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原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

動燃裏工作部隊「K機関」を暴く ※5回目の紹介

2015-01-09 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」を複数回に分け紹介します。5回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」の紹介

前回の話:動燃裏工作部隊「K機関」を暴く ※4回目の紹介

 この組織がつくられた目的は<特命チームの発足と機関>と題された項目を見ても明らかだ。「署名運動の結果がわかった日まで」というのである。反対運動に対抗するためだけに設置されたのだ。

 文書には「Kチーム」の「連絡指示体系(案)」として組織図も添えられていた。

 トップに動燃の理事長、次いでT副理事長、そしてT理事。実働部隊のトップとなる「本部キャップ」は、当時の総務部次長Z氏。その下に各部署から集めた「総括班」5人、「地域班」7人の計12人が置かれる。「第一案」を作ったY氏は「地域班」の班長で、資料を残した西村氏は総括班員。紛れもなく動燃トップ直属の組織である。

 その一方で「Kチーム」の性格は、極めて奇妙なものだった。例えば「身分」の項目では、

<渉外の過程で、改めて身分を明らかにする事態が生じた場合は、岡山県連絡事務所、所長、特任主管、特任主査という名称を使うものとする>

 まるで身分を偽装したスパイである。しかも、その「任命」は、

<特に発令行為は行わず、人事部長から「従来業務より優先される特命業務」として各部室長へ発信する業務連絡をもって行う>

 というのだ。実際、同時期の動燃の組織図を見ても、「岡山県連絡事務所」なる部署は存在しない。

 さらに「運営予算」について、こう書かれていた。

<数千万円程度必要となる予想であるが、当該予算は、財務部の調整下、会社的協力により核燃料サイクル部にプールする>

 繰り返すが、動燃は国が大半を出資した特殊法人で、いわば「国営」の研究機関だ。その組織内で、予算捻出のために「プール」するというのである。これは「簿外処理の裏ガネ」、つまり税金を「不当」に使用しているということなのではないのか。

 前出の元動燃関係者が、こう説明する。

「ここでのポイントは核燃料サイクル部という部署です。国家が推し進める核燃料サイクルですから、予算は青天井だし、チェックもほとんどない。文字どおり”なんでもあり”の部署。工作の裏ガネづくりにはぴったりでしたよ」

※続き「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く 」は、1/13(火)22:00に投稿予定です。


動燃裏工作部隊「K機関」を暴く ※4回目の紹介

2015-01-08 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」を複数回に分け紹介します。4回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」の紹介

前回の話:動燃裏工作部隊「K機関」を暴く ※3回目の紹介

◎身分は秘匿、工作資金は「プール金」から

 そして、前掲の「第一案」作成日から5日後、2月25日付で本社総務部が作った<人形峠事業所業務の円滑な推進を支援するための特命チームの設置について>と題する社内連絡文書に、こんな記述が躍った。

<名称は、特命チーム(呼称を、Kチーム)とする。特命チームの本部は、本社内に設置するが、特に、室を設ける等の措置は取らない。さらに、地域連絡事務所を岡山県岡山市内に設置する>

「K機関」は「Kチーム」と名称を変え、Y氏の案が全面的に採用されたのだ。

「『K』は『回収ウラン』『工作』、そしてKチームのキャップのZ氏の頭文字だったと記憶している。本社から60人ほどが、日常業務ほったらかしで働いていた。回収ウランの利用は核燃料サイクル完成に不可欠な『国策の中の国策』で、絶対に譲れない。社内はこの特命のためなら何をやってもいいという雰囲気だった。実際、東京と人形峠を何十人もの職員が往復していたし、国会対応のために、結構な人数の職員が議員会館など永田町周辺で張り付いていた」(元動燃関係者)

