神が宿るところ

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國都神神社(常陸国式外社・その13の2)

2023-08-26 23:33:51 | 神社
國都神神社(くにつかみじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市上太田681。茨城県道114号線(下太田鉾田線)と同115号線(子生茨城線)の「旭村農協前」交差点から114号線を北へ約1.6kmで右折(東へ)、約400m。駐車場なし(北側の「上太田公民館」に若干の駐車スペースがある。)。
社伝によれば、和銅3年(710年)、当地に疫病が流行したとき、時の村長・大碓時度(オオウストキノリ。日本武尊の兄である大碓命24世孫)が「明鳥舞山(みょうとふざん)」に籠って天神に祈願したところ、夜半に光り輝く神が東の海から飛来して次のように霊示した。「我は昔、国造だった槁根津日子(サオネツヒコ)という神である。天神の勅を奉じて、邪気を払い、この地を安堵させる。心配するな。」。時度が霊夢に感じて更に祈ると、7日目に高さ1尺ほどの霊石が現れた。直ぐに祠を建て、霊石を安置して祀ったところ、忽ち病難は収まったという。「日本三代実録」貞観16年(874年)の条に「・・・常陸国の立野神・飛護念神・國都神・・・に従五位下を授ける。」という記事があるが、その「國都神」が当神社のこととする。明暦3年(1657年)、別当寺が炎上して古記録を喪失。近世には国神明神と称し、明治維新頃に「國都神神社」に改称した。明治12年、村社に列格。祭神は槁根津日子命。
ということで、常陸国式外社(国史見在社)「國都神」の論社ということなのだが、まず、祭神が珍しい。槁根津日子は「古事記」での名で、「日本書紀」によれば、神武天皇の東征のときに「速吸門」(豊予海峡?。諸説あり)で出会った国津神で、水先案内を務めた。その功により、珍彦(ウヅヒコ)という名を椎根津彦(シイネヒコ)に改め、倭(大和)国造に任じられて、大倭直の始祖となったという。なお、記紀では、初めて出会った時に神武天皇から「汝は何者か?」と聞かれて、自ら「私は国神です。」と答えている。
常陸国式外社「國都神」については、現・茨城県行方市の「国神神社」(2022年11月12日記事)に比定することが多いが、それに確実な根拠がある訳ではない。ただし、当神社が式外社「國都神」であるというのは、南に約300mの距離にある「楠木神社」初代宮司で、当神社の社掌でもあった和田勘恵が言い出したことらしい。「楠木神社」(住所:鉾田市上太田527)は、明治12年、南朝方の武将で第96代・後醍醐天皇の忠臣である楠木正成公を祭神として、その後裔を称する和田勘恵が創建したとされる(なお、境内は大碓時度の屋敷跡であるという。)。申し訳ないが、上記の社伝で、当地の村長が日本武尊の兄の子孫だったり、記紀において自ら「国神」と名乗っている神が祭神だったりというのは、あまりに出来過ぎというような気がする(どちらも、当地と関係が深そうではないと思うのだが。)。さて、どうだろうか。


写真1:「國津神神社」境内入口。鳥居と社号標。説明板は鉾田市天然記念物「国都神神社の椎」についてのもの。


写真2:拝殿。倒木による破損のため屋根などを補修しているが、傷みが目立つ。


写真3:本殿(覆い屋)


写真4:神木の椎(シイ)。説明板(鉾田市教育委員会、昭和60年)によれば、創建者の大碓時度が植えたという伝承があるもので、幹回り(目通り)6.52m、樹高14m。


写真5:由緒石碑

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