シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

東独は最初から破綻が …

2013年12月14日 | 歴史をひも解いて
写真は、カタリナ・ヴィット、アンゲラ・メルケル、小型乗用車トラバント。
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社会主義国だったソ連と東ドイツは1990年代初頭に内部崩壊しました。 財政破綻の結果と見ていいでしょう。 つまり あのままソ連と東ドイツという国家体制を続けていくには、金庫の中がカラッケツになっていたから 存続させる資金がなく、どうしようもなかったのです。
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『私は東ドイツに生まれた ― 壁の向こうの日常生活』(東洋書店 2012年) の Book Asahi .com 書評 _ ※追加1へ。
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それはなぜ? それは国民全体の生活水準に見合う収入がないからで、早くいうと収入が少ないのに それ以上カネのかかる生活をし、特に多大な軍事費が財政を圧迫して、もうお手上げになってしまったのです。 軍隊というのは何も生産せず、消費するだけですから、いくら大きな軍隊があっても 国民の飢えた腹には何の足しにもなりません。

1990年当時の東ドイツ国民は 1600万人 (西ドイツは 6300万人)。 軍隊は 18万人 (人口比 1.1%) に加えてソ連軍 36万人 の駐留軍がいました (対して西ドイツの軍隊は 47万人 で人口比 0.75%。 米英仏などの駐留軍は 39万人)。

駐留軍の経費は敗戦国が賄ったから、小さな東ドイツも西ドイツ並の外国人軍隊を養うには元々無理がありました。「ただでさえ経済的に劣る東ドイツとソ連が たった2国で強大な西側勢力に対向する構図になっていたのだ」(記事1から)。

これを読んだだけで、カネ食い虫で何も稼ぐでもなく 大飯ぐらい (?) の用心棒たちを何十年も雇って、財政が持つわけがないと分かりますね。 西ドイツと同じ人口比率並の規模にすれば良かったのでしょうが、そこはソ連側がウンというはずもなかったのでしょう。 何十年もこういう状態が続いた結果、内部崩壊 破綻したわけです。
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東ドイツがこういう歴史を歩むことになったのは、第2次大戦を引き起こしたナチス政権の罪をこういう形で償うことしかできなかったともいえます。 では西ドイツは償っていないのかというと、そうともいえないと思います。

駐留軍の経費や EC の経費を負担して EC 内部では農業国家フランスを工業国家西ドイツが支えているともいわれていました。 それ以外も様々な局面で 西ドイツは西欧のみならず、東欧にも補償問題が浮上すると負担額が多かったはずです。 しかも あまり西ドイツの意見は聞かれず、負担額の結果を押し付けられたことが多かったようです。 敗戦国の弱みですね。

今 統一ドイツは 経済が停滞する欧州の中では唯一の経済優等生ともいえ、繁栄を謳歌していますが、EC を支えるため 膨大な支出を余儀なくされ、いわば ドイツ以外の EC 参加国、特にギリシャなどの破綻国家を倒れないよう 絆創膏をベタベタ張り、包帯をグルグル巻きにしてやっと維持しているようなものです。 別のいいかたをすると、ドイツが支えなかったら ギリシャはとっくに破綻しています。
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「東ドイツは経済面では 熟練労働者の西ドイツへの流出で悩まされていた。 また知識人も西側へ流出していたが、壁が設けられるとやっと歯止めがかかった。 そして計画経済下では、”客は物乞い” という扱いだった」(記事1から) から、競争もなく、新製品開発もしないという閉鎖された社会だった事がうかがえます。 食品や市電の切符代は低く抑えられ、不足分は国が補填していたから、国の負担は増す一方だったのでしょう。

「東ドイツでは 男性の話題はサッカー 車 ビールだ。 新車を入手することは家よりも価値があった。 土曜日にすることといえば、車の手入れだった。 新車を予約してから実際に入手するまで何年もかかったから、車の平均寿命は長かった。 修理も工場次第だから、知人に修理してもらうことが多かった」(同上) といいますから、およそ 日本のカーディーラーのような迅速なサーヴィスなど全く期待できなかったようですね。

国産小型乗用車トラバントは “紙で出来ている” といわれましたが、「平均保有年数は28年という長さで、仲間内ではどうやって代替部品の調達や修理をすればいいのかという話題でもちきりだった。 内部の主要な部分は鉄製だったが、フェノール樹脂と綿布を押し固めたボール紙のような素材で作られていたのはドア、トランク、ボンネットの開閉部、ルーフ、フェンダー (泥よけ) だった。 事故の際にドアやフェンダーが引きちぎられると、ボール紙の内部が露見した。 耐水性に優れていても事故などの衝撃には弱く、”走る棺桶” と呼ばれた」には笑うしかありません。 実物を私も見ましたが、恐ろしく貧弱なつくりという印象でした。 燃料計がなかった記憶があります。

