goo blog サービス終了のお知らせ 

神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鹿島神社(茨城県かすみがうら市宍倉)

2025-05-19 23:31:49 | 神社

鹿島神社(かしまじんじゃ)。通称:宍倉鹿島神社。
場所:茨城県かすみがうら市宍倉838。茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)と同194号線(宍倉玉里線)の交差点の北東側。118号線沿い(社殿裏)に駐車場あり。
社伝によれば、大同4年(809年)の創建。宝物として能楽で用いられる翁面2面があり、一方には、翁面の伝説的な作者(面打ち)である「日光」(室町時代?)銘があるという。江戸時代には水戸藩の庇護が篤く、第2代藩主・徳川光圀のとき、延宝元年(1673年)に本殿を再建、御神体を寄進された。また、宍倉・成井・上軽部・下軽部の4ヵ村の総鎮守とされ、明治6年、村社に列格された。祭神は武甕槌尊。


写真1:「鹿島神社」境内入口、社号標(「宍倉総鎮守 鹿島神社」)。「風返稲荷山古墳」(前項)は、この前を通って、いったん谷へ下りて、また上った台地上にある。


写真2:鳥居


写真3:参道脇の杉の巨木


写真4:拝殿


写真5:本殿。現在のものは元文5年(1740年)に再建されたものを、平成13年に古材を再利用しながら建てられたものという。


写真6:境内社

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島神社(茨城県かすみがうら市牛渡)

2025-05-07 23:32:25 | 神社

鹿島神社(かしまじんじゃ)。通称:牛渡鹿島神社。平三坊。
場所:茨城県かすみがうら市牛渡4190。国道354号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「手野町南」交差点から県道を南~東へ道なりに約12.5km進んで(「→県指定文化財 石造九重層塔」の案内看板が出ているところ)左折(北西へ)、約650mで左折(西へ)して狭い道路に入り、約100m。駐車スペースあり。
社伝によれば、大同元年(806年)の創建。常陸国一宮「鹿島神宮」に勅使が下向の折には、当神社に参向・休息の後、船で向かったとされる。現・かすみがうら市の出島地区(旧・出島村)には「鹿島神社」が多いが、それらの本宮として「本鹿島」とも称されたという。当神社の西、約500m(直線距離)のところに「牛渡銚子塚古墳」があるが、当地で亡くなった勅使を埋葬した「勅使塚」が訛ったものとの伝承がある(ただし、前方後円墳は上から見た形が銚子に似ていることから、「銚子塚」と呼ぶ古墳は他にも多く存在する。)。「天慶の乱」(939年)のとき、平将門により兵火に遭い、神領も没収されて衰微した。「前九年の役」のため天喜5年(1057年)に源義家が当神社に戦勝祈願し、神領を寄進。中世には領主・小田氏の庇護を受けたが、小田氏が佐竹氏に敗れると、神領を没収された。その後も社殿の造営等を繰り返し、明治6年、村社に列格。現在の祭神は、武甕槌命。なお、元は社殿の後ろに神木の杉の巨木があり、県が天然記念物に指定しようとして調査したが、何回か火災に遭っているため、余命わずかということで取りやめになった。昭和48年、枯死寸前となって伐採されたが、根元の切り口の直径が約2.5mあり、当時で推定樹齢約700年といわれていたとのこと。
因みに、「平三坊(へいさんぼう)」というのは、当神社で毎年5月5日に行われる田植え神事で、起源は不明だが、平三(平左)という農夫が、田植え時になって女房が臨月になったので、無事田植えが終わるまで出産を延ばしてほしいと祈願したところ、田植えが済んでから出産になったので、お礼に奉納したといい、平三女房が詰まったものともいう。ハイライトは、顔にすすを塗った老爺・平三坊が木製の大きな男性器で2人の妊婦姿(女装)のおかめの腹をつつき、性の営みのしぐさをするというもので、その後、2人の早乙女と神主が田植えの所作を行う。この神事は、稲穂が大きく孕み豊かに実ることを祈願するものとなっている。
また、こんな笑い話もある。元旦の祭は、氏子の旧家の当主と神主が拝殿で御神酒を捧げて祝うが、終始無言で、誰も見てはいけないとされている。ある男が板戸の節穴から中の様子を覗き見し、見終わって離そうとしたが、顔が離れなくなった。以来、つまらない戯れ事を「いたづら」というようになったという。