 文書には、反対運動への”敵意”がにじみ出ている。

<(反対運動は)核燃料サイクルの推進そのものへの全国規模の組織的な挑戦と捉えるべきものである>

<上記挑戦の土壌が、広域に展開する前に、地域風土である”よそ者が庭を荒らすな”を正しい認識から顕現させ、「地域に有益な人形峠」意識を早期に高揚させることが喫緊の課題である>

<原子力基盤技術開発の必要性を地域に浸透させ、今後の人形峠事業所の位置付けを明確にしていくことが、地域社会の理解を得る上で非常に急がれる>

 核燃料サイクルへの反対運動は国家に楯突くものであり、”よそ者嫌い”という土地柄・地域性を利用して全国への拡大を阻止するー社内文書でこんな作戦を高らかに宣言しているのだ。

※続き「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く 」は、1/9(金)22:00に投稿予定です。

(内容の一部)
・・工作に必要な予算・・数千万円程度必要・・当該予算(税金)はプールする
・・元動燃関係者「国家が推し進める核燃料サイクルですから、予算は青天井」
・・原子力施設の地元には、国の「電源三法交付金」が支払われる。この原資は、我々の電力料金に上乗せすることで捻出されている。カネで横っ面をひっぱたき、黙らせる。原子力ムラの得意技


動燃裏工作部隊「K機関」を暴く ※3回目の紹介

2015-01-07 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」を複数回に分け紹介します。3回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」の紹介

前回の話:動燃裏工作部隊「K機関」を暴く ※2回目の紹介

 91年、岡山県の動燃・人形峠事業所に「回収ウラン」構想が持ち上がった。「回収ウラン」とは「核燃料サイクル」の一環で、原発から出た使用済み核燃料から、再利用可能なウランを取り出したもの。動燃は、「回収ウラン」を茨城県東海村から人形峠事業所に持ち込み、再濃縮して核燃料に加工する「回収ウラン転換実用化試験」を計画していた。

 ところが、「回収ウラン」には自然界に存在せず、人体への危険性が高いプルトニウムが含まれることなどから、市民グループが反発。岡山県で大々的に「回収ウラン100万人反対署名運動」を展開した。岡山県内の市町村議会でもこれに賛同の声が上がり、ついには国会でも大きく取り上げられ、動燃は窮地に立たされた。

 そこで動燃はこの署名運動に対抗すべく、回収ウラン転換実用化試験の実現のために世論形成が不可欠と判断。地元有力者や岡山県などの説得のために「K機関」を組織し、水面下の「工作」を始めたのだ。

 その重要性は、先の資料作成の前日、92年2月19日に開かれた「回収ウランPA戦略会議」の「議事概要」を見ても明らかだ。動燃本社幹部らが出席したこの会議で、当時の理事が、

「プルトニウムが含まれても、大丈夫と言えるようなことを考えること」

と指示しているのだ。

 プルトニウムは人体への毒性が強く、核兵器の原料ともなり得る。もし外部に放出されれば、その半減期は2万年(プルトニウム239の場合)ともいわれる。そのプルトニウムを「大丈夫だ」とするロジックが必要なのは、逆にいえば、反対派の動きを、いかに上層部が深刻に受け止めていたかの表れだ。

 ちなみに「PA」とは「パブリック・アクセプタンス」の略。つまり、回収ウラン計画について世論に幅広く浸透させ、地域住民の容認を得るための活動のことだ。

※続き「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く 」は、1/8(木)22:00に投稿予定です。

(内容の一部)
・・工作に必要な予算・・数千万円程度必要・・当該予算(税金)はプールする
・・元動燃関係者「国家が推し進める核燃料サイクルですから、予算は青天井」
・・原子力施設の地元には、国の「電源三法交付金」が支払われる。この原資は、我々の電力料金に上乗せすることで捻出されている。カネで横っ面をひっぱたき、黙らせる。原子力ムラの得意技


動燃裏工作部隊「K機関」を暴く ※2回目の紹介

2015-01-06 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」を複数回に分け紹介します。2回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」の紹介