「慢性的モノ不足に悩まされていた東ドイツでは、”窃盗の誘惑” ほど抗いがたいものはなかった。 車の部品交換が終了したと帳簿に記入する整備工がいたとして、それが本当に取り替えたかどうかシロウトには判別しづらい部品だったら? 彼はのうのうとその部品を持ち帰り、個人的な顧客の車に取り付けるかも … これらの窃盗行為には一見無害な呼び名 “再分配” が与えられていた」(同上) といいますから、こういったことが日常的な社会は発展することはないと思いますね。
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統一、というよりは西ドイツが東ドイツを吸収、つまり東ドイツの負債を全て抱え込み、更に10年と 130兆円 もの費用をつぎ込んでようやく破綻しかかっていた東を建て直すことができました。 その過程で、格差や差別が残り、いまだに ヴェッシー (Wessi)・オッシー (Ossi) という言葉があるように西側、東側を区別することがあるようです (西 West 東 Ost をもじった差別語)。

また 東ドイツの秘密警察シュタージ (Stasi) とその協力者は要職から追い払われ、その後がまには西ドイツからの出身者が居座ったり、また西ドイツの企業に組み込まれる過程で、管理職は西ドイツ出身者が占めたのも理解できます。

シュタージとその協力者は、国民の3〜4人に1人という比率でしたから、それが明らかになってからは 旧東ドイツの人々に深刻な影響が暫く残ったのも、これまた当然のことでしょう。

昔 30年位前でしたか、途中入社の若い人の話しを聞いたことがあります。 彼は以前 日本の大手商社の東ドイツに駐在していたのですが、同僚や先輩から「東ドイツ人と話す時には気を付けろ。 数人に1人は秘密警察官だからな。 つまり 会社組織でも居酒屋でもどこでも3〜4人のグループがいたら、そのうちの1人はスパイだ」と注意されたそうです。
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総体的にあまりパッとしない東ドイツでしたが、フィギュアスケート界ではカタリナ・ヴィットという逸材が出ました。

彼女について 本の著者リースナーの、「常に自分の希望を満たしておくよう要求してきたので、東ドイツの上層部は彼女のご機嫌取りに随分苦労したようだ。 自分の市場価値を熟知していたカタリナは、彼女が西側へ亡命してしまわないかと危惧する政府のお偉方の心情を手玉に取っていた」という下りが面白いですね。 恐らく東ドイツ・スポーツ界で 今も世界で記憶されている唯一の人物、美人選手でしょう。 冒頭写真でもその颯爽とした美しさが見えるようです。

余談ですが、人口の割に国際スポーツ競技やオリンピックで優勝・金メダルを取る東ドイツ・スポーツ選手が多かったです。 だが 国家の要請から薬で筋肉を増強した選手もあり、それは後で選手本人に後遺症となって現れたケースもあるという。 ヴィットについてはそういう噂は聞きません。 必要なかったのでしょう。
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そして差別されながらも、100% 東ドイツ出身でもないらしいアンゲラ・メルケル (冒頭写真) は、東側で育ち 統一後 政界入りして首相にまでのぼり詰め、今なお内外で評価が高いですね。 対外的にはその資金 (=ドイツの税金) で EC を支え、国内的にはその財政負担を国民に納得させるという 二律背反的なことをし続けるのは、傍で見ていても難しいことだと想像しますね。 よくも不人気で首相の座から引きずり下ろされないものだと思うと同時に驚嘆します。
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ウィキペディアから 東ドイツ __ ドイツ民主共和国 (Deutsche Demokratische Republik : DDR) は、第2次大戦後の1949年に、ドイツのソ連占領地域に建国された国家。 ドイツ西部から南部にかけての米英仏占領地域に建国されたドイツ連邦共和国 (旧西ドイツ) とともにドイツを二分した分断国家の一つ。 1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で消滅した _ ※追加2へ。

カタリナ・ヴィット (Katarina Witt 1965~) は、旧東ドイツ出身の1984年サラエボ及び88年カルガリーオリンピック・女子シングル二大会連続金メダリストの元フィギュアスケート選手。 1998年には PLAYBOY 12月号でヌードを披露した。

