*『死の淵を見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。2回目の紹介
『死の淵を見た男』著者 門田隆将
「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」
それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)
吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。
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**『死の淵を見た男』著書の紹介
第1章 激震
それは突然やってきた P23~
それは、いつもと変わらぬ一日だった。
福島第一原子力発電所所長の吉田昌郎(56)はその時、福島第一原発の事務本館2階にある所長室で一人、書類に目を通していた。
間もなく午後3時からは、部門間交流会議が開かれることになっていた。福島第一原発から、外部に出している人間と、逆に東京電力社内の原子力以外の部門から福島第一にやって来ている人たちとの年に一回の会議であり、交流のための懇談会でもある。
この日の会議に出るために、通常は外に出ている職員もわざわざ帰ってきていた。会議が始まるまでに書類に目を通し、必要な判子は押しておかなければならない。吉田は、時計は見ながら、その作業に没頭していた。
吉田のいる所長室は、広い。ゆったりとした所長の机の前には、ミーティングを行うためのテーブルと、その向こうには、応接セットもあった。
広さはゆうに20坪以上はあるだろう。469万キロワットという気の遠くなるような量の電気を生みだす現場を預かる所長室だけに、来客への対応だけでなく、機能も重視したつくりとなっていた。
2011年3月11日午後2時46分。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・異様な音と共に、突然、大地が揺れ始めた。
(地震だっ)
吉田は、すぐに書類をおいて立ち上がった。
原子力発電所にとって、地震への対策は重大だ。いつも頭から離れない重要な「災害対象」の一つである。
東電は、4年前の2007年7月、新潟県中越沖地震で、実に993ガルを観測した激震によって、柏崎刈羽原子力発電所の原子炉が緊急停止し、火災発生などの被害を負っている。
吉田は本店の原子力設備管理部長として、その時、復旧に力を尽くした幹部の一人だった。
あの時は、3号機の変圧器付近で火災が発生し、消火栓の水が地震の影響で出ず、地元消防署の手によって火が消し止められるという事態に見舞われた。
(大事に至らなければいいが・・・)
その記憶も鮮明な吉田の願いに反して、揺れは逆に大きくなっていった。それは机の端を持っていても立っているのが難しいほどの揺れだった。
不気味な音は、ますます大きくなっていく。机の斜め前に置いてあったテレビが、音を立ててひっくり返った。
バリバリバリバリバリ・・・なにかが、引き破られるような音が吉田の耳に突き刺さった。天井に張りつけてある化粧板(天井パネル)がたまらず下に向かって破れ、開いたのである。
横揺れから始まった地震は、いつの間にか突き上げるような縦揺れに変わっていた。
(まずい。机の下に入らなければ・・・)
吉田はそう思ったが、もう、しゃがみこむことさえできなかった。吉田は身長が180センチ以上あり、体重も80キロを超える偉丈夫だ。その吉田が、机の端を強く握って、所長室で立ったまま揺れをこらえていた。 (「それは突然やってきた」次回に続く)
※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、
2016/2/1(月)22:00に投稿予定です。
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