前回の話:動燃裏工作部隊「K機関」を暴く ※1回目の紹介

 取材班が手に入れた資料の山の中に、ピンク色の表紙に太いサインペンで大きく「K」と記された、謎めいたファイルがあった。厚さは3センチほどもあり、ずしりと思い。茶色に変色した書類は時系列順に丁寧にファイリングされ、あちこちに蛍光ペンで線が引いてある。西村氏が、かかわらざるを得なかった「秘密の業務」の一端だ。

 そこには、思わず目を疑いたくなるようなこんな記述が連なっていた。

<K機関で所掌しているタレントとの会食を通じて洗脳>

<広義な話題を提供し、問題を希釈させる>

<中小信用公庫等財界ラインの利用 笹川系ドン「○○氏(原文は実名、以下同)」を動かす>

<3月中に本社作戦、津山拠点の確保を終了 3月末から4月上旬に県南戦火 津山圏は水面下でゲリラ戦とする>

「K機関」「洗脳」「財界のドン」「ゲリラ戦」・・・もはやわれわれの理解を超えた、スパイ小説のようなフレーズが飛び交っているではないか。

 資料のタイトルは、
<K機関特務隊のアクションプログラム 第1案>

 1992年2月20日付のこの資料の作成者は当時、本社の核燃料サイクル技術開発部の幹部だったY氏。A4用紙3枚の手書きで、1ページ目の左上に「マル秘」と大きく記さている。

 この資料は、地元政財界やマスコミの「洗脳工作」を企てるのに使用されたものだった。

※続き「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く 」は、1/7(水)22:00に投稿予定です。

(内容の一部)
・・工作に必要な予算・・数千万円程度必要・・当該予算(税金)はプールする
・・元動燃関係者「国家が推し進める核燃料サイクルですから、予算は青天井」
・・原子力施設の地元には、国の「電源三法交付金」が支払われる。この原資は、我々の電力料金に上乗せすることで捻出されている。カネで横っ面をひっぱたき、黙らせる。原子力ムラの得意技


動燃裏工作部隊「K機関」を暴く ※1回目の紹介

2015-01-05 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」を複数回に分け紹介します。1回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」の紹介

◎「K」ファイルに記録された異常な世界観

  「あれまぁ、こんなものまで・・・。ちょっと待ってくださいよ。こんな資料一式まであるの?これは方面地区の工作資料と同様のものだ。どこまであなた方は資料を持ってるんだ?本当に困ったな・・・」

 第1章で直撃した旧動燃・人形峠事業所の元幹部X氏は、取材班が示したもう一つの内部資料にしばし絶句した。外は寒風が吹きすさぶが、X氏の額からはなぜか汗がにじんでいた。

「私の仕事は方面地区の工作の比重が高く、こちらの関与はあまりない。ちょっと、その資料をよく見せてよ」

 そう言って取材班の資料に手を伸ばしたX氏は、顔をひきつらせて天を仰ぐと、ポツリとこう続けた。

「『回収ウラン』の計画をなんとか成功させようと、(自分も)プロジェクトに参加していましたが・・。あのときは本社から大勢の応援が来たから。その段取りとか、車の手配とか。こっちは地元だから、いろいろなことをやった。業者に対しては動燃関係の雇用とかあるし、商売になるからとか言って、働きかけもした。(資料を)作成したのは本社だろう。こういう資料は、人形峠ではとても書けないですよ・・・」

 前章で取り上げたのは、単に「原子力ムラの闇」の入り口に過ぎない。動燃は、人形峠を舞台に別の「工作」も仕掛けていたのだ。

※続き「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く 」は、1/6(火)22:00に投稿予定です。

