バパはイスラムでした。
そうでありますから、「唯一の神」とはバパにとってはアッラーであり、そうして強い信仰心をお持ちの様でした。
さて、そのようなバパが「ラティハンの道は宗教ではない」というのは、そもそも無理がありました。
そのように言うだけならばいいのですが、しかしながらバパのアドバイスの至る所に「唯一の神」は顔を出し、そうしてバパ自身も「神に対して信仰を持つように」と我々に勧めるのです。
そうであれば、バパと同じ系列の宗教に属している方々、それはアブラハムの宗教と言われるものでありますが、そのような方々は「わが意を得たり」とばかりの気持ちになります。
まあそのような気持ちが、そのような方々の中に留まっている内はまだいいのですが、「バパがこう言っている。だからあなたも神を信仰しなさい。」と人に言い出しますと困った事になります。
ラティハンの道をどのように歩くのか、という事は個人の選択の問題であって、他人がとやかく言えるものではないと思われます。
バパを筆頭にして「アブラハムの宗教に属している方々」はそのような「神に対する信仰心」をお持ちのまま、ラティハンの道を歩くことが確かにできるのでしょう。
しかしながら、アブラハムの宗教以外の宗教をお持ちの方も、そうしてそのような信仰をお持ちでない方もまた同様にラティハンの道を歩くことが可能なのであります。
そうであればバパは「ラティハンの道は宗教ではない」と言うのです。
そうして「宗教ではないラティハン」であるとすれば、それはどのようにして可能となるのでしょうか?
まずは最低限「ラティハンは良いものである」、「ラティハンはあなたの生活にとって必要なものである」というバパの主張は認めなくてはなりません。
それはバパの説明ではありますが、それを信頼してオープンを受ける事がなければ、まずは何事も始まりません。
そのあとは各自のラティハンの体験と、そうですね先輩方のお話と、そうして常日頃の生活体験を振り返りながら進んでゆく、もちろんバパのアドバイスは重要な道しるべでありますから、参考にしますが、「これはバパによる信仰の勧めだな」というところはパスとします。
そのようなやり方であっても、ラティハンの時にそこに働きかける力を信頼し、それに全託し、無心になる事ができればラティハンは何の問題もなく始まり続いていきます。
さて、宗教による救いとはひっきょう、その方の信仰心によるもの、「信ずる者は救われる」という様に理解しています。
他方で、ラティハンによる救いがあるとすればそれは「信じること」によるのではなく、実際に体験し、自分自身を修正しながら歩きつづけて、そうして到達できた場所、レベルによるものでありましょう。
そうでありますから、そのように歩き続ける事にプラスになる様な信仰心であれば、もちろんそれは大変に役に立つものであります。
しかしながら「自分は信仰によって既に救われている」という事で、ラティハンの道を歩くという事がおろそかになるとすれば、それはあまり有効ではない信仰心という事になりそうです。
PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。
さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。
それではラティハンではどうでしょうか?
ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。
そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。
さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。
追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。
バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。
そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。
そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。
したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。
しかし、本質はごまかす事はできません。
そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。
追伸2
さてそういう訳で「信ずる者は救われる(天国に行く)」と判断した方々は、それぞれの宗教に従っていく事になります。
かたや「いや、死後の生命については、死ぬ前に確認しておきたい」と考える者はラティハンに従ってそのような境地を目指します。
それはまた「ラティハンに従う事が天国に向かう事である」と判断した、という事でもあります。
そうであればバパがラティハンを広め始めた以降、この世界には天国に向かう2つの道が存在する事になりました。
一つは従来からある「宗教」という道であり、もうひとつは新たに登場した「ラティハン」という道であります。
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク
そうでありますから、「唯一の神」とはバパにとってはアッラーであり、そうして強い信仰心をお持ちの様でした。
さて、そのようなバパが「ラティハンの道は宗教ではない」というのは、そもそも無理がありました。
そのように言うだけならばいいのですが、しかしながらバパのアドバイスの至る所に「唯一の神」は顔を出し、そうしてバパ自身も「神に対して信仰を持つように」と我々に勧めるのです。
そうであれば、バパと同じ系列の宗教に属している方々、それはアブラハムの宗教と言われるものでありますが、そのような方々は「わが意を得たり」とばかりの気持ちになります。
まあそのような気持ちが、そのような方々の中に留まっている内はまだいいのですが、「バパがこう言っている。だからあなたも神を信仰しなさい。」と人に言い出しますと困った事になります。
ラティハンの道をどのように歩くのか、という事は個人の選択の問題であって、他人がとやかく言えるものではないと思われます。
バパを筆頭にして「アブラハムの宗教に属している方々」はそのような「神に対する信仰心」をお持ちのまま、ラティハンの道を歩くことが確かにできるのでしょう。
しかしながら、アブラハムの宗教以外の宗教をお持ちの方も、そうしてそのような信仰をお持ちでない方もまた同様にラティハンの道を歩くことが可能なのであります。
そうであればバパは「ラティハンの道は宗教ではない」と言うのです。
そうして「宗教ではないラティハン」であるとすれば、それはどのようにして可能となるのでしょうか?
まずは最低限「ラティハンは良いものである」、「ラティハンはあなたの生活にとって必要なものである」というバパの主張は認めなくてはなりません。
それはバパの説明ではありますが、それを信頼してオープンを受ける事がなければ、まずは何事も始まりません。
そのあとは各自のラティハンの体験と、そうですね先輩方のお話と、そうして常日頃の生活体験を振り返りながら進んでゆく、もちろんバパのアドバイスは重要な道しるべでありますから、参考にしますが、「これはバパによる信仰の勧めだな」というところはパスとします。
そのようなやり方であっても、ラティハンの時にそこに働きかける力を信頼し、それに全託し、無心になる事ができればラティハンは何の問題もなく始まり続いていきます。
さて、宗教による救いとはひっきょう、その方の信仰心によるもの、「信ずる者は救われる」という様に理解しています。
他方で、ラティハンによる救いがあるとすればそれは「信じること」によるのではなく、実際に体験し、自分自身を修正しながら歩きつづけて、そうして到達できた場所、レベルによるものでありましょう。
そうでありますから、そのように歩き続ける事にプラスになる様な信仰心であれば、もちろんそれは大変に役に立つものであります。
しかしながら「自分は信仰によって既に救われている」という事で、ラティハンの道を歩くという事がおろそかになるとすれば、それはあまり有効ではない信仰心という事になりそうです。
PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。
さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。
それではラティハンではどうでしょうか?
ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。
そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。
さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。
追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。
バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。
そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。
そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。
したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。
しかし、本質はごまかす事はできません。
そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。
追伸2
さてそういう訳で「信ずる者は救われる(天国に行く)」と判断した方々は、それぞれの宗教に従っていく事になります。
かたや「いや、死後の生命については、死ぬ前に確認しておきたい」と考える者はラティハンに従ってそのような境地を目指します。
それはまた「ラティハンに従う事が天国に向かう事である」と判断した、という事でもあります。
そうであればバパがラティハンを広め始めた以降、この世界には天国に向かう2つの道が存在する事になりました。
一つは従来からある「宗教」という道であり、もうひとつは新たに登場した「ラティハン」という道であります。
PS
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