*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之
「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。18回目の紹介
原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-
1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた
高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。
事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、
一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。
死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。
そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、
あまりにも生々しく記録されていた。
(P3「まえがき」から)
「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」
2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。
「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。
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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介
前回の話:ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※17回目の紹介
ー現場には、いつごろから行ったのですか?
「88年の8月か9月でした。最初に行ったのは、岡山県上斎原村(現・鏡野町)の中津河地区。ところが、現場に私は入れませんでした。報道後、動燃が堆積場を柵で囲い始めたからです。ウラン残土は鳥取県と岡山県の12地区にまたがってありますが、方面地区以外は囲われて入れないようにしていたのです。そのなかで、現地の人が一箇所だけ柵を乗り越えて入りました。サーベイメーターで計測すると、かなりの数値が出た。私の役割は地元から動燃がいう”捨石”を持ち帰って、それを詳細に科学的に分析すること。単なる”捨石”ではなく、放射性物質を含むものだと裏付けることでした」
ー具体的な調査はどのように行いましたか?
「堆積場の中で測定作業をするなどおおっぴらにできたのは方面地区だけ。あとは柵に囲われていたので、住民の方にお願いして堆積場やその周辺の土砂を採取してもらい、精密な測定をしました」
ー実際に測定して、その数値はどうでしたか?
「ある堆積場の残土はウラン含有率がとても高く、動燃のいう捨石ではなく、ウラン鉱石として厳重な管理の下で扱わなければいけない数値でした。とりわけ鳥取県側の麻畑地区は高い数値でしたが、残土が野ざらしにされていました。中津河地区の堆積場では空間線量が高く、年間の被曝量を計算すると70ミリシーベルトを超す。放射線作業従事者、いわゆる原発作業員の被曝量の上限が年間20ミリシーベルトですから、とんでもない数値でした」
※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/26(金)22:00に投稿予定です。