(内容の一部)
・・工作に必要な予算・・数千万円程度必要・・当該予算(税金)はプールする
・・元動燃関係者「国家が推し進める核燃料サイクルですから、予算は青天井」
・・原子力施設の地元には、国の「電源三法交付金」が支払われる。この原資は、我々の電力料金に上乗せすることで捻出されている。カネで横っ面をひっぱたき、黙らせる。原子力ムラの得意技


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※20回目の紹介

2014-12-29 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。20回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※19回目の紹介

 ーウラン残土は、鳥取県と岡山県で計45万立方メートルあるとされている。方面地区にあった1万6千立方メートルのうち3千立方メートルは撤去されましたが、残りは野ざらしのままです

「もちろんこれですべてが解決したわけではありません。3千立方メートルのうち、290立方メートルのウラン残土はあまりに汚染がひどく、アメリカにまで輸送して処分するしかなかったほどです。残った残土はこのまま放置していいはずがありません」

 ー人形峠の調査を振り返り、ご感想は?

「私は原子力発電による環境への汚染や”核のゴミ”の問題などを研究してきました。だが、原子力発電をするには、そもそもウランを掘ることから始めなければならない。その段階から放射能汚染はあるのだ、もっと高い汚染がウラン鉱山で生じるのだと人形峠で気がつき、自分のおろかさを痛感しました。原発がなければ、ウランを掘る必要はないのです。被曝を防ぐことができるのです。いま日本のウランは100%海外からの輸入です。海外ではウラン残土が野ざらしのまま、被曝が拡大しています。ウラン238の半減期は約45億年。人類の被曝を考えると、ウランが最悪の放射性物質なのです」

※「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、今回で終了です。

引き続き、1/5(月)22:00から「第2章 動燃裏工作部隊「K機関」を暴く」の紹介を始めます。
(内容の一部)
・・工作に必要な予算・・数千万円程度必要・・当該予算(税金)はプールする
・・元動燃関係者「国家が推し進める核燃料サイクルですから、予算は青天井」
・・原子力施設の地元には、国の「電源三法交付金」が支払われる。この原資は、我々の電力料金に上乗せすることで捻出されている。カネで横っ面をひっぱたき、黙らせる。原子力ムラの得意技


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※19回目の紹介

2014-12-26 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。19回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※18回目の紹介

ー調査当時、鉱山はすでに閉山して20年以上経過していたはずですが。

「麻畑地区では、土砂が近くの川に崩れ落ちて、それが下流に流れ込み、より汚染を拡大させていました。59年の伊勢湾台風の時は、汚染された土砂が崩壊し、田畑に流れ込んだ。集落総出でそうした土砂を除去したこともあったそうです。鉱山にはガス状の放射性物質であるラドンによる汚染があります。方面地区の鉱山跡地の坑口では、高濃度のラドンが噴出する場所があり、驚きました。ラドンは残土から空気中に逃げ出し、山からの風に乗って、汚染は集落にまで到達していました」

 ー動燃はラドンへの対策をとっていなかったのですか?

「動燃は高濃度のラドン噴出口となっていた坑口を、91年夏にようやく、ベニヤ板と土嚢などで塞ぎました。その後、かなり数値は減った。反対に考えれば、何十年間もラドンはほったらかし、汚染され放題だったということです。希ガスのラドン222は、容易に空気中に放出されるため、拡大範囲がとても広い。一方で半減期が3・8日と比較的短く、想定も難しく実態がわかりづらい。ウランの採掘中、労働者はラドンが充満した劣悪な環境の中での作業を余儀なくされたと推測できます」

※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/29(月)22:00に投稿予定です。


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※18回目の紹介

2014-12-25 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。18回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※17回目の紹介

 ー現場には、いつごろから行ったのですか?