牛渡銚子塚古墳(うしわたちょうしづかこふん)。
場所:茨城県かすみがうら市牛渡4002-2。駐車場なし。周囲を含め個人所有地らしく、見学注意。
全長約64mの前方後円墳で、前方部幅約38m・高さ約2.7m、後円部径約34m・高さ約5.6mとされる。前方部は西向き。後円部に比べて前方部が低いという比較的古様を留めていることから、築造時期は5世紀頃と推定されている。かすみがうら市指定文化財。なお、東側約25mのところに「牛渡銚子塚東古墳」という帆立貝式の前方後円墳があるとのこと(現在は削平されて全長約25mだが、元は約40mあったとされている。)。


かすみがうら市観光協会のHPから(へいさんぼう)


写真1:「鹿島神社」鳥居。鳥居前から南南東に参道のような道が伸びているのだが、先の方は抜けておらず、行き止まりになっている。


写真2:同上、拝殿


写真3:同上、本殿(覆屋)。社殿は「平三坊貝塚」という貝塚の上に建てられているとのことで、先史時代からの集落があった場所らしい。


写真4:「牛渡銚子塚古墳」前方部(北側の道路から見る。)。


写真5:同上、縊れ部分がよくわかる。


写真6:同上、前方部(西側から見る。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十握神社(茨城県阿見町)

2025-05-03 23:35:16 | 神社

十握神社(とつかじんじゃ)。
場所:茨城県稲敷郡阿見町廻戸421-2。「室崎神社」(前項)境内前から北西へ道なりに約650mで、信号のある交差点(「福祉センターまほろば→」の案内標識がある。)を右折(北東へ)、約60mで左折(北西へ)、約130mで「福祉センターまほろば」がある(駐車場あり。)。「十握神社」は、その先の突き当りを右折して(北へ)直ぐのところに参道入口がある。
当神社については、常陸国信太郡の式内社(論社)「(竹来)阿彌神社」(2018年5月5日記事)、「室崎神社」(前項)とともに「竹来三社」と称される神社で、祭神は経津主命とされる(「竹来三社」については前項参照。)。「茨城縣神社誌」などによれば、明治41年、常陸国信太郡のもう1つの式内社(論社)「(中郷)阿弥神社」(2018年5月12日記事)に合併されたことになっているが、...現存している(詳細不明)。現在地は、霞ケ浦を見下ろす台地上の先端で、南東に約800mのところに「室崎神社」、同じく約1.5kmのところに「(竹来)阿彌神社」があって、地図で見ると「竹来三社」はほぼ一直線に並んでいることになるが、これは何か意図的なものなのだろうか。
ところで、現在の当神社の境内地は細長い形になっているが、この台地上の全体に「廻戸城」という中世城館があったらしく、当神社もその城域内だったとみられている。「廻戸城」も詳細不明だが、天正年間(1573~1592年)には土岐大膳大夫の家臣・高野次郎八郎の知行地であったという。「福祉センターまほろば」の場所が城館の中心部だったようだが、遺構は殆ど残っていない模様。また、「福祉センターまほろば」入口の右手(南東)斜面に「廻戸貝塚」という縄文時代中後期の遺跡があり、主としてハマグリ・アサリなどの貝殻のほか、土器片や石器類も発見されている。つまり、先史時代から、霞ケ浦を見下ろす、住みやすい場所であったということになるのだろう。
蛇足:当神社の社名の由来は不明だが、「十握」といえば、「十握剣」が連想される。「握」は長さの単位で、握り拳の幅を言うので、「十握剣」は固有名詞ではなく、10握の長さの剣一般を指す。「握」の長さは明確に何cmとは決まっていないようだが、10握といえば概ね80cm前後と思われる(古代の剣なので、刃と一体となった柄の部分を含めた全長だろう。)。「十握剣」とされるものはいくつかあるが、例えば、「出雲の国譲り」の場面で、建御雷神が十握剣を逆さに突き立て、その切っ先の上に胡坐をかいて、大国主神に対して国譲りを迫っている。この剣は、後に神武東征の折、神武天皇に与えられるが、「布都御魂(韴霊)(ふつのみたま)」という名であるとされている。ところで、「葦原中国平定」の場面で、「日本書紀」では、派遣される雄々しい神として選ばれたのは経津主神で、建甕槌神(建御雷神)は副官という扱いとなっているが、「古事記」では経津主神は登場せず、建甕槌神と天鳥船神が派遣されたことになっている。そして、建甕槌神の別名を建布都神(タケフツ)または豊布都神(トヨフツ)というとしている。そこで、「フツ」というのは剣が断ち切る様や音を指すということから、経津主神は剣の威力を神格化したものではないか、あるいは、建甕槌神と経津主神は同一神ではないか、という説もある。


