旧・十王町)の標高20~25mの台地東端に位置する、奈良時代から平安時代の官衙遺跡で、「常陸国風土記」多珂郡条に見える「藻島駅家(めしまのうまや)」跡と推定されている。平成17年から行われた発掘調査により、溝で区画された東西134~165m、南北110~116m(不整台形状)の範囲から、8世紀代から10世紀代にわたる12棟の掘立柱建物群と8棟の礎石建物群の跡が見つかった。また、溝の西側を南北に走る道路跡も確認され、これが古代官道の跡として「常陸国海道跡」と名付けられた。建物遺構は大きく3期に分けられ、第1期は7世紀後半~8世紀中葉に相当し、東側に7世紀後半代の竪穴建物7棟、西側に8世紀中葉の南北方向の溝(幅3m)と道路跡(幅6~18m)などがある。第2期は8世紀中葉~9世紀中葉に相当する9棟の掘立柱建物、第3期は9世紀中葉~10世紀代に相当する倉庫と考えられる8棟の礎石建物からなる。掘立柱建物柱穴の埋土や礎石建物の堀込地業上面から炭化した穀類が出土しており、状態で貯蔵されていた稲束が火災により炭化したものらしいという。平成30年に国指定史跡に指定。
当遺跡は現在、「愛宕神社」境内などになっているが、付近に「目島」という字名が残っていることから、発掘調査前から「藻島駅家」比定地とされてきた。発掘調査による第2期の掘立柱建物跡が「藻島駅家」相当するものと考えられる。「日本後紀」によれば、弘仁3年(812年)に常陸国の「藻島」など6つの駅家が廃止されたことがわかる。そこで、第3期の礎石建物跡は、駅家の廃止後に、官衙別院の正倉院(正税を保管する倉庫)に転用されたものとみられているという(蛇足ながら、炭化米が出土するのは、国司・郡司による官物横領の隠蔽のため正倉院に放火する事件が多発したことから、逆に正倉院があった証拠とされるケースが多い。)。
因みに、「常陸国風土記」では、「多珂郡家(郡衙)」の南方30里(約16km)に「藻島駅家」がある、と記されている。今のところ「多珂郡家」跡は発見されていないが、「大高台遺跡」(現・茨城県高萩市下手綱294他、「高萩清松高校」敷地から北側の台地)が通説。ただし、当遺跡から直線距離では8kmほどである。


茨城県教育委員会のHPから(長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡)

茨城県のHPから(藻島の駅家)大高台遺跡


写真1:「愛宕神社」一の鳥居と社号標(「村社 愛宕神社」)。


写真2:「国指定史跡 長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡」の立看板。現在は神社の東側を道路が通っているが、古代官道は西側を通っていたらしい。


写真3:二の鳥居


写真4:拝殿


写真5:本殿。祭神:軻遇突智命。山尾城主・小野崎義昌が城内に奉斎していたのを、天正4年(1576年)に当地(「長者山」)に移したものという。「長者山」、「長者屋敷」などいう地名は古代駅家に関連する例が多い。


写真6:裏参道(社殿の北側)


写真7:社殿裏手の境内(北西側)。当遺跡の中心部と思われるが、雑木林にしかみえない。

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