「88年の8月か9月でした。最初に行ったのは、岡山県上斎原村(現・鏡野町)の中津河地区。ところが、現場に私は入れませんでした。報道後、動燃が堆積場を柵で囲い始めたからです。ウラン残土は鳥取県と岡山県の12地区にまたがってありますが、方面地区以外は囲われて入れないようにしていたのです。そのなかで、現地の人が一箇所だけ柵を乗り越えて入りました。サーベイメーターで計測すると、かなりの数値が出た。私の役割は地元から動燃がいう”捨石”を持ち帰って、それを詳細に科学的に分析すること。単なる”捨石”ではなく、放射性物質を含むものだと裏付けることでした」

 ー具体的な調査はどのように行いましたか?

「堆積場の中で測定作業をするなどおおっぴらにできたのは方面地区だけ。あとは柵に囲われていたので、住民の方にお願いして堆積場やその周辺の土砂を採取してもらい、精密な測定をしました」

 ー実際に測定して、その数値はどうでしたか?

「ある堆積場の残土はウラン含有率がとても高く、動燃のいう捨石ではなく、ウラン鉱石として厳重な管理の下で扱わなければいけない数値でした。とりわけ鳥取県側の麻畑地区は高い数値でしたが、残土が野ざらしにされていました。中津河地区の堆積場では空間線量が高く、年間の被曝量を計算すると70ミリシーベルトを超す。放射線作業従事者、いわゆる原発作業員の被曝量の上限が年間20ミリシーベルトですから、とんでもない数値でした」

※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/26(金)22:00に投稿予定です。


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※17回目の紹介

2014-12-24 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。17回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※16回目の紹介

 では、その放射性廃棄物の処分場はどうするのか。その問題は先送りされたままだ。

 日本の原発がこれまでに生み出した使用済み核燃料は、1万4千トン。最終的には地中深くに埋めて処分する計画だが、その処分場の選定は一向に進まず、候補地すら決まっていないのが現状だ。行き場のない使用済み核燃料は国内の原発に貯蔵されているが、再び原発が稼働するようになれば、それもあと数年でいっぱいになってしまう。

 果たして、25年経ってもウラン残土問題を解決できなかった「原子力ムラ」に、同じく地元住民の反発を招くことが必至で、より深刻な放射能汚染の危険がある使用済み核燃料の処分地を決める度量と力量があるのか。資料が示す「住民工作」の手法と結果を見る限り、日本の原子力行政がこの重大な課題を解決できるとは、とうてい思えない。「いつかは何とかなる」という根拠なき楽観論は、「ファイル」を分析すればするほど吹き飛んでいく。

 方面地区の住民資料は、動燃の「裏工作」を示す氷山の一角に過ぎない。「西村ファイル」には、さらに「原子力ムラ」の闇の深さをうかがわせる資料の数々が含まれていたのであるー。


 原子力工学の専門家として原発の危険性を長年、訴えてきた京大原子炉実験所の小出裕章助教は、ウラン残土問題の発覚当初から調査に関わってきた。人形峠をいま、どう見るのか。改めてインタビューした。

 ー人形峠のウラン残土問題を知ったのは、いつですか?

「88年8月中旬くらいに、岡山県の地元紙がウラン残土の問題をすっぱぬいた。確か、学者が調べて判明した、という内容の記事でした」

 ー小出さんが問題に関わるようになった経緯は?
「記事がきっかけとなり、地元では残土の撤去を求める市民運動が起こりました。私のもとに、鳥取県と岡山県の両方の市民から、協力要請がありました。当時は、伊方原発の訴訟に協力していて非常に多忙な時期でした。しかし、サイエンスにかかわる人間として見過ごせないものだと思い、協力することにしたのです」

※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/25(木)22:00に投稿予定です。


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※16回目の紹介

2014-12-23 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。16回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※15回目の紹介

 この取材後、方面地区の残土問題について報じた「週間朝日」の記事は、地元で大反響となった。それに慌てたのか、JAEAは13年6月末、土地の借地料について改めて話し合いを求めてきたという。

「人形峠事務所の所長まで来ましたが、『借地料は一平方メートルあたり4円20銭。これしか払えない』というばかり。放射能が含まれた残土を住民に押し付け、私有地に放置しているというのに、勝手に値段を決めて、我慢しろという。まったく反省がない」