写真1:「十握神社」参道。境内の奥は崖で、左手の道路は崖下への急坂となっている。


写真2:社号標。実際にはかなり傾いていて、社号標を垂直のように撮影したら、奧の鳥居が傾いた変な写真になってしまった。


写真3:鳥居


写真4:拝殿。手前の円く見えるのは、土俵。


写真5:本殿


写真6:台地の先端部分にある境内社(「稲荷神社」と思われる。)


写真7:「福祉センターまほろば」。建物の背後の樹林で当神社と隔てられている。


写真8:「福祉センターまほろば」敷地から見下ろす霞ケ浦(北東方面)。奥に見える陸地は、現・かすみがうら市。


写真9:「廻戸貝塚」説明板

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

室崎神社(茨城県阿見町)

2025-04-30 23:33:21 | 神社

室崎神社(むろさきじんじゃ)。
場所:茨城県稲敷郡阿見町大室494(茨城県神社庁HPによる。現在は大字「曙」の地内だと思われる。)。国道125号線「大竹橋」交差点から北へ約500mで右折(東へ)、茨城県道231号線(稲敷阿見線)を約300m進んで突き当りを左折(北へ)、約30m。駐車場なし。
社伝によれば、当神社の祭神は、常陸国信太郡の式内社(論社)の通称「竹来阿彌神社」の相殿に祀られるところだったが、貞観4年(862年)あるいは仁和3年(887年)に、神託により当地に奉斎したという。現・阿見町竹来の「阿彌神社」(2018年5月5日記事)の創建には諸説あるが、同神社の社伝では推古天皇15年(607年)とされており、主祭神の建御雷之男命と相殿の経津主命と天児屋根命とを総称して「竹来三社」と称したという。ただし、「竹来三社」というのは、同神社と、経津主命を祀る「十握神社」(次項予定)及び天児屋根命を祀る当神社を合わせた3つの神社のこととする説もある。「(竹来)阿彌神社」の項でも書いたが、これは常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)とその境外摂社の「坂戸神社」(2017年10月14日記事)及び「沼尾神社」(2017年10月21日記事)に準えたものとも考えられている。当神社の創建の経緯を含め、謎は多いが、詳細は不明。現在の祭神は、天児屋根命。
なお、当神社の南西約250m(直線距離)のところに「曙のグミ」という、茱萸(グミ)の巨樹がある。元々、グミの樹はさほど大きくはならないので、巨樹というイメージではないが、この樹の幹周は約2.36m、高さは約10mとされ、推定樹齢は約500年という。周辺が住宅開発されて地名も「大室」から「曙」に変わっているが、元は「室崎神社」の馬場先で、木の根元に道祖神なども祀られている。グミは、焼くと人の焦げるような悪臭があるため、村内に邪霊・悪鬼が侵入するのを防ぐ意図で植えられたと考えられている。実は、宅地造成時に、この樹を伐採しようとしたところケガ人が出たので、それを仏の祟りと受け止めて作業を中止したという話があるらしい。今も、春に花が咲いて、初夏に実が赤く熟す(食用可)という。茨城県指定天然記念物。


