神が宿るところ

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阿波山上神社(常陸国式内社・その18)

2019-06-15 23:04:39 | 神社
阿波山上神社(あばさんじょうじんじゃ)。別名:降木明神、佐加利子(さがりこ)明神。
場所:茨城県東茨城郡城里町阿波山664。国道123号線と茨城県道112号線(阿波山徳蔵線)の「阿波山十字路」交差点から国道を北へ約400m、押ボタン式信号機のところのすぐ先に当神社の鳥居。「桂中学校」の西側で、国道沿いに細長い境内となっている。駐車場なし。
社伝によれば、大宝元年(701年)、大杉に童子の姿をし、手に粟(アワ)の穂を持った神が降臨した。よって、祠を建てて、この神を祀ったという。現在の主祭神は「少彦名命(スクナヒコナ)」であるが、元々は大杉を祭祀対象にしたものと言われており、「降木明神」との別名があるという。神が降臨した大杉を「降子の大杉」といい、当神社の神木であるが、二代目と言われた老杉(樹齢約1千年、高さ33m、目通り約7mあったという。)は昭和47年に落雷のため焼失したという。また、当神社の社名は、茨城県神社庁のHPでは「あばさんじょうじんじゃ」となっているが、鎮座地の地名も「阿波山(あわやま)」であり(南には「粟(あわ)」という地名もある。)、社伝からしても「あわさんじょうじんじゃ」と読むのが正しいと思われる。当地に「阿波山」、「粟」という地名があるのは、当地が常陸国に粟が最初にもたらされた場所であるという伝承があるためとも言い、あるいは粟の大産地であったためともいう。因みに、「常陸国風土記」那賀郡の条に「粟河を渡ったところに河内駅家がある」という記述があるが、この「粟河」が現・那珂川の古名であり、当地はその上流に当たる(当神社は那珂川の右岸にあり、河岸まで約500m。)。なお、社名に「山上」とあるが、鎮座地は平地であり、社伝からしても元々山の上にあったとは思われない。古代の当地は「阿波郷」(和名類聚抄による)に当たり、現在の「阿波山」と「粟」を合わせた地区と考えられるが、その北側(上)にあるところから「阿波山上神社」としたともいわれる。祭神については、スクナヒコナは大国主命(オオクニヌシ)に協力して国土開発を行った神とされ、国造りを終えた後、「淡島」で粟茎(あわがら)に弾かれて常世国に渡ったという伝説もある(日本書紀)ということで、「粟」に所縁がある(因みに、現・和歌山県和歌山市の「淡島神社」は、全国の「淡島神社」の総本社とされ、主祭神は少彦名命である。)。「日本三代実録」の仁和2年(886年)の記事に「常陸国從五位下阿波神に従五位上を授ける」という記事があり、これが当神社のこととされている。また、「延喜式神名帳」に登載された常陸国那賀郡鎮座「阿波山上神社」に比定される式内社となっている。
蛇足:「常陸国風土記」筑波郡の条に、富士山と筑波山を比較する説話が記載されている(これについては、いづれ書きたい。)。注目すべきは、「初粟新嘗(わせのにいなめ)」が神祖(みおや)の宿泊を断るほどの重要な神聖行事とされていることで、ここでの「粟」はアワではなく、脱穀されていない稲実であるとされているものの、古代における「粟」の重要性の一端が示されていると思われる。


写真1:「阿波山上神社」一の鳥居と社号標(「延喜式内 阿波山上神社」)


写真2:参道脇にある「大山草庵跡」の石碑。浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、師である法然上人の孫弟子・行観上人が開いた当地の浄土宗「阿弥陀寺」境内に草庵を結び、建保4年(1214年)に法然の三回忌法要を行った。これを真宗興行の法要といい、大山草庵を浄土真宗開宗の地という、とのこと。なお、浄土宗「阿弥陀寺」は天保13年(1842年)に廃寺(当神社社殿の東側の共同墓地が名残り)。 大山草庵を引き継ぐ浄土真宗「阿弥陀寺」は明徳3年(139年、現・茨城県那珂市額田南郷の「額田城」内へ城の守護寺として移転、現存している。


写真3:参道途中の二の鳥居


写真4:参道途中にある「御神木由来」の石碑と御神木跡(3代目?育成中)


写真5:拝殿


写真6:本殿
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