 この地から撤去された残土は一部で、実はまだ大量の残土が残されている。それゆえ、「工作」は現在も続けられているのである。

 亡くなった西村氏は、この人形峠と東京を頻繁に往復していたことが、残された手帳や資料からよくわかる。

 西村氏は総務部文書課長だった1991年10月、「捨石堆積場対策グループ副主幹」の兼務を命じられている。一向に解決しない人形峠のウラン残土問題に対応するための対策チームが組まれていたのだ。

 実際、「もんじゅ」の事故が起きた95年12月の西村氏の勤務表を見ると、一ヶ月に9日間も人形峠事業所に出張している。西村氏の名刺入れからも、鳥取県選出の社会党国会議員の秘書の名刺や、岡山県津山市の飲食店の名刺など、人形峠での工作の痕跡があちこちに残っていた。

「夫は出張先についてあまり言いたがらず、人形峠に何度も行っていたことは、亡くなって資料を見るまで知らなかった。あまり、積極的に関わりたくない仕事だったのではないでしょうか」(トシ子さん)

 現在、国内でウラン採掘は行われておらず、今後、新たなウラン残土問題が発生することはないだろう。しかし、「核のゴミ」の問題は、いままさに我々が直面している喫緊の課題である。

 動燃はウラン残土の処理にこれだけの「工作」を尽くしたが、結局、住民の信頼を得られず敗北した。しかし、これは決して”過去の話”ではない。原発が稼働する限り、大量の放射性廃棄物が発生する。JAEAは、いまも「核燃料サイクル」の旗をおろしていないのだ。

※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/24(水)22:00に投稿予定です。


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※15回目の紹介

2014-12-22 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。15回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※14回目の紹介

◎今も終わっていない人形峠の「住民工作」

 13年2月、我々取材班は、鳥取県側と岡山県側の両側から人形峠に向かった。

 倉吉の市街地から山に向かって車を走らせると、急に気温が下がる。この日の朝は氷点下を記録していた。人形峠にさしかかると、公衆電話ボックスよりも高い雪の壁に行く手を阻まれるほどだった。まったくの異次元の土地に来たような感覚にとらわれた。

 動燃は人知れず、この土地に放射性物質を含む危険な残土を「隠蔽」し、すべてにフタをしようとしていたのか。

 実は現在も「隠蔽」は続いているのだ、と榎本さんは言う。

 方面地区の坑道周辺に残ったままの約1万3千立方メートルのウラン残土は現在、崩落や流出を防ぐために整地され、土砂止めの堰堤などが設けられた堆積場となっている。

 取材班は榎本さんの案内で、堆積場を訪ねてみた。

 「立入禁止」の看板を越えて榎本さんのジープで進んでいくと、舗装された山道は、堆積場に近づくにつれて土がむき出しとなり、やがて石などが転がるガタガタの路面になった。数十センチもの段差の中、榎本さんは車を進めていく。体は上下に揺さぶられ、頭が天井に当たり、「うわぁ!」と思わず悲鳴が上がる。

 ようやくたどりついた堆積場は整地され、竹が植林されるなど一見するとキレイに整備されていた。

 だが、ここは榎本さんをはじめとする地元住民の私有地がかなり含まれている。JAEAは土地を継続して使用するための借地契約の延長を求めているが、榎本さんら地元住民の一部は、現在も応じていない。榎本さんが、こう憤る。

 「つい先日も、定年した人形峠事業所の総務課長が自宅を訪ねてきて、『(応じないのは)どういう考えなのか』と聞いてきた。『それが気に入らないなら、貸さないまでだ』と答えると、『(住民の)多数決で決めましょう』と言う。それどころか『(堆積場は)もううちの土地であなたのものではない』とまで言ってきた。そこで改めて確認しましたが、私に所有権があるのは間違いない。つまり、ウソをついてまで住民を揺さぶり、自分たちの思いどおりにコトを運ぼうとするのです。動燃からJAEAと名前は変わっても、体質や手法はまったく変わらない」

