2代目は何度でも「バパのトークは大切です。」といいますね。
そうして「バパの記録は保存しなければいけません。」と。
全てのみなもとがそこにあるかのような主張であります。
それはまるで「聖典を作りたがっている」ようにも見えますね。
「聖典作り」はあまたの宗教がやってきたことであります。
教祖が生きた時をピークとしてそれをそのまま保存しようと。
そうやって変わることのない基礎を作りましょうと。
まあそういうことであります。
さて「変わることがないもの」とは「すでに固定している」ということですね。
「過ぎ去った歴史」ということであります。
そこには生命がありませんから何にでもコピーができます。
紙でも、電磁媒体でも、半導体でもガラスにさえ記録保存可能です。
そうして好きな時にiPadで呼び出せます。
でもラティハンはそういう訳にはいきません。
そうしてラティハンとともに生活していく人生もそんな風にはいきません。
好きな時に呼び出して参照できるようなものではありませんね。
時代というものは常に新しくなっていきます。
それに対応できないものは単に人々から忘れ去られるだけであります。
そうして、忘れ去られた記録になど何の意味がありましょうか?
使われなくなった記録、参照されない記録などに意味はありません。
そういう訳でバパのトークが意味をもつとすれば、それはラティハンが前提であります。
ラティハンを受けている、続けている人達の存在がまずは必要なことであります。
トークの保存はいいでしょう。
それでラティハンの保存はどうするおつもりですか?
いったいその事について2代目はどう考えておられるのか、疑問に思うことが多いのであります。
PS
時代というのは常に変化していくものであります。
状況は無限に変化していくのです。
そうしてその変化に対応できるものはまた生命をもつもの、「現実にその時に生きている我々」だけなのであります。
固定化した過去の情報をどれだけ集めてみたところで、それが出来るとはとても思えません。
手紙やらトークやらでバパが回答した全てのものを集めて「デジタル バパ」を作ってみたところで新しい状況には対応できないのですよ。
どれだけ集めてもバパはネットは知りませんし、iPadも知らないのですからね。
さて、バパから手渡された、生きたもの、生命があるものは「ラティハン」であります。
ですので頼るべきは「デジタル バパ」ではなく「ラティハン」であるのは明らかなことなのでありますよね、2代目さん。
PS
バパの新しいトークが出なくなりました。
↓
「トークの解釈」あるいは「トークの選択」によって「~ガイドブック」ができました。
↓
「~ガイドブック」が「教本化」します。
↓
「教本」ができたので「教義」がきまります。
↓
「教義」がきまりましたので、これで「宗教化」の完成です。
↓
・・・・・・
というような事にしてはいけませんよね。
バパも言っておられます。
・・・・・・・・
あらゆる宗教(に従う人)はラティハンヘ来て、そこで礼拝している。
若し、人が自分の固有のそういう本を受けたならば、その時には彼は最早、他の全ての本を受ける事はなくなるであろう。
何故ならば、そういう本というものはドグマだからである。
そして、一つのドグマは他のドグマと決してピッタリ一致はしない。
しかし、我々の会の中にはドグマはないのだから、そういう本、聖典はないのだから、 あらゆる宗教が我々の協会に入る事ができる。
或る宗教の信者が一度我々の会に入れば、彼に与えられるものは、彼の自我から、そして、彼の自我に合致して訪れて来る。
そこで、そういう人達は知るのだが、 宗教、つまり、真の宗教というのはナショナリスティックなものではない。
そこにはナショナリスティックなものはないのである。
「神は全ての人間にとって同じであり、一つであるから」という事を悟る事が出来るのである。
そして、各人が自分の性質に則って、添って受けるのである。
・・・・・・・・
(84・7・6 CDK)
PS
こんなことを言っている人もおります。
・・・・・
