原発問題

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【フクシマ見聞録】理解できない。私からすると街をぜんぶ吹っ飛ばして人を殺した国ですから ※68回目の紹介

2017-01-25 22:09:36 | 【フクシマ見聞録】

1876to1945さんのツイート(2013年10月01日~)を順に紹介します。68回目の紹介

【フクシマ見聞録】

理解できない。私からすると街をぜんぶ吹っ飛ばして人を殺した国ですから

Akira Tsuboi@1876to1945さん 2014年1月9,10日のツイートから

 

福島行-広島へ向かった時のホテルの同室は陰気な年配の男で、
話しの交通がどうにも図れなかった。

自分は集団でホテルを予約してもらいながらもっぱら
一人で広島の街をぶらついていた。

原爆ドームのある川のほとりから、広島の市街地へむかう途中は
夜の街になっている。午前1時、深夜の平和公園へ-

 

-向かうと、翌日の式典で空へ放たれる白い鳩を満載した木箱のなかで、
無数の鳩たちが夜のなかで呼吸しているのを認めた。

『安らかに眠ってください もう過ちは繰り返しませんから』
と刻まれた石碑の周りには深夜にもかかわらず僧形の一段がおり、
読経を捧げ続けていた。席の周りには篝火が焚かれ、-

 

-鳩のたてる音、僧侶の読経がいりまじって聞こえていた。
この広島へ向かう旅程に自分は身を軽くするために

(絵本を販売するためにもろもろ荷が増えていた)
録音機材もカメラも持参しておらず、
そのあたりの音を拾えずに後悔していた。-

 

-碑文にある『安らかに眠ってください もう過ちは繰り返しませんから』
という言葉を巡り、騒動があることを聞いていた。

この言葉の主語をめぐる混乱だった。米国による原爆投下という事態があり、
日本も戦争に没入していった事実もあり、『過ち』という言葉が
日本政府にかかると捉えると、-

 

-右翼側からすると日本政府のなした過ち、となる。
彼らにはそれがゆるせず、この碑の損壊を図る事態もあったという。

深夜の公園に向かう際に利用したタクシーの運転手は被曝3世の男性だった。
爆砕直後、市街が灰燼にされて呉の海までが原爆ドームの脇から見えたのだという。-

 

-そんな亡くなった母御の見聞を語りながら自分を送ってくれた。

「でもまったく理解できないのは、今の人がアメリカの歌とかを
平気で聴いたりすることですよ-」彼は言っていた。

「私からすると、街をぜんぶ吹っ飛ばして、ひとを殺した国ですからね。
理解できない。わからないんでしょうね-」-

 

-「伝えようとしないから、忘れらてしまうんでしょう-」彼は言っていた。

広島の街にはほかにはない静けさがある。多くのことを聞いたあとに
タクシーを礼を伝えており、海の見えたというあたりから見てみると、
高層ビルがそびえていてビルの角々にある赤い小さな光が明滅しているばかりだった。-

 

-僧侶たちの一軍から離れて記念公園一帯をぶらつくと、
公園のはずれに朝鮮人被害者の石碑があった。

大きな亀を土台にハングルで名が刻みつけられて並んでいた。

一帯にあるそれぞれの慰霊の集まりは、それぞれの石碑の周りに
パイプ椅子がおかれ明かりが点っていたが、
-そのハングルの刻まれた石碑のあたりだけ、明かりが備えられていなかった。
色々なものが明瞭になっている場所だった。

 

-飲み屋や夜の店が並ぶあたりで深夜営業のお好み焼き屋があり、
そこで食事をして、ホテルへもどることにした。そのあたりからホテルへもどる途中、
ひっそりと静まり返った住宅街を行った。自分の大叔父のことを思っていた。
戦後右翼で、関西の団体をとりまとめていた祖父の弟は、-

 

-1945年に死んでいたことを聞いていた。ピカの噂を聞き、
8月6日爆砕から三日後に広島に入っていたという。

「ただ見にいった」とだけ聞いている大叔父は、広島からもどった
数日後から体調不良を訴え、まもなく死んだ。理由はわからない。

自分の祖父がやさぐれた生活をしたすえに野垂れ死んだ-

 

-ようなことからすると、荒っぽくその死因も片付けられ、時は過ぎ去ったはずだった。

顔も、写真も残っていない。広島へ着いた時から、大叔父の話を思い出していた。

深夜の道を歩いてゆくと、大きな施設があり、
なにかと思って案内板を見てみると小学校だった。-

 

-爆災直後、ゆくえしれずになった家人、知人にむけて、生き残った人間たちが
その学校の壁にじぶんの消息を書き残していたことが書いてあった。
その書き残しが保存されているという。-

 

※次回に続く

 2017/1/26(木)22:00に投稿予定です。 


【告発!検察「裏ガネ作り」】正直あきれた。検察官の憶測だけで被疑事実が構成されていたのである ※59回目の紹介

2017-01-25 22:00:00 | 【告発!検察「裏ガネ作り」】

*『告発!検察「裏ガネ作り」著者 三井 環 を複数回に分け紹介します。59回目の紹介

口封じで逮捕された元大阪高検公安部長の「獄中手記」~

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**『告発!検察「裏ガネ作り」』著書の紹介

13 暴かれた「謀略」の構図 P179~

 通常の検事事件は、まず捜査機関が端緒をつかみ、内偵捜査を進め、関係者の任意の事情聴取などからある程度の証拠固めを終えて初めて、身柄を取る(逮捕する)などの強制捜査に着手するものである。その際、刑事訴訟法に定める令状主義にのっとり、それまでの捜査結果をまとめた報告書を添えて、裁判所に逮捕令状を請求し、「被疑者が罪を犯したと疑うに足りる相当な理由がある」と判断されると、ようやく逮捕状が発付されるのである。

 ところが、私の”事件”は「罪を犯したと疑うに足りる相当な理由どころか、詐欺師渡眞利の”与太ばなし”以外、正真正銘、何の証拠もなかったのだ。内偵もなし。調書もなし。検察官の憶測だけで被疑事実が構成されていたのである。しかし大阪地裁の令状担当判事は、よくもまあこんな報告書で逮捕状を出せたものだと正直あきれた。

 私が現職検事ならこんな危ない操作は絶対にしない。いや、まともな検事だったら私でなくてもしないだろう。しかし大仲健司は無理を承知で逮捕状を請求した。なぜか。

 その日(平成14年4月22日)、どうしても私の身柄を拘束しなければならない理由が検察側にあったのだろう。内偵や証拠固めをする暇もなく、とにかく「はじめに逮捕ありき」の捜査だったということだろう。

 しかし、検察が私を逮捕したことは明らかに失敗だった。一時的な口封じはできても、私を一生勾留することはできない。しかも反対尋問が始まれば、渡眞利証言がボロボロになるのは火を見るより明らかだった。そのとき検察が負う傷の大きさを考えれば、素直に裏ガネ作りを認めたほうがよかったのだ。しかし、もう遅い。

 すでに私は逮捕、起訴され公判も始まっている。そして、公判を重ねるたびに「謀略の構図」が次々と明白になる。公判の中身を知ったら世間も驚くであろう。これからそれをじっくり説明することにする。

 

 ※続き『告発!検察「裏ガネ作り」』(暴かれた「謀略」の構図)は、

2017/1/26(木)22:00に投稿予定です。 

 

告発! 検察「裏ガネ作り」


1月24日(火)のつぶやき

2017-01-25 02:20:08 | つぶやき