※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/23(火)22:00に投稿予定です。


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※14回目の紹介

2014-12-19 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。14回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※13回目の紹介

◎資料はいまも事業所内で保管

 現在は独立行政法人・日本原子力研究開発機構(JAEA)と名を変えた動燃は、どう答えるのか。後日、広報部に質問状を送ると、文書でこう答えた。

<作成者に確認したところ、人形峠環境技術センターにおいて、当該資料が作成者の退職後も破棄されず残されていることが確認されたものであり、原子力機構としては、当該資料の存在を把握していなかった。なお、作成者によると「地元状況把握のため、自身の手持ち資料として作成した」とのことであった>

 なんと、オリジナルの資料はいまも人形峠に保管されているという。JAEAは「資料の存在を把握していなかった」と主張し、あくまで”個人のしわざ”にしたいようだが、その作成者自身が我々の取材に「本社に何度も送った」と話している。事実、当時、動燃本社にいた西村氏の「ファイル」に、これらの資料が保管されていたのだ。

 JAEAの”弁明”は、さらに続く。

 資料にある数々の「住民工作」について問いただした我々の質問に対し、

<原子力機構は、旧動燃が動燃改革を経て旧サイクル機構として生まれ変わり、その後に旧原研と統合した組織であり、基本方針に「社会からの信頼」、行動基準に「社会とのコミュニケーションを通じ、業務の透明性の向上に努めるとともに説明責任を果たす」と定め、徹底的な相互理解のうえでの業務推進を基本としている>
とした上で、

<旧動燃時代については、現時点ではわからない>
と説明した。

※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/22(月)22:00に投稿予定です。


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※13回目の紹介

2014-12-18 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。13回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※12回目の紹介

 資料には、住民一人ひとりの性格に踏み込んだり、家族の勤務先など本人の思想を直接関係ないことまで書かれている。そのことについて問いただすと、

「口が軽いとか、カネに細かいとかいう個人的な評は、私から見ての話だ」

「誕生日とかは、どうやって調べたのかな。区長に聞いたのかな。本人に直接、聞いた時もあるな」

 もっとも、資料で企てた「工作」のすべてが実行されたわけではないようだ。

「やったものもあれば、やってないものもある。『農協関係者の幹部による説得が必要』と書いたものは、やっていない。やったらどうかという意味。『養子のため、実権は養母にある』と書いた人については、目の前で養母が説得するのを見た。これは効いたかも。なんだかいやらしい話だな」

 資料に”工作案”を書き込んだ本人がこう言うのだから、世話がない。

 実は、資料には事業所のファクスから本社に送信された記録が残っていた。となると、資料を作成したのは本社の指示だったのではないか。この点を問いただすと、

「秘密にしなきゃいけないものだが、本社には地元の人がいないから、どういう状況かよくわかるようにと書いた。本社からの連絡でファクスしたのは一度や二度ではない。状況が変化したときに送っていた。人形峠事業所では所長、部長クラスが見ていた。本社では、これをもとに会議をしていたようだ」

「本社の指示」については最後まで名言しなかったが、少なくとも住民工作の資料は状況が変わるごとに更新され、何度も本社に送信されていたのは間違いない。本社の会議で使われていたということは、動燃が組織的に極秘資料を用いていた、ということにほかならない。まさに組織ぐるみの「工作」である。

 X氏は終始、こう嘆くばかりだった。

「これが表に出たら、非常にまずい。困ったものだ・・・」

※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/19(金)22:00に投稿予定です。


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※12回目の紹介

2014-12-17 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。12回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※11回目の紹介