すべての問題について解き方や考え方を理解しろというのも無理な話だ。
問題は解き方や考え方を知らないことではなく、知らないままで満足してしまうことだ。
問題について答えを知っただけでよしとするのがいけないのだ。
宗教にとって教義や経典は答えである。
質問に対して経典のココにこう書かれていると答えるのは質問に対して答えだけを述べていることにあたる。
答えだけを言ってもしょうがない。
その答えに至る考え方も述べないといけない。
考え方というのはどこかに書かれているものではなく、自分の言葉で語るものである。
まとめよう。
カルトでは、質問に対して書物を引用することしかできず、自分の言葉で語ることができない。
それは、その人がその教えを本当にわかってはいないからである。
そして真の問題は、わかっていないのに書物を引用するだけで答えたつもりになってしまうところである。
・・・・・
宗教はカルトのことでも儀式や団体のことでもない。<--リンク
PS
バパのトークが大事な記録である事は、二代目のコトバ、「バパのコトバを変えてはいけません」という意見表明を待つまでもない事であります。
しかしながら、残念な事にバパのトークの編集が行われている様です。
それはつまりあまたのマスコミがやっている様に、「自分たちに都合の悪い所はカットする」という行為です。
そうして、そのようにカットし編集されたトークをあたかも「これがバパが語ったことの全てです」とでも言うかの様にライブラリーに保管します。
さて、そうなってしまうと後日、ライブラリーに保管されたものしか知らない会員は「これが正真のオリジナルだ」と思ってしまうでしょう。
しかしそこにあるのはまぎれもない「にせもの」であります。
1977年9月12日のトークがそのようにして編集され、ライブラリーに保管された様です。
何故そう言えるのでしょうか?
1978年10月に発行された日本語訳のトークを参照してみてください。
あるいは「アダムとその子供たち」のP65~ P74、それは参考文献の159からの引用部分ですが、それでも確認する事ができます。
その訳よりもライブラリーにあるトークは内容の一部が大幅にカットされている事に気がつく事になります。
さて、そのような行為を二代目は承諾したのでしょうか?
あるいは二代目に内緒でそのような行為を行ったのでしょうか?
いずれにせよ、そこにあるのは「真実のもの」ではありません。(2019年2月 記)
PS
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そうして「バパの記録は保存しなければいけません。」と。
全てのみなもとがそこにあるかのような主張であります。
それはまるで「聖典を作りたがっている」ようにも見えますね。
「聖典作り」はあまたの宗教がやってきたことであります。
教祖が生きた時をピークとしてそれをそのまま保存しようと。
そうやって変わることのない基礎を作りましょうと。
まあそういうことであります。
さて「変わることがないもの」とは「すでに固定している」ということですね。
「過ぎ去った歴史」ということであります。
そこには生命がありませんから何にでもコピーができます。
紙でも、電磁媒体でも、半導体でもガラスにさえ記録保存可能です。
そうして好きな時にiPadで呼び出せます。
でもラティハンはそういう訳にはいきません。
そうしてラティハンとともに生活していく人生もそんな風にはいきません。
好きな時に呼び出して参照できるようなものではありませんね。
時代というものは常に新しくなっていきます。
それに対応できないものは単に人々から忘れ去られるだけであります。
そうして、忘れ去られた記録になど何の意味がありましょうか?
使われなくなった記録、参照されない記録などに意味はありません。
そういう訳でバパのトークが意味をもつとすれば、それはラティハンが前提であります。
ラティハンを受けている、続けている人達の存在がまずは必要なことであります。
トークの保存はいいでしょう。
それでラティハンの保存はどうするおつもりですか?