アンゲラ・メルケル (Angela Merkel 1954~) は、ハンブルクで生まれ、生後数週間で両親と共に東ドイツへ移住、物理学を専攻したドイツの政治家。 2005年から第8代ドイツ連邦共和国首相。 ドイツでは女性としては初の大政党党首・首相である。

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最後に、まず普通は知られていない東ドイツの『セックスライフ』についての記述があります。「ラブホテルは、人々が必要性を感じなかったから見当たらなかった。 ドイツの住まいは壁が厚く、ドアには鍵がかかり、大抵の子どもには自分の部屋が用意されている。 つまり 両親のセックスも子どもたちのそれも互いに気づかれずに済ませられた。

両親と同居している若者がしたければ、恋人を家に連れてきて、”一緒に音楽を聞くから” と親にひと言断るだけでよかった。 親子共々気をもまずに済んだ」
といいますから、お国事情が違うといってしまえばそれまでですが。 これは西ドイツもそうそう変わらないんじゃないでしょうか。 あと 日本とは違って冬は桁違いに寒いでしょうから、壁の厚さもそれなりに必要なんだろうと思いますし、またドイツ人は締まり屋でも有名で ラブホなどに散財する人は少ないだろうと想像しますからねぇ。
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さて もう1つの分断国家はどうなるのでしょうか? 平和裡に統合吸収とはならないような印象がしますね。 なにせ 急に大砲を打ち込んだり、他国の人間を拉致したり、爆弾をしかけたり、犯罪行為を平気でやる国ですから。 一筋縄ではいかないでしょう。

以上


※追加1_ ■ 自由を手に入れ 過去を懐かしむ ■
ベルリンの壁が崩壊した翌年、一つの国が40年という短い「生涯」を終え、世界から消えた。 それはドイツ民主共和国――いわゆる東ドイツである。 現在は日本に住む、東生まれで、東西統一時に24歳だった著者は、自身の体験を交えながら、豊富な資料や写真を用いて、かつての「母国」を、その成り立ちから社会システム、政治体制、宗教文化、日常生活などについて、わかりやすく語る。 同じ社会主義国の出身者にとって、甚だ興味深い一冊だ。
 
西側への逃亡を防ぐために、1961年から東ドイツ政府によって建設が始まったベルリンの壁、「鉄のカーテン」と呼ばれるその中での生活は貧しいながらも、自家用車を持つこと (外貨さえあれば外国車も買える) や、我が中国では許されなかった西側のファッション (幾多の屈折を経てジーンズは浸透した) を身に纏 (まと) うこともできた。
 
ルターの故郷だというからプロテスタントだと思われがちだが、東の宗教はプロテスタントとカトリックの混合で、むしろ後者の信徒が多かったという。 信徒を出世させないだの、給料から教会税を天引きして教会に渡さないようにするだの、都市計画の邪魔だといって教会を爆破するだのと、あの手この手を使って政府は宗教への弾圧を続けたが、そうした制圧の中で教会は却 (かえ) って心の休まる「パラレルワールド」となり、人々の「溜 (たま) り場」となっていった。
 
「東ドイツが血を流している大きな傷口のよう」な境界線が崩壊して20余年、近年東の出身者の間で、Osten (東) と Nostalgie (郷愁) の造語「オスタルギー」が流行っているという。 自由で豊かな暮らしが手に入った一方、かつて東になかった失業、あるいは保障されていた女性の地位などに関する問題も顕在している。 そもそも問題のない社会など存在しない。 過去とは、やはり戻れないからこそ懐かしいのだろう。
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※追加2_ DDR は社会主義国であった。 多数のソビエト連邦軍が駐屯する冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソビエト連邦の衛星国であった。 また 秘密警察である「国家保安省 (シュタージ)」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった。 シュタージは職場や家庭内に非公式協力者 (IM) を配置し、相互監視の網を張り巡らせた。

経済では中・東ヨーロッパの社会主義諸国でも最も発展し、「社会主義の優等生」とも呼ばれていた。 1970年代以降は公共投資が進み、日本の企業も積極的に進出し、東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツには大きく水を開けられ、消費資材などの供給が少なく、重化学工業生産が優先されていた。 経済成長に偏向し過ぎたため、深刻な環境問題などを引き起こすことになった。

1979年の第2次オイルショックで、東ドイツの不景気はさらに加速するようになった。 1982年に東ドイツは財政破綻の危機をむかえたが、それを防いだのは1983年と84年の2回にわたる西ドイツからの何十億マルクもの出資であった。

以上

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