◎資料を作った「工作員」X氏を直撃取材

 資料を作った張本人X氏とは、どんな人物なのか。榎本さんはこう語る。

「X氏は地元出身で高校卒業後、動燃の前身の原子燃料公社に入り、方面地区の鉱山に配属されていた。実は私も親しい時代があった。そうした行動が”工作”の一環だったとは、思いもしませんでした。口が達者で世渡り上手なタイプで、地区に顔が利くから工作員として情報を探っていたのでしょう」

 当の本人は、いまどのように語るのだろうか。取材班は、現在は定年退職したX氏を鳥取県倉吉市内の自宅で直撃した。

 まず、問題の資料を示して確認を求めると、章の冒頭で書いたように取り乱しつつ、「確かに私が作成したものだけど、まずいよ、これが外部に出るのは。個人のプライベートなことを書いてるから」

 とまくし立てた。「まずい」とわかっているものを作成したのはX氏本人だ。

 次第に落ち着きを取り戻したX氏は、

「(資料は)誰がどういうことを言っているのか、自分で調べたもの。本人や地元の人など、いろんな人に聞いて、私個人の主観を入れて書いた。これは本当にまずいよ、わかるでしょう、あなたも。誰が流出させたのか、明日、(旧動燃)の事務所に行ってどやしつけてやる」

 あくまでも”個人的なもの”だと言いたいようだが、後述するように、それには疑問がある。

 続けて資料の内容について聞くと、X氏はにわかに冗舌になった。反対運動の中心だった榎本さんについては、

「まさにその(書いた内容の)とおりですよ。いまもそうでしょう。何回話してもダメでした。彼は問題をひっかき回していますよ。資料には書いてないけど、もし動燃の方針に賛成すると、榎本さんからの仕返しが恐ろしい、と住民たちが話していました」

「共同通信記者だった土井さんは、榎本さんと一緒に活動している。土井さんが出した本も、とんでもない一方的な内容ですよ。不安をあおり、風評被害を大きくしている」

「榎本さんの長男に嫁が来ないという話は、榎本さん自身が風評にもとづいて『ウランのせいだ』と話していたから書いたんです」

※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/18(木)22:00に投稿予定です。


ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※11回目の紹介

2014-12-16 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。11回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介

前回の話ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※10回目の紹介

 事態がようやく動いたのは99年、後に改革派知事として名を知られることになる片山善博氏(62)が鳥取県知事に就任してからのことだ。片山氏は方面地区を訪れて住民の意見を聞くと、住民側が動燃を相手どって訴訟を起こすことについて、「訴訟費用や手続きなどで全面的に支援する」と、異例の表明に踏み切った。政治のバックアップを受けた住民らは2000年、残土の約束どおりの撤去を求め、旧動燃を鳥取県地裁に提訴した。

 前出の元共同通信記者の土井氏は、当時の様子をこう振り返る。

「裁判の途中、文部科学省の役人が方面地区を一軒一軒回って、『残土の撤去は無理だから和解案をのめ』と、住民の切り崩しにかかってきた。結局、住民の半数ほどが和解案に賛成しましたが、自治会の議決には3分の2の賛成が必要なため通らず、裁判は続行されました。いま思えば、彼らは住民の詳しいデータを知っていた。問題の極秘資料が提供されていたとしか思えない」

 最高裁で残土の撤去を命じる判決が確定したのは、04年のこと。特に放射線量が高い3千立方メートルのうち、よりひどい290立方メートルの残土はアメリカのウラン採掘血に移され、そのほかは約145万個のレンガに加工され、県外へ運びだされた。

「片山知事の決断がなければ、とても実現しなかったでしょう。結局、政治がリーダーシップをとらない限り、動燃側は自力で問題を解決することができなかったわけです。歴代の動燃幹部は2、3年で東京へ帰るまでに問題をおこなさなければ出世できるため、そもそも解決しようという意思が感じられなかった」(土井氏)

※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/17(水)22:00に投稿予定です。