茨城県教員委員会のHPから(曙のグミ)


写真1:「室崎神社」鳥居


写真2:拝殿。写っていないが、拝殿前に土俵がある。


写真3:本殿


写真4:境内社「竜神社」(旧「海軍神社」)。戦時中、現・阿見町に海軍航海学校の分校があり、後に海軍気象学校として独立した。この海軍気象学校の「水神」として建立されたものという。


写真5:境内社「天満神社」(祭神:菅原道真公)


写真6:「曙のグミ」。西側から見る。(場所:茨城県稲敷郡阿見町曙151-106。「室崎神社」境内入口から茨城県道231号線を南に約200m進んで右折(西へ)、約90m。駐車場なし。) この樹のために、ここだけ道路がカーヴしているのがわかる。


写真7:同上。根元に「馬頭観世音」供養塔が見えるが、他に石仏などがあるようだ。


写真8:同上。北側から見る。


写真9:同上。東側から見る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埴生神社(千葉県成田市郷部)

2025-04-19 23:32:20 | 神社

埴生神社(はぶじんじゃ)。通称:三ノ宮様、三ノ宮埴生明神。
場所:千葉県成田市郷部994。千葉県道18号線(成田安食線)「郷部」交差点から県道(通称「西参道三の宮通り」を南東へ約500m。駐車場あり。なお、有名な「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)の西、約700m(直線距離)のところにある。
創建時期は不明だが、平安時代前期、土師器製作を行う土師部(はじべ)の一族が当地に集落を形成し、祖神として土の神・埴山姫命(ハニヤマヒメ)を祀ったのが最初とされる。古代より当地は埴生郡と称し、特に「郷部」という地名(大字)は「郷府」が転訛したものともいい、当地方の中心部であったとみられている。その中でも、当神社は旧市内の最も高い場所にあり、社殿は古墳の上に建てられているという。通称の「三ノ宮」というのは、土師部など職業部の集団が移住してきて、現・利根川(古代には「香取海」)方面から南下し内陸に進んだ順に、現・千葉県栄町矢口に「一ノ宮神社」(2022年1月29日記事)、現・成田市松崎に「二宮神社」(旧「二ノ宮埴生神社」)、当神社(三ノ宮)が祀られたのではないかとする説がある。また、社伝等によれば、仁安3年(1168年)、当地の領主・成田五郎頼重が鉱石を奉納したといい、現在も続く当神社の例大祭(神輿渡御)は寛元2年(1244年)に当地の領主・埴生次郎平時常が神輿を寄進したことから始まったとされる(なお、江戸時代までは、「お浜降り」として蓮沼海岸(現・千葉県山武市)まで渡御していたとのこと。)。旧社格は郷社で、現在の祭神は埴山姫命。成田総鎮守と称している。

二宮神社(にのみやじんじゃ)。
場所:千葉県成田市松崎1。「成田西陵高校」正門前から南へ約200m。駐車場あり(ただし、狭いので出入りに注意。)。
社伝等によれば、斉衡3年(856年)以前の創建。古くは「二ノ宮埴生大明神」と称し、松崎・大竹・宝田・上福田・下福田の5ヵ村の鎮守であった。明治元年に「埴生神社」、その後「二宮神社」と改称した。現在の祭神は経津主命。


埴生神社のHP


写真1:「埴生神社」鳥居と社号標


写真2:同上、拝殿。なお、社殿は西向きで、栄町矢口「一ノ宮神社」・成田市松崎「二宮神社」の方を向いているという。


写真3:同上、本殿


写真4:同上、神木の椎


写真5:同上、社殿の背後にある境内社「浅間神社」


写真6:同上、社殿前の境内社


写真7:「二宮神社」鳥居と社号標


写真8:同上、拝殿


写真9:同上、本殿

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする