*『死の淵を見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。26回目の紹介
『死の淵を見た男』著者 門田隆将
「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」
それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)
吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。
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**『死の淵を見た男』著書の紹介
第5章 避難する地元民
元大熊町長の回想 P83~
(前回からの続き)
昭和29年に結婚して以来、ここから離れたことがない恒子夫人がこう振り返る。
「あんな音、いままで聞いたことながったな。こう、バリバリバリと、なんか割れるような凄い音。ほんで、車にみんなで乗ったのよ。家から出て、振り向いたら津波きてるのはぁ。すんごい高い、まわりの木なんか見えねぇぐらい高い波で・・・。黒っぽい、茶色の泥水っていうかな。怖い。なんとも言えねがった。隣の家の人は津波で亡くなったの。またその向こうの家は津波で亡くなったの。またその向こうの家の人は、津波で亡くなったの。またその向こうの家は、人はなくなんねげんと、家はころっとなくなっちゃった。流されたのよ。車のエンジンがかからんかったら、終わりだったな」
車がエンストしていたら、志賀家からも犠牲者が出ていたかもしれない。娘が運転するアクセル全開の車のおかげで、志賀たちは命を拾った。
志賀は30年以上前に行った手術で視神経が傷つけられ、数年前からは、白内障もあってほとんど失明に近い状態となっている。人が目の前にいても、うっすらと影らしきものを感じるだけで、相手を視覚でとらえることができない。
そのため、志賀地震はこの津波を見ていない。家を離れる時、おそろしい津波だけでなく、なつかしい故郷の姿をそのものを目に焼きつけることができなかった。
福島第一原発の敷地からわずか数百メートルの地に建つ自宅に志賀家が戻るには、気の遠くなるような長い年月が必要だろう。今も、いわきで疎開生活を送る志賀一家にとって、その決死の脱出劇が、愛すわが家への長き別れとなった。
旧家である志賀家には、土塀がある。この土平が津波の勢いを削いでくれた、と夫人は言う。
「家の囲いのとこではぁ、津波は止まったみたい。囲いが昔の土平で少し高くなってっから、そこがずいぶん津波を止めてくれたのよ。門柱は、津波にやられましたがね。水は床上1メートル30センチまできたんけど、仏様は高いところにあるから、位牌は大丈夫だった。家の戸を閉めて飛び出したから、ガラスは壊れたけど、ものは流れはしなかったな」
放射能汚染での避難勧告が出る直前、志賀家の次男が家のようすを見に行った時、庭に魚が打ち上げられていたのを目撃した。
「次男と孫が行ってみたら、何十センチもある大きなボラが津波に乗ってきて、庭にあがってたって。なんで持って来ねがった?っていったけっと」
同じ大熊町内にあるその次男の家で志賀夫妻は、孫たちと共にその夜を過ごすことになる。
「電気も水も何もない。何もくわねぇで一晩すごしてな。次の朝かな、なんかみんな十キロ圏内の人は避難してくださいっていうのな。ここさ危険だから、みんな役場に集合して、って、役場の人たちが何人かで言って歩ってんのよ。拡声器とか使わないよ。
町の職員か消防かなんか歩いて知らせたのよ。ガヤガヤ、ガヤガヤって言ってたから、なんだんべなんてこっちも言ってね。そしたら、”避難命令が出ている。バス迎えに来っから、みんな役場に集まってください”って。みんなぞろぞろ行くから、じゃあ、行ってみっかなんて言って、私たちも役場に行ったんだな」
( 「元大熊町長の回想」は、次回に続く)
※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、
2016/3/14(月)22:00に投稿予定です。
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