いったいその事について2代目はどう考えておられるのか、疑問に思うことが多いのであります。
PS
時代というのは常に変化していくものであります。
状況は無限に変化していくのです。
そうしてその変化に対応できるものはまた生命をもつもの、「現実にその時に生きている我々」だけなのであります。
固定化した過去の情報をどれだけ集めてみたところで、それが出来るとはとても思えません。
手紙やらトークやらでバパが回答した全てのものを集めて「デジタル バパ」を作ってみたところで新しい状況には対応できないのですよ。
どれだけ集めてもバパはネットは知りませんし、iPadも知らないのですからね。
さて、バパから手渡された、生きたもの、生命があるものは「ラティハン」であります。
ですので頼るべきは「デジタル バパ」ではなく「ラティハン」であるのは明らかなことなのでありますよね、2代目さん。
PS
バパの新しいトークが出なくなりました。
↓
「トークの解釈」あるいは「トークの選択」によって「~ガイドブック」ができました。
↓
「~ガイドブック」が「教本化」します。
↓
「教本」ができたので「教義」がきまります。
↓
「教義」がきまりましたので、これで「宗教化」の完成です。
↓
・・・・・・
というような事にしてはいけませんよね。
バパも言っておられます。
・・・・・・・・
あらゆる宗教(に従う人)はラティハンヘ来て、そこで礼拝している。
若し、人が自分の固有のそういう本を受けたならば、その時には彼は最早、他の全ての本を受ける事はなくなるであろう。
何故ならば、そういう本というものはドグマだからである。
そして、一つのドグマは他のドグマと決してピッタリ一致はしない。
しかし、我々の会の中にはドグマはないのだから、そういう本、聖典はないのだから、 あらゆる宗教が我々の協会に入る事ができる。
或る宗教の信者が一度我々の会に入れば、彼に与えられるものは、彼の自我から、そして、彼の自我に合致して訪れて来る。
そこで、そういう人達は知るのだが、 宗教、つまり、真の宗教というのはナショナリスティックなものではない。
そこにはナショナリスティックなものはないのである。
「神は全ての人間にとって同じであり、一つであるから」という事を悟る事が出来るのである。
そして、各人が自分の性質に則って、添って受けるのである。
・・・・・・・・
(84・7・6 CDK)
PS
こんなことを言っている人もおります。
・・・・・
すべての問題について解き方や考え方を理解しろというのも無理な話だ。
問題は解き方や考え方を知らないことではなく、知らないままで満足してしまうことだ。
問題について答えを知っただけでよしとするのがいけないのだ。
宗教にとって教義や経典は答えである。
質問に対して経典のココにこう書かれていると答えるのは質問に対して答えだけを述べていることにあたる。
答えだけを言ってもしょうがない。
その答えに至る考え方も述べないといけない。
考え方というのはどこかに書かれているものではなく、自分の言葉で語るものである。
まとめよう。
カルトでは、質問に対して書物を引用することしかできず、自分の言葉で語ることができない。
それは、その人がその教えを本当にわかってはいないからである。
そして真の問題は、わかっていないのに書物を引用するだけで答えたつもりになってしまうところである。
・・・・・
宗教はカルトのことでも儀式や団体のことでもない。<--リンク
PS
バパのトークが大事な記録である事は、二代目のコトバ、「バパのコトバを変えてはいけません」という意見表明を待つまでもない事であります。
しかしながら、残念な事にバパのトークの編集が行われている様です。
それはつまりあまたのマスコミがやっている様に、「自分たちに都合の悪い所はカットする」という行為です。
そうして、そのようにカットし編集されたトークをあたかも「これがバパが語ったことの全てです」とでも言うかの様にライブラリーに保管します。
さて、そうなってしまうと後日、ライブラリーに保管されたものしか知らない会員は「これが正真のオリジナルだ」と思ってしまうでしょう。
しかしそこにあるのはまぎれもない「にせもの」であります。
1977年9月12日のトークがそのようにして編集され、ライブラリーに保管された様です。
何故そう言えるのでしょうか?
1978年10月に発行された日本語訳のトークを参照してみてください。
あるいは「アダムとその子供たち」のP65~ P74、それは参考文献の159からの引用部分ですが、それでも確認する事ができます。
その訳よりもライブラリーにあるトークは内容の一部が大幅にカットされている事に気がつく事になります。
さて、そのような行為を二代目は承諾したのでしょうか?
あるいは二代目に内緒でそのような行為を行ったのでしょうか?
いずれにせよ、そこにあるのは「真実のもの」ではありません。(2019